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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

是枝裕和『海街Diary』

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『そして父になる』(2013)において、最後の最後まで福山雅治を葛藤させた「血か?過ごした時間か?」という問い。そんなものは何てことはないのだ、という素振りで長女(綾瀬はるか)は腹違いの妹(広瀬すず)に唐突に問いかる。

鎌倉に来ない?
4人でいっしょに暮らさない?

二女(長澤まさみ)と三女(夏帆)も当然のようにそれに同調し、幼い妹もまた、ほんの一瞬のためらいだけでその問いかけに首肯してしまう、それが『海街Diary』なのである。その女たちの大胆さにまず瞳を濡らしてしまう。では、彼女達のその決断を支えるのは何なのか。”血”ではないし、”過ごした時間”でもない。それは今作における最も映画的な運動、"同じ景色を見下ろす"という行為の共有に他ならない。であるから劇中において、彼女達は多くの坂道や山道を登ることなり、鎌倉に引っ越してきた四女の部屋も(わざわざ)階段を登った”2階”に位置されなければならない。父の葬儀の後、「この街であなたが1番好きな場所ってどこ」と訪ねられた四女が、街を見渡せる小高い場所に姉達を連れていく。どうやら、そこは2人の姉が住む鎌倉の風景に似ているらしい。山形と鎌倉、遠く離れた空間が緩やかに接続していくこの映画的快楽が、四女の居場所を移動させる。四女が自分の居場所に疑問を持つその時、必ずや姉妹は共に同じものを見下ろす。四人でして部屋の窓から見下ろす梅の木などが顕著だろう。本来"見上げる"のがふさわしい花火のシークエンスはどうだろうか。長女はその花火の存在に登ってきた坂の下から響いてくる音で気づく。三女はそれを音だけで感じ、バイト先で釣り糸を"垂らす"仕草に興じる。四女が二ノ宮(風吹ジュン)に花火大会に出かける事を告げると、「海に映る花火」を観る事を勧められる。実際、花火がカメラに収められるのは海面に映るその瞬間だ。つまり、彼女は花火を"見下ろす"。決定的なのは、花火大会を終えて家に帰ると、4人が庭先で花火をやり直す点にあるだろう。手持ち花火として、見下ろすのだ。
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そして、クライマックス。山形と鎌倉が緩やかに接続させてしまった場所に長女と四女が登り、風景を見下ろす。2人はそこで大声で叫ぶ。四女の叫び。

お父さんのバカー
お母さんのバカー

この叫びは、そのまま長女の叫びであり、長女と四女の存在がほぼ同一に混ざりあっている。思い返してみれば、四女の部屋は元々長女の部屋であり、花火大会で四女が着た浴衣もまた、長女のものであった。酔った時の乱れ方が似ている次女、食べ物の趣向が似ている三女、耳の形としょいこんでしまう所が似ている長女。そう、何故か長女と四女の共通点だけが劇中において1つならず、2つ言及されるのだ。不倫というネガティブなキーワードも2人の大きな共通点だ。同じ景色を"見下ろす"、その行為が遠く離れていながらも、よく似た2つの魂を強く結びつける。この感動こそが映画だ。


さて、ずいぶんと遅くなってしまったが、大傑作。文句なしで現時点、今年度No.1だろう。カメラ、照明、メイク、美術の全てが映画に見事に奉仕している。自転車で坂を駆けすべる広瀬すずの額に乗ったあの桜の花びらを貴方は観たか!?美しい鎌倉の四季と艶かしく収められる女優の身体。エリック・ロメールの「四季の物語」を一遍に収めてしまったような充実がここにある。そして、小津や成瀬、トリュフォーが撮らなかった、書けなかったであろうサッカーやナースの挿話の躍動には原作の吉田秋生に敬意である。


映画冒頭、長澤まさみの足を執拗に捉える。死者に足はない、という日本古来の考えに従うのであれば、彼女は生きた人だ。長澤まさみの足の長回しは”いる”人と”いない”人を描くこの映画の宣言となる。今作は驚くべき事に3回もの葬祭が描かれる。原作同様、決して我々に姿を見せない「ナースのアライさん」よろしく、"いない"人々の気配、すなわち、"死"の匂いが通底している。しかし、今作が描くのは喪失ではない。そこにもうその人が居なくても、流れていった時間は、消えていかないという事。時間や記憶は、建物や風景、もし食べ物(アジフライ、梅酒、シラス丼、シラストースト、ちくわカレー)に宿る。暮らす、見つめる、食す、その共有で、もうそこには居ない人々と交流し、それが今を生きる女たちの"生"を肯定していくのだ。