青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『カルテット』2話

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言葉と気持ちは違うの!

この家森諭高(高橋一生)の叫びがまさにこのドラマの見方を端的に示している。巻真紀(松たか子)が「わたし、弾けない」「無理です、わたし上手く弾けません」などと囁けば、次のカットでは必ずや活き活きとヴァイオリンを演奏する彼女の姿が見られる。喋る言葉が全てではない。人というのは、言葉とは裏腹、その仮面の下にはどんなものが蠢いているかわからない。ドーナッツの穴のように何かが欠けていて、思ったことを上手に言葉にできない不器用な大人達のラブサスペンスである本作においてはなおのことだろう。本当の”想い”は実に些細な身体の振動やその視線の先に、零れ落ちる。そんな坂元脚本のミューズである満島ひかりの繊細な演技に割目せよ。別府司(松田龍平)の『人魚 対 半魚人』のDVDいじりが自分にも回ってくると思って差し出した手の動き(回ってくる前に巻が放り投げてしまう)、別府とベンチに並ぶ時に少しだけスペースを空ける時のさりげない身体の移動。



さて、ドーナッツは『カルテット』の重要なモチーフであるが、今話においては同じような形状のものがたくさん登場する。九條とその婚約者のホットな話題であるタイヤ、カーリング(あれは穴を埋めるスポーツなのだ!)、更に簡易YOSHIKIなりきりセットとしてのコルセット。ドーナッツホールカルテットが一斉にその穴にすっぽりとはまるシーンまで用意されている。そんな2話の主役は松田龍平演じる別府司。世界的指揮者を祖父に持ち、軽井沢に別荘まで有する小沢健二的おぼっちゃまであるわけだが、そんな彼にも何やら大きな”空白”があるらしい。例えば、”世界の別府ファミリー”と呼ばれる親類3人のコンサートに、同じく音楽家でありながらも、参加できていない。彼は、既に1つの”カルテット(4人組)”からつま弾かれた存在である事が窺える。そして、巻真紀に対して何やら少しうしろめたい秘めたる想いを抱いているようで・・・



この2話で驚いてしまうのは、まずもってあまりにも豊かな細部の躍動だ。みかんつめつめゼリー→デコポン→おっぱい→谷村さんの谷間→みかんつぶつぶジュース、山盛りポテトフライ→ポテトジェンガ、なんていうイメージの流動も流石の一言であるし、「時の流れに身をまかせた 愛人は つぐなうことになりますから」と台詞にテレサ・テン重ねを入れ込むなんて遊び心も楽しい。猫を愛する別府司と世吹すずめ(満島ひかり)の「3位 3位ですねー」は、『最高の離婚』の光生(瑛太)以来の「好きな動物ランキング」で胸躍る。*1朝焼けのベランダで食べるサッポロ一番(醤油味)だとか、「こういうのは今日だけのことだよ」「それがわたしと君のクライマックスでいいんじゃない?」という台詞(&菊池亜希子の発声)の素晴らしさ、X JAPAN「紅」でXジャンプを決める面々に、歌の合間に「それ、この曲じゃないから」と早口で諭す松田龍平etc・・・こういうのを拾い出したら限がないのですが、とにもかくにも、坂元裕二の筆が乗っている事が伺えます。



そして、そんな細部を支えるロジックめいた脚本構成に更に驚く。ラブラブストロベリーか/ロックンロールナッツか(すなわち右手か/左手か)、かわいいカフェか/チェーン店か(すなわち巻真紀子か/九條結衣か)、人魚か/半魚人か、運命か/偶然か、本音か/建前か、いるのか/いないのか、・・・と様々な二択の対比構造が散りばめられている。中でも、「赤と白」という対比が2話全体のモチーフだ。食卓ではブイヤベース(赤)を目の前にして、餃子(白)の話題で盛り上がり、カラオケで歌われるナンバーはSPEED「White Love」(白)とX JAPAN「紅」(赤)である。言及するまでもないが、この選曲にはそれを歌う九條と別府の、言葉にならない気持ちが込められている。

果てしない あの雲の彼方へ
私をつれていって
その手を 離さないでね


SPEED「White Love

お前は走り出す 何かに追われるよう
俺が見えないのか すぐそばにいるのに


紅に染まったこの俺を 慰める奴はもういない
もう二度と届かない この思い
閉ざされた愛に向い 叫びつづける


X JAPAN「紅」

中でも白眉の演出は、世吹すずめが、別府司の手に乗せられた2つのアイスのどちからを選ぶシーンだろう。右手にはラブラブストロベリー、左手にはロックンロールナッツ。「右手で興味をひきつけて…左手で騙す」という鏡子(もたいまさこ)の挿話をなぞるように、「左手で」とロックンロールナッツを選択をするすずめ。別府に対して「家森さんが好きです」という虚実の愛で興味を惹きつけ、自白を強要した事を悔いるようでもあるし、”左手”を選ぶことで、自身の別府に対するストロベリーラブを偽ってもいるようである。



重要なのは、そういった対比構造で何を描きたかったのかであろう。「二兎を追う者一兎を得ず」といったような"選びとる必要性"を説いているわけでは決してない。1つを選ぶ必要はない。

はっきりしない人は
はっきりしない はっきりとした理由がある

のだから。すずめが着ているスウェットの色が薄いピンク(赤と白が混ざり合ったような)である事が示唆的だ。ブイヤベースと餃子の赤と白の対比にしても、「これに餃子入れたら・・・」と結ばれていたことを思い出そう。九條が別府に譲渡したマフラーの”赤”は、別府が想いを寄せる巻の白いニットの上に重ねられた鮮やかなベストの色として移り変わる。「紅」と「White Love」にしても、それらは混ざり合い、”紅白”として結婚式というハレの日を祝福する。巻との出会いを彩る大切な曲である「アヴェ・マリア」が九條との思い出の曲である「White Love」と混ざり合う別府の独奏ときたら!あの娘に向けた”好き”も、別のあの娘に向けた”好き”も、全部消えずに一塊に混ざり合って、今の”好き”として放たれる。そして、一度発生した”想い”は消えない、という証明であるかのように放たれる巻の「わたし、宇宙人見ました」という台詞の瑞々しさよ。別府が抱いた想いは確かに存在したのだ。



すなわち、坂元裕二はあらゆる対比構造を撒き散らしながらも、「あいまいなものはあいまいなままでいい」という結論を用意している。それはどこか祈りのようなものである。坂元裕二は『それでも、生きてゆく』(2011)において、殺人事件の加害者家族であろうとお洒落をして笑っていいし、被害者家族であろうとAVを観ていいし、デートをしていいのだ、というような事を書いた。野木亜紀子の『逃げるは恥だが役に立つ』(2016)のようにわかりやすい形ではないが、坂元裕二もまた「こうでなくてはならない」という規範のようなものと、常に闘い続けている作家であるのだ。人はどんなに落ち込んでいようと、腹が減れば飯は美味いし、テレビがおもしろければ声を出して笑ってしまう。夫が失踪してショックを受けた日の翌日であろうと、気の知れた仲間とのパーティーであれば笑顔で写真に写ることもあるだろう。そんな風に思うのです。

*1:ちなみに濱崎光生さんの2013年度の1位はエミューだそうです。