青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

cero『Obscure Ride』

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ほんの少し前まで「たとえ今後『My Lost City』以上のアルバムがリリースされなくても、僕はceroを愛し続けるのだな」なんて博愛を気取っていたものだ。

My Lost City

My Lost City

それほどに2012年のこの国の空気を目一杯刻印しながらも、普遍的なポップスタンダードの佇まいを見せる『My Lost City』というアルバムの存在は絶大だった。ところが、3年のブランクを経てリリースされた『Obscure Ride』はどうだ。その大きな存在をビュンと飛び超える堂々たる最高傑作。揺れるヒューマンビートが、ソウルミュージック然としたメロディーが、曖昧でスピルチュアルな物語に見事に奉仕している。はりめぐらされた情報の渦に飲まれそうになるも、サウンドから得られる感触はあくまでスムース。ポップに開けている。これが都会的スマートさってやつか。同時代に彼らと出会えた事に、驚きと感謝。あまりの感動と愛で、膨れ上がった感想を上手に纏め上げる事ができそうにない。不本意ながら項目ごとに区切っていくという反則技で、この『Obscure Ride』という大傑作への覚え書きを進めていこうと思う。



小沢健二cero、そして新しいシティポップ>

巷でさかんに行われた「シティポップ論争」は、現在使われている”シティポップ”は旧来のライトメロウサウンドを差すシティポップとは別のものである、という事で一旦の区切りをつけている。現行のシティポップのムードは

見せてくれ 街に棲む音 メロディ

という小沢健二の「ある光」のこのラインに集約されていると言っていいだろう。補足をするのであれば、フィールドレコーディングというアイデアを元に、街と暮らしの音を音楽に仕立てあげた口ロロの傑作『everyday is a symphony』 (2010)がそこに加わる。

everyday is a symphony

everyday is a symphony

『Obscure Ride』にも、冒頭の「C.E.R.O」の電車音などに顕著だが、いくつかのフィールドレコーディング音が装飾されている。そして、モードを決定的にしたのが2012年に小沢健二が敢行したコンサート名『東京の街が奏でる』だろう。こういった系譜がリアルライフミュージックとしての新しいシティポップだった。しかし、ceroは2ndアルバム『My Lost City』の最終曲「わたしのすがた」において

シティポップが鳴らすその空虚、フィクションの在り方を変えてもいいだろ?

と宣言し、”シティポップ”の表現の枠を更に押し広げる事となる。煌びやかな街の灯りとそれが作り出す暗闇、その両方を描き出す事で、真の街の音楽と言えるのではないか。その為、より強度を高めて導入されたマジックリアリズムの手法は、都市の闇に潜むゴースト達を炙り出していく。そして、同時により得体の知れない大きな存在を呼び起こす事となる。

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう


「Orphans」

この街のうえに おちる 巨大で優しいまなざしに 
子どもたちは気づいている


「DRIFTIN'」

美しいことも争いも全て天使たちの戯れだとしたら


「夜去」

そう、ときに直接的に言及される、”神”である。

神様はいると思った

これはやはり「ある光」のラインである。今作を小沢健二ディスコグラフィーになぞらえると、サウンド的には『Eclectic』の継承と書き換え、という風に言われている。

Eclectic

Eclectic

しかし、フィーリングの面でみれば「ある光」との共鳴がある。すなわち、ceroによる、アーバンブルースへの貢献。つまり、“新しいシティポップ”とは、「生きることを諦めない強さをくれる、賑やかな場所でかかり続ける音楽」のことではないか。しかし、驚くべき事にリーダーの髙城は『Eclectic』以外の小沢健二を聞いた事がないらしい。ジーザス。



<若者的音楽最高峰cero

かつての”くるり”がそうであったように、現在のceroは若いリスナーの耳を教育してくれる存在だ。かつて、くるりの『TEAM ROCK』(2002)

TEAM ROCK

TEAM ROCK

を理解する為にDAFT PUNKやUNDERWORDやMy Bloody Valentineなど背伸びして聞いていた高校生の私。ジャズ、もしくはアルゼンチンやブルガリアなどの音楽を聞いてみよう、と思えたのもくるりがきっかけであった。そんな美しい循環現象がこの『Obscure Ride』によって若い世代に巻き起こる事だろう。今作でceroが示してくれた揺れるリズムへの解釈はPrince、J Dilla、D'Angelo、Robert Glasperといったブラックミュージックへのアクセスの恰好の材料になるはず。他にもインタビュー等で挙げられているアーティスト名をざっと拾うだけでも、Sufjan Stevens、Jim O'Rourke、Talking Heads、Marcos Valle、Milton Nascimento、大瀧詠一細野晴臣、SIMI LAB、s.l.a.c.k. etc・・・とceroの折衷主義的マッシュアップ感覚は、無数の音楽への扉を開いてくれる事だろう。個人的にもここに挙げられていくアーティストは、昨今のマイヒーローばかりであり、意識的にも無意識的にも今のリスニングの気分はceroによって形作られているのかもしれない。



<デヴィット・リンチ『マルホランド・ドライブ』との類似性>

『Obscure Ride』を聞き、無性にリンチの『マルホランド・ドライブ』が観たくなり、レンタル屋に走った。

マルホランド・ドライブ [DVD]

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ナオミ・ワッツ演じる女優の卵と記憶を喪失(!)した謎の女性(ローラ・ハリング)が、夢か現か定かでない2つの世界を彷徨う姿を通し、ハリウッドの光と影を描いたリンチの代表的映画作品だ。今作の最も美しいシーンはこう。2つの世界、そのどちらでもない場所である「クラブ・シレンシオ」において、もう本当は"いない"はずの人と、別の世界では為すことのできなかった約束、気持ちの共有を果たす。
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それも、音楽を通して!『Obscure Ride』もまた、街を彩る光と影を描きながら、違う世界に行ってしまった人との約束を果たす、という構成をもっていたはずだ。どうだろう、この不思議なリンクに興奮を覚えないだろうか。『マルホランド・ドライブ』にも、2つの世界を行き来する邪悪なのか聖なるものなか定かではない”カウボーイ”や”浮浪者”という存在が登場する。これは、『Obscure Ride』がマジックリアリズムで立ち上げたゴーストや神様にとてもよく似ている。他にも”出ずっぱりで化粧の落ちたドラァグクイーン"や"ドライブ"、2つの世界を繋いでしまうの”電話”だとか、共通点を持ったキーワードが頻出する。ceroの面々が製作にあたり『マルホランド・ドライブ』を念頭に置いていたかは定かではないが(おそらくNOだろう)、人称や時間軸、世界の境界の曖昧性を突きつけ、リスナー自身に体験として物語を紡ぎ直させる、という今作におけるceroの態度は非常にリンチ的と言える。



では、ここからは『Obscure Ride』に流れる”物語”のようなものについて掘り下げていきたい。前述の通り、今作におけるceroの創話はリンチ的であり、『WORLD RECORD』

WORLD RECORD

WORLD RECORD

における「21世紀の日照りの都」に降り注いだ大雨から続く物語の続編として、その大きな流れを説明していくのは容易くない。今作は、アルバム内の中の1つ、1つの事象の点滅するグルーヴの集積によって成り立っている。そこで、何か大きなフィーリングが描かれているのは確かなのだ。

”影”のない人とは

別の世界からやってきた人々には”影”がないらしい。何故か?それは別の世界の人々は、こちらの世界の影そのものだからではないだろうか。影そのものに影がないのは当然だ。もちろん、別の世界から見れば、こちらの世界が影なのである。つまり、パラレルワールドというのは、かけ離れた2つの世界という事ではなく、鏡面関係のようなものと考えられる。

夜は遠のくにつれ 近づいてくるんだ

シングルとしてもリリースされた「夜去」は、”よ(る)さり”と読む。これは夜明けを意味するのでなく、夜の訪れを表現する言葉らしい。調べてみると、日本語の「去る」という言葉は”遠のいていく”という意味の他にも“来る”“近づいてくる”という意味も持ち合わせているようだ。ceroは既に1stアルバム『WORLD RECORD』に収録されている「ターミナル」の中でこの感覚について歌っている。

夜は遠のくにつれ 近づいてくるんだ

これは“輪廻転生”の考えを根底に持つ仏教の国ならではの感覚だろう。そしてそんな循環のフィーリングは、「死に行く母と生まれ来る子ども」という状況におかれた髙城晶平の心情と共に『Obscure Ride』を決定づけるトーンになる。

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

「忘却」と「約束」は今作の重要な2つのキーワードだ。では約束とは一体何を指すのだろう。これには無数の解釈が存在していいのだけど、このエントリーでは「C.E.R.O」において、再び登場したこんなラインに注目したい。

蛇の目を持ったお母さんがわたしを迎えに来てくれるはず

どこかで聞き覚えのあるライン。そう、童謡「あめふり」の歌詞であり、それを引用したceroの初期の代表曲「21世紀の日照りの都に雨が降る」のラストリリックだ。

あめあめふれふれ かあさんが
じゃのめでおむかえ うれしいな

しかし、ご存知の通り、この大雨は『My Lost City』で描かれるように、大洪水を引き起こし、街は海に埋もれる。つまり、母は傘を持って子どもを迎えに行く事を果たせなかったのに違いない。当然、この"母"というのは、楽曲名にもなっている「ROJI」をかつて切り盛りしていた髙城晶平の亡き母のイメージが重ねられているのだろう。ならば、約束は守られなければならないはずだ。

曖昧な乗り物

ceroマジックリアリズム的手法で立ち上げた2つのパラレルワールド、それを行き来すること。そして現れる神様。これらは何を意味するのか。いくつかの歌詞を手がかりにしてみよう。

いいところだよ その気になりゃ 死人だって騒ぎだす


「C.E.R.O」

いなくなった奴も何いかいるけど
どっか他所で変わらずにいるだろうさ


Roji

(別の世界では)
2人は姉弟だったのかもね


「Orphnas」

前述した輪廻転生の概念をceroははっきりと歌っている。つまり、2つの世界を行き来きするというのは、居なくなってしまった人々との交流であり、その到達が描かれる「FALLIN'」はあまりに感動的だ。

遊ぼう 夜を超えて どこかへ
身体なんて捨て去ってさ

もしかしたらそれは夢の中で一瞬の出来事、すぐに忘れてしまうかもしれない。しかし、何度でも思い出そう。我々の身体と魂は、メロウに揺れるビートさえ聞けば、世界を行き来きすることのできる曖昧な乗り物”Obscure Ride”なのだ。ついに日本語による等身大のソウルミュージックが登場したのである。ユリイカ