クリント・イーストウッド『ハドソン川の奇跡』
上空850メートルで鳥の群れとの衝突という不慮の事故により、エンジンが停止してしまったUSエアウェイズ 1549便。積み重ねた経験に裏打ちされた類まれなる判断力と機体操縦力で、1人の死亡者も出さずに機体をハドソン川に不時着させてみせた機長は一躍、時の英雄として祭り上げられる。しかし、安全委員会の執拗な事故調査により、機長は自分の下さい判断の”正しさ”が揺らぎ出す。ニューヨーク市街の高層ビルに飛行機が突っ込む。機長のうなされる悪夢が、何の前触れもなく劇中で何度もインサートされる。当然、想起されるのはあの9.11同時多発テロの記憶だろう。つまり、トム・ハンクスが演じているのはアメリカそのものだ。ニューヨークの街を救ったヒーローとしてのアメリカの良心であるし、あの「9.11のテロ」を引き起こしてしまったアメリカでもある。とても混乱している。凍てつくような(しかし、美しい)ニューヨークの街をトム・ハンクスがランニングしてみせるショットが印象的で、その姿に同じくトムがアメリカの歴史を背負って演じてみせたロバート・ゼメキスの『フォレスト・ガンプ』(1994)が重なる。
上映時間はまさかの96分。驚異的だ。無駄がない、というわけではない。何やら重大そうな機長の家庭の問題は妻との電話であっさりと処理され、重厚なドラマが潜んでいそうな過去の回想はサクっと二度だけ振り返り終了。その選択と切り捨ての潔さでもって、余談とでも言っていい、多用な人物の枝葉を拾ってみせる。副機長が50ドルで購入したスニッカーズ、ニュース番組のメイク担当の母親の挿話、宿泊するホテルの従業員マネージャーとのクリーニングのやりとり、心優しき航空管制官の涙、など鮮烈な印象を残すエピソード達。こういった市民の息づかいでもって、イーストウッドは、USエアウェイズ1549便不時着水事故「搭乗者155名」というその記号性にひたすら抗ってみせる。155名とはずいぶん小振りの飛行機だったんだな、と思うかもしれない。いやいや、その日の飛行機には本当にたくさんの人が乗っていた。娘と孫の為にスノードームを購入した脚の悪い女性がいて、シアトル旅行でのゴルフを楽しみにしている父と息子がいて、隣に座った赤ん坊をあやす心優しいビジネスマンがいて・・・クレジットを眺めてみると、彼らにはルシール・パルマー、ロブ・コロジェイ、バリー・レオナルド・・・といったようにはっきりとした固有性があてがわれている。あの聡明で勇敢なベテラン客室乗務員らも、シーラ・デイル、ドナ・デント、ドリーン・ウェルシュと、スチュワーデスA、B、Cというような扱いは決してされていない。これはイーストウッド流の『君の名は。』(2016)*1なのだ。今作のタイトル(原題)が『Sully サリー』というトム・ハンクス演じる機長の愛称である事が何よりの証左だろう。その態度は「9.11犠牲者」という匿名性に埋もれた様々な名前と顔へのレクイエムのようでもある。