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ルドウィク・J・ケルン『すばらしいフェルディナンド』

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ルドウィク・J・ケルンは日本ではあまり評価されていないのだろうか。ポーランドの児童文学作家なのだが、Wikipediaにも項目は存在しない。日本語に翻訳されている作品は3作品。その内の1冊『ぞうのドミニク』は福音館で文庫化しており現在も入手可能だが、『すばらしいフェルディナンド』『おきなさいフェルディナンド』という2冊のマスターピースは現状手に取りづらい状況にある。岩波書店から刊行されたにもかかわらず、岩波少年文庫入りを果たしておらず絶版中。とは言え、稀に古本屋で見かけることもあるので、1960年代の発売当時にはそれなりの人気を博した作品なのかもしれない。


これがもう底抜けにおもしろい。都会的でスマートなトーンを醸しながらも、とびきりにナンセンス。話の筋を少し紹介してみよう。とある夫婦の飼い犬であったフェルディナンドが、突然あることを思いつく。

もし、このぼくが、ソファからたって、げんかんのドアのところまでいったら!階段に出て、この二本足でたってみたら!このうしろの二本足で!
「フェルナンド!」フェルナンドはさけびました。
「すてきだぞ!」

こうして始まるフェルナンドの冒険。犬が人間のふりをして街に出るわけだから、それはもう波乱に満ちているに違いあるまい。しかし、そこかしこに散りばめられた”嫌な予感”はことごとく裏切られ、事なきをえていく。強引なまでの展開で”めでたし めでたし”へと収束していく。その筆運びの幸福感ときたら!二本足で歩くフェルディナンドを、誰もが当たり前のように人間と認識するのだ。それどころか、「立派だ」「素敵」とこぞって褒め称える。「あいつは犬じゃないか!」と指を差すようなやつは1人として現れない。ルドウィク・J・ケルンが夢想するあらゆる差別のない世界。第二次世界大戦中、ナチスによる悲劇が繰り広げられたポーランドという土地柄を想えば、そこに込められた祈りの切実さを感じとってしまう。またその筆致は、どこか藤子・F・不二雄のそれを彷彿とさせる。

ドラえもん (1) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん (1) (てんとう虫コミックス)

もはやあたりまえのことのように受け入れているが、『ドラえもん』の世界において、ドラえもんが何ら異物として捉えられていないのは、尋常ならざることだ。20世紀の世の中にいきなり二足歩行の青色の猫型ロボットが現れる。「ロ、ロボットだー!」と町中の人に騒がれるシーンがあってしかるべきだが、そういった描写は存在しないのである*1。それどころか「野比さん家のドラちゃん」なんて風に認識されてすらいる。当たり前のように、人々の日常の中に受け入れられている。その在り様がたまらなく胸を打ちやしないか。この『すばらしいフェルナンド』には、そんな『ドラえもん』に横たわる温かいフィーリングと同質のものが貫かれているように思う。


一方で、ひとたびフェルディナンドが四つん這いになろうものなら、すぐさま犬として扱われ、ホテルやお店から追い出されてしまうというような描写もある。ちょっとした見た目の変化だけで、態度を変える人間のありようを風刺しているようだ。しかし、そんな人間の愚かさも愛くるしく描かれている。フェルナンドもまた「ご立派!」とチヤホヤされながらも、実のところ、いい加減、嫌みったらしく自分勝手なところが往々にしてある。犬でありながらも、どこまでも人間くさくて愛らしいのだ。そして、資本主義を心から楽しんでいる。フェルナンドが二本足で歩き始めてまずするのが、どこまでも上等な洋服を仕立てることなのです。美しいブルーのジャケットに、あぜおりのワイシャツ、そこにシマのネクタイをしめて、これまた上等な靴を履き、山高帽で完成。フェルナンドはとびきりお洒落な紳士なのだ。


カジミシュ・ミクルスキによる色彩豊かでいてブルージーな挿絵もいい。フェルナンドはどのページにおいても眠たげな眼で描かれている。実際、フェルナンドは雨降りの中、1週間ぶっ通しでホテルで眠り続けたりするのだ*2。都市と眠りと雨。そんな風にして、そこはかとなく暗示されてはいるのだが、物語は夢オチで幕を締める。しかし、夢の中のできごとが、少しだけ現実に作用している。「夢だけど、夢じゃなかった」というスタジオジブリ的なフィナーレ。オススメです。

*1:もちろん、私の記憶の中にあるかぎりですが

*2:この降りしきる雨の描写がまことに素晴らしいので、ぜひとも実際の本を手にとってご覧頂きたい

最近のこと(2018/01/20~)


Lampの4月に発売されるニューアルバム『彼女の時計』よりリード曲「Fantasy」のMVが公開。ワンマンのチケット買いそぶれてしまったが、アナログ盤は絶対にゲットしたいものです。とてつもなく寒い日々が続いておりますが、すでに花粉は飛んでいて、コンビニにはいちごサンドが、洋服屋さんにはパステルカラーが立ち並んでいる。記録的な寒波に襲われながらも、春の息吹きを感じなくてはいけないのは忙しい。だけども、春はなにかとドキドキしてしまうので、少しずつ忍び寄ってくるくらいがちょうどいいのかもしれない。いきなり「はい、明日から春です」だなんて言われたら、まともな神経だったらイカれてしまうでしょう。「セブンイレブンのいちごサンドと言えば、BUMP OF CHICKEN藤原基央」という10年以上前に植え付けられた情報が未だに頭にこびりついていて、コンビニで見かける度に「状況はどうだい?」と思ってしまう。永遠に22歳くらいイメージのBUMP OF CHICKENのメンバーは2018年、何歳になったんだろうとウィキペディアで調べてみたら、38歳だった。思っていたよりずっと若いが、元ジャイアンツの村田修一より年上なのだと思うと、驚いてしまいますね。『ロストマン/ sailing day』がリリースされた頃、高校生だったのですが、大学生のお姉さんに「ロストマンsailing dayどっちが好き?」と聞かれて、ロストマンと答えたら、「ふーん、わかってるって感じだね」と言われてドキマギしたという思い出を捏造して残しておきます。



先々週のことは、もう記憶が朧気なので細部は泣く泣く、省略したい。しかし、小室哲哉の引退宣言は衝撃的だった。ちょうど私の中でglobeのリバイバルブームが巻き起こっていて、2ndアルバム『FACES PLACES

FACES PLACES

FACES PLACES

を買った(ブックオフでですが)翌日に記者会見、数奇な運命を感じました。ちなみにglobeのアルバムは、悪くないのだけども、シングル曲があまりに良すぎるので、クオリティのバラつきを感じてしまうところがある。「Can't Stop Fallin' in Love」はちょっといい曲過ぎるぞ。

今となってはこのMV泣けてしまう。小室哲哉の歌詞に通底する”哀しさ”はどんなに時代が変わろうとも、古びない。そして、とにかく乱暴なまでに引きのあるフレーズで構成されているのだなと改めて気づかされる。「踊る君を見て恋がはじまって/あなたの髪にふれ/私ができること 何だかわかった」とか「鏡に映った あなたと2人/情けないよで たくましくもある」とかもうほとんど何言っているのか意味がわかないにもかかわらず、とにかく耳に、心に残るものがあるのだ。私はちょうど音楽に興味を持ち始めたころに小室ブームが直撃の世代なので、刷り込みが凄い。安室奈美恵の曲を作っているのが小室哲哉で”室”繋がり、そういうどうでもいいことに世界の秘密が隠されている気がしたものだ。



土曜日。ロロの『マジカル肉じゃがファミリーツアー』がもう1回観たくなったので、タイムズで車を借りて横浜まで向かう。電車のほうが早く着くのだけども、車のほうが断然気分が良い。小さめの車が好きなのですが、カーシェアリングやレンタカーなどにラインナップされている国産の小型車は乗り心地があまり良くない。となると、やはり外車なのだろうか。フォルクスワーゲンのポロやビートルに乗ってみたいので(お店に試乗に行く勇気はない)、誰か迎えに来てください。甲州街道の左側車線で待っています。途中、国道沿いのマクドナルドのドライブスルーでホット珈琲を買った。ドライブスルーってちょっと特別な気がして、好きだ。車を1時間半ほど走らせたところで横浜に到着。まもなく開演時間だったので、KAATの裏にある蕎麦屋でお昼を江戸っ子のようにせっかちに食べる。しかし、蕎麦湯までしっかり堪能した。なにやらとても美味しい蕎麦湯を出すお店だった。『マジカル肉じゃがファミリーツアー』は2回目のほうがずっと感動してしまって、「これはもしやロロの最高傑作では・・・」とすら思った。1回目は最前列で、2回目は最後列で観たのだけども、後ろで観るほうがあの素晴らしい舞台美術をより堪能できた。回転していく舞台転換は、ディズニーランドとか豊島園のライドアトラクションの感じがありました。名づけることとかイマジナリーフレンドについて、感想の断片をメモ書きしてあるのだけども、まとめる余裕がありませんでした。とにもかくにも、現在の三浦直之の書くものは見逃し厳禁だ。ロロはどんどん凄くなっていく。こういうこと書かないほうがいいと思いつつ、マームとジプシーをターンと追い抜いてください。帰りにいか文庫の展示を観て、フリーペーパーを頂く。いい本がたくさんオススメされていた。『おべんとうの時間』という本を買うことに決めた。

AIR

AIR

帰りの車内では劇中で歌われたRAG FAIRのアルバム『AIR』を聞いた。『力の限りゴーゴゴー』のハモネプはほとんど観ていなかったのですが、RAG FAIRの楽曲は好きだった。「ラブラブなカップル フリフリでチュー」「あさってはSunday」はもちろんだが、「tea time lover」「帰り道」「空がきれい」あたりも良いのだ。彼らのソングライティングは過小評価されているように思う。この日は上板橋のお寺でThe High Llamasのショーン・オヘイガンのライブがあったらしい。ショーン・オヘイガンが板橋区に来るだなんて。もっと早く知っておけば・・・とハンカチを噛んだ。『Hawaii』を聞いて心を慰める。
Hawaii

Hawaii

横浜からの帰りに、超優良施設「鶴見ユーランド」に寄る。ひさしぶりだったが、やはり最高のサウナと水風呂。水風呂の温度計は9℃を記録していた。熱々の身体があっという間に冷え、気づけば脳内に幸福物質がドバドバ流れてくる。外気浴もできるのだけども、浴場内の窓際に置いてある椅子がお気に入り。水風呂に同じタイミングで入った人が「あぁっ、凄い!凄い、凄い、ぁぁっ!凄い、凄いよ」とずっと1人で小さく叫んでいて、笑ってしまった。その後、施設で見かけなかったので逮捕されてしまったのだと思う。サウナのテレビで大相撲と『歌う!SHOW学校』を観ました。服部良一特集で五木ひろしが「蘇州夜曲」や「銀座カンカン娘」を歌っていて、とてもよかった。服部良一のソングBOX欲しい。サウナと言えば、大町テラスさんの漫画『わたしをサウナに連れてって』がかわいくておもしろいです。

Vol.1は「おふろの王様光が丘店」だった。この施設は私もたまに行く。バカみたいに広いサウナと塩素臭バリバリの水風呂で、決して優れた施設ではないのだけども、ジャンクなものを求める、みたいな気持ちでなぜか足が向いてしまう。わたしが権力に弱いというのもあるかもしれない。寺村輝夫の『ぼくは王さま』も大好きだった。
ぞうのたまごのたまごやき (寺村輝夫の王さまシリーズ)

ぞうのたまごのたまごやき (寺村輝夫の王さまシリーズ)

ぞうのたまごのたまごやき、という語感がたまらくいい。こちらを元にした人形劇も観に行った記憶がある。寺村輝夫は『かいぞくポケット』や『わかったさんのおかしシリーズ』も読んでいて、永井郁子の挿絵が好きでした。
なぞのたから島 (かいぞくポケット 1)

なぞのたから島 (かいぞくポケット 1)



日曜日。注文した本棚が届く前に、部屋の模様替えと年末にできなかった大掃除を敢行する。始めるのは億劫だが、一度やり出すと、凝り出してしまうのが掃除だ。夕方に日暮里まで出て、いわゆる「谷根千散歩」というやつを堪能した。なんで今まで来たことがなかったのだろうというほどに楽しい街だった。古本屋、餡子、珈琲、芋けんぴ・・・私の好きなものしかない。初めて生で観る「ゆうやけだんだん」にも感動。「古書ほうろう」と「古書信天翁」の品揃えが楽しくて震えた。「ひるねこBOOKS」も最高。店内にはうつくしきひかりのアルバムが流れていた。児童書を中心に古本を大量に買い漁って、大満足で帰路に着く。あまり時間がなかったので、またゆっくり遊びに行きたい。『A子さんの恋人』のA太郎が住んでいるのはここらへんなのだ。近藤聡乃と言えば、待望の新刊『ニューヨークで考え中』2巻も素晴らしかった。

ニューヨークで考え中(2)

ニューヨークで考え中(2)

絵はもちろんのこと、思考のノートとして抜群におもしろい。



月曜日。東京の街に雪が降った。想像以上にガシガシ積もって、職場に早めの帰宅命令が出た。いつもとちょっと違う風景に、早引きということで、だいぶウキウキした気持ちで帰路に着いたが、首都圏の交通機関が打撃を受けたことで、翌日からの仕事はてんてこ舞い。やっぱり雪を楽しめる歳ではなくなってしまったようだ。小さい頃は、雪が降って積もってくれるなら寿命が縮んでもいいくらいに思っていた。カマクラを作った経験はないが、雪だるまは必ず作った。どうしても絵本や漫画の雪だるまを作ってみたくて仕方なかった。しかし、ちょうどよく目になるものが見つけらない。あの所謂、雪だるまって感じのやつ、目は磁石などを使っているのだろうか。あと、小さい頃の冬の思い出シリーズなのですが、プラスチックのコップに水を入れて、一晩中外に置いておいて、朝起きた時に凍っているさまを眺めるのがたまらく好きだった。理科を学ぶ前の私は素直に魔法みたいに思えたのだ。



火曜日。1日中電話をしていたような気分。夜は友人たちと池袋は外れの中華屋で食事をした。『勝手にふるえてろ』を全員観ておくように、と伝えたところ、ちゃんと全員観ていたのだけども、話題に挙げるのをすっかり忘れていた。たぶんみんな気にいったに違いない。私は先週もう2回目を観に行った。アフタートーク黒沢清が登壇。とてもかっこよかった。ユルリとしたモーションで鋭いことをバシバシ指摘していた。メンバーの内2人は、ロロの『マジカル肉じゃがファミリー』も観に行ったそうだ。『父母姉僕弟君』を無理矢理観に行かせたところ、気にいってくれたらしい。役者が全然違う印象になっていたことに驚いていた。私は、篠崎大悟演じる湾くんが凄く好きで、下の兄弟たちとしっかり遊んでくれる感じとか、夕食をちょっと残してしまった時にお母さんに「美味しかったよ」と言い添えることを忘れないところとか、泣いちゃう。中華屋を出て、ドーナッツショップで珈琲を飲んで解散した。



水曜日。松屋のチーズダッカルビ定食が食べたいと思うも、お店に入ったら品切れになっていた。とてつも人気らしい。ココナッツディスク池袋でSaToAのミニアルバム『スリーショット』を購入。最近、ついにブックオフで発見したGOMES THE HITMAN『new atlas e.p.』をよく聞いている。Real Estateと同列に聞けてしまう。ギターポップと日本語の融合はゴメスが20年前に完成させていたのだ、思う。あと、家ではBill Evansのエレピとオーケストラが印象的なイージーリスニングアルバム『From Left To Righ』をずっと聞いている。

FROM LEFT TO RIGHT

FROM LEFT TO RIGHT

急にボサノバをやってみたりするところがスキ。本を読む時にもちょうど良いのです。『anone』の3話を正座して観た。西海を演じた川瀬陽太が抜群だった。坂元裕二からのキャスティング提案なのではと思うくらいに、彼じゃなきゃ演じられない役柄だった。広瀬すずがほとんど言葉を発しないのだけど、こういうのを取り上げて、「お飾りの主役」とかいう記事が出るのかと思うとウンザリする。広瀬すずを大根と呼ぶ人が少なからずいるらしいが、信じられない。本当の大根を観たことがあるのだろうか。ちなみに練馬大根は辛味が強くて、沢庵にするのに適しています。
すばらしいフェルディナンド (岩波ものがたりの本)

すばらしいフェルディナンド (岩波ものがたりの本)

夜中にルドウィク・J.ケルンの『すばらしいフェルディナンド』を読んで、ひどく感銘を受けた。



木曜日。トップリード新妻さんが逮捕という報に朝から声が出てしまった。パーケンの時は「そうか・・・」とすぐに受け入れられたが、今回のはあまりに意外すぎる。直に接したところがあるわけではないが、いいコントを作る、とにかく「いい人」という印象だった。しかも、新妻さんは『カルテット』をこよなく愛し、サウナーでもあるのだ。ちょっとまだ信じられなくて、何かの間違いであって欲しいと願っております。タワレコで、平賀さち枝とホームカミングスのEPとポニーのヒサミツ『The Peanut Vendors』を購入。

カントリーロード/ヴィレッジ・ファーマシー

カントリーロード/ヴィレッジ・ファーマシー

THE PEANUT VENDORS

THE PEANUT VENDORS

ポニーのヒサミツの今回のアルバム、めちゃんこ良いです。なんと、ベースをシャムキャッツの大塚智之が!ゲストで2曲ほど参加している中川理沙(ザ・なつやすみバンド)のコーラスもナイス。

ひさしぶりにPパルコに行ったのだけども、むやみやたらに照明が明るくなっていた。私が学生の頃のPパルコは薄暗くて、もっとなにかこう猥雑だった気がする。好みの問題とは思うが、私は以前のPパルコのほうが断然ワクワクした。



金曜日。夜更かしして本を読むぞーと思うも、あまりに眠くて、『アンナチュラル』も観ずに、すぐに寝てしまった。土曜日。朝起きて、ミスタードーナツに出掛ける。オールドファッションと珈琲で、本を読んだ。A・A・ミルンくまのプーさん』『プー横丁にたった家』を読み直した。

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

ひさしぶりに読んでその圧倒的なおもしろさに感激。E・H・シェパードの挿絵も涙が出るほど素晴らしい。これ以上に素敵なナンセンス小説ってないのでは。家に戻って掃除と洗濯。昼過ぎに本棚が届いたので、しかるべき場所に設置した。録画で『アンナチュラル』3話を鑑賞。演出が変わっても、おもしろい。ずん飯尾さんの訴訟には声を出して笑ってしまった。法廷の中堂さんのスーツの着こなしが『美味しんぼ』の山岡さんで、最高でした。自転車に乗って、古本屋を巡りつつ、少しだけ実家に寄る。豚肉と白菜をもらったので、家に帰ってしゃぶしゃぶをしました。amazonプライムで『電影少女』を3話まで一気に観る。桂正和の原作ではなく、オリジナルでこのクオリティだったら最高だと感じるに違いない。西野七瀬さん、演技はいまいちだが(これまでに比べたら凄く頑張っている)、かわいいのでOKだと思います。LAWSONで売っている「ウチカフェ アイスバー チョコミント」が美味しい。ミントの風味がとてもフレッシュ。買い貯めしたいレベルです。


日曜日。神田・神保町の古本屋巡りをした。日曜は神保町の8割近くの店が定休日なのだけども、残りの2割でも充分に楽しい買い物ができました。探していた『ケストナー少年文学集』も全巻セットで買うことができた。あとは哲学と映画と歴史の本を中心に手の平が擦り切れるほど買う。お昼に「欧風カレー ガヴィアル」のチキンカレーを食べた。ルーは濃厚、チキンの皮が炙ってあって、香ばしくて美味しい。古本屋巡り、ドーパミンが出るほど楽しいので、次は土曜日に行きたいと思います。『欅って、書けない?』で、平成ノブシコブシの徳井さんへの楽屋挨拶で、震えが止まらないほど緊張している渡辺梨加さんの姿に胸がいっぱいになった。グループとして激動の1年間を経ても、あの小さな感覚を維持してくれているなんて、どこまでも尊いではありませんか。



ヤクルトスワローズ青木宣親がメジャーから帰還とのこと。そのニュースに、ハアハアと息が漏れるほど興奮してしまった。ずっと夢には見ていたけれども、まさか実現するとは。

1番 山田(哲)
2番 川端
3番 青木
4番 バレンティン

が実現するわけです。はー。外野から坂口を外すのはしのびないと思っていたら、バレンティンが一塁への転換を志願とのこと。「ハタケヤマオワリネ」という発言に笑った。シーズンが始まれば、バレンティンも畠山も一塁にいない気がしてなりませんが、期待はしたい。しかし、宮本・石井琢コーチがいて、青木宣親がいる。去年とは打って変わって、ものすごく緊張感のあるチームになったものですね。

坂元裕二『anone』3話

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突然の拳銃の介入、3話はこれまで以上にダーティーで穏やかではない。しかし、シリアス一辺倒というのでなく、細部のやりとりはコミカルさで彩られてもいる。川瀬陽太が演じる西海隼人という複雑な人間の存在が、物語を混乱させているのだ。モデルガンを改造した拳銃で、上司を撃ち殺した凶悪な犯人。であるはずなのに、3話を通して印象に残るのはその残虐さよりも、人間としての”可愛げ”だ。犯罪行為の真っただ中であるにも関わらず、嬉々として銃についての知識を語り、子供番組に癒され、「だって可哀想じゃん」と迷いフェレットを飼い主の元に届けてあげる。人質であるはずの持本(阿部サダヲ)との会話は、一丁の拳銃さえなければ、幼馴染との他愛のないそれにしか聞こえない。この西海という男の在り方を、青羽(小林聡美)の言葉通り「頭が悪いだけ」と切り捨ててしまうことも可能だが、この善/悪のスイッチのシームレスな切り替えこそ、”人間そのもの”という気がしてくる。

ああ 白黒つけるのは恐ろしい 
切実に生きればこそ


Doughnuts Hole「大人の掟」

『カルテット』でも繰り返し語られていたとおり、人は”生”の切実さを深めるほどに、あらゆる感情が混ざり合い、こんがらがっていくものなのだ。青羽が指摘したように、「主客転倒」と責められるかもしれないが、西海は現代社会の被害者のように思える。過度な労働や、埋めがたい孤独が、西海に拳銃を握らせた。そして、彼は社会というシステムからの脱出として、その拳銃でもって自らの命を断つことを選ぶ。持本の必死の説得も虚しく・・・

死んでもいいって言うのは
生まれて来て良かったって思えたってことだよ
生まれて来て良かったって思ったことないうちは
まだ死んでもいいって時じゃない
生きよう?生きようよ!生きるってことは素晴らしいよ

1話での「自分、ちょっと今、名言怖いんで」「名言っていいかげんですもんね」といった予防線の甲斐なく、こういった持本の説得の言葉が、魂の叫び・名言としてメディアで取り沙汰されている。公式アカウントすらその風潮に乗り、「緊急企画‼️好きな名セリフランキング」なんてものを実地する始末*1阿部サダヲの熱演に騙されてはいけない。文字に起こしたものをよく見つめてみて欲しい。ペラペラ、相田みつをのカレンダーが貼られたトイレに三日も籠れば、自然とでてくるような言葉ではないか。断言してもいい、坂元裕二はあのシーンの台詞を「名言」として書いていない。むしろアイロニーを込めて、名言めいたものに擬態させているのではないだろうか。どうしても、この作品に貫かれる言葉の力を、名台詞として取り上げるのであれば、「自分がいてもいなくてもどっちでもいい人間だって/45になって思うんだ、ハタチの倍思うよ!」という悲痛かつ普遍的な叫びのほうだろう。


前述の説得の言葉は西海に響くどころか、鈍い暴力で持本に返って来る。末期癌を患っているという告白さえも、「すぐにバレる嘘を言うな」と突き返されてしまう。3話で展開された「例のこと/玲のこと」「(子供は)男の子?女の子?/これから社長に線香上げに行ってもいいですか?」などの、ひたすらに噛み合わない会話の数々からも明白だが、坂元裕二は「人は言葉ではわかりあえない」という絶望を抱えた作家なのだ。『それでも、生きてゆく』(2011)にも、似たような説得のシーンがある。

今朝、朝日を見たんだ
便所臭いトイレの窓から朝日見えて・・・
そんなこと あそこに住んで一度も感じたことなかったんだけど
また今日が始まるんだなって
悲しくても、辛くても、幸せでも、空しくても、生きることに価値があっても、なくても
今日が始まるんだなって
あの便所の窓からこの15年間毎日ずっと
今日が始まるのが見えてたんだなって
うまく言えないけど  文哉さ
俺、お前と一緒に朝日を見たい
一緒に見に行きたい
もうそれだけでいい

妹を殺した幼馴染の殺人犯に向けた渾身の救済と説得の言葉。セオリーに沿うのであれば、犯人は涙を流して改心するだろう。しかし、坂元ドラマにおいてはそうはならない。殺人犯から返ってくるのは、「ご飯まだかな」の一言のみ。さらに、坂元裕二は、是枝裕和とのトークショーにおいて

説得のシーンをこれまでいっぱい書いてきたのだけども、最近は言葉で何を言われても人の気持ちは変わらない気がしてきて。色んな手を使って、言葉ではなく、その中にある要素・・・本来、説得にならないものを使って説得していくという手法を最近始めている

という言葉を残している。すなわちこの『anone』においても、人と人の交感は、言葉ではないもので果たされると考えていいのだろう。ハリカ(広瀬すず)の口に貼られたガムテープ、西海・持本・青羽の口を覆うマスクといったルックは、口から放たれる”言葉”というものを否定するかのようである。

その子わたしの娘じゃありませんよ
助けてあげてください

という亜乃音(田中裕子)の矛盾めいた物言いは、言葉が否定された世界だからこそ有効だ。あの瞬間、ハリカは亜乃音の娘に変容している。そして、この『anone』3話で最も注視すべきは、亜乃音のハリカに対する救済と抱擁のシーンだ。

ハリカ:なんでお金渡しちゃったの?
亜乃音:なんでって?
ハリカ :玲ちゃんじゃなかったんだよ、私だったんだよ
    知らなかったの?なんで・・・ごめんなさい
亜乃音:なにを謝るの?
ハリカ:だってお金・・・わたしただのバイトだったんだよ!?
亜乃音:そうだね・・・なんでだろうね
    なんでだろうね

なんでだろうね・・・その言葉にならない領域に”愛”は芽生える。一緒にどっさりもやしラーメンを食べた。誰かのことを強く信じてみる理由なんていうのは、案外そんなことなのかもしれない。ハリカと持本の間の密やかなな絆も、「水を飲ませてあげる」「ソーっとガムテープを剥がしてあげる」「暖房をつけてあげる」といった言葉に頼らない小さな気遣いによって生まれたことも示唆的である。

みんな一緒 3人は連帯責任
逆らったり逃げたりしたら残りの2人を撃ち殺す!

この西海の言葉は、ハリカたちへの死の宣告・呪いである一方で、彼女たちを強く結びつけてもいる。みんな一緒、孤独に傷ついた彼らはひっそりと連帯していく。亜乃音と青羽が、互いの煙草(タール17mgのハイライト、強い煙草だ)に火をつけ合い、煙をふかす。罪の手触りでもって結びつく彼女たちの、心もとない連帯を描いたまさに3話におけるハイライトシーンである。ちなみに、坂元作品における”煙”というモチーフは『カルテット』では以下のように語られていた。

みなさんの音楽は、煙突から出た”煙”のようなものです。価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。私は不思議に思いました。この人たち煙のくせに何のためにやってるんだろう。

頼りなく、無用のもの。しかし、煙(流動体)は儚いがゆえに、風に吹かれれば拡散し、誰かのもとに届くのだ。



<余談*2

3話ではもうひとつ”煙”が印象的に登場する。身代金受け渡し場所、河口にほどちかい川べりに隣接した工業地帯から吐き出される煙だ。この『anone』の舞台設定。県道、川、橋、工場群・・・・どこか既視感がある。そう、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』(1994)である。

リバーズ・エッジ

リバーズ・エッジ

海の近く。コンビナートの群れ。白い煙たなびく巨大な工場群。 風向きによって、煙のにおいがやってくる。化学的なにおい、イオンのにおいだ。 河原にある地上げされたままの場所には、セイタカアワダチソウが生い茂っていて、よくネコの死骸が転がっていたりする。 彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。彼ら(彼女ら)は事故のように出逢う。偶発的な事故として。

この岡崎京子リバーズ・エッジ』あとがきは『anone』の紹介分としても充分に機能してしまう。すれ違っては、傷を慰め合うように結ばれていく亜乃音たち。彼女たちはその短い永遠の中で、何を見つめるのだろう?*3野島伸司岩井俊二の諸作を彷彿させるモチーフが点在し、この3話では北野武ソナチネ』のルックを大胆に引用してみせている。どうにも、この『anone』には90年代という時代への総決算が裏テーマにあるような気がしてならない。そして、それは坂元裕二が脚本・監督を務めた『ユーリ ЮЛИИ』(1996)という映画の語り直しのようにも思えるのだ。



<『anone』というドラマの特異性>

『anone』の視聴率が低い。この3話においては、「話がとっ散らかっている、視聴率低下もやむなし」という論調が多いのだけども、この3話はむしろ、散らばっていたものが1本道に集結していくまとまりのある回だったように思う。しかし、他のドラマと比べると、文法があまりに異質である故、伝わりづらいのは事実だろう。演出家と役者の作り出す画を、脚本が信頼し切っている。説明台詞のようなものがほとんど排除されているのだ。たとえば、持本が路上からスカイツリーを見上げるショット。このスカイツリーという存在は、その少し前のシーンで登場する工事現場職員の台詞「これって毎年同じ場所掘ってまた埋め直して予算使い果たすためだけの意味ない工事じゃないですか?」と対比されていて、さらに直後の

俺ね、何て言うか自分の手で何かを作りたいんだよね
笑うかもしれないけど
俺がこの世に生まれてきた証っていうかさ
何かを残したいんだよね

という台詞を導き出す。そして、それは無精子症と診断された持本の「子孫を残す」という行為と代替される。あのスカイツリーを見上げるショットこそ、持本の、「生まれてきた証を残したい」という祈りを体現しているのだ。「信用していたハリカに裏切られた」という誤解が解けるさまも、「亜乃音が袋に入った猫缶を見つめる」というショットだけで処理してしまう。「あの娘はちゃんと約束を守っていたんだわ」というような台詞は決して発されないのだ。ボーっと観ていると不要なノイズのように感じるスカイツリーや猫缶へのクローズアップが、物語をエモーショナルに彩っている。これはもう視聴者への信頼だろうし、そういった細部に目を凝らさぬども揺るがない強度を持つ『anone』という物語への自信の現れなのだろう。

*1:ツイート内容といい、番組表のラテ欄といい、『anone』の広報の方向性は作品の内容とかなり乖離しているような気がしてならない

*2:読み飛ばしてもいい

*3:まもなく公開される映画『リバーズ・エッジ』のキャッチコピーより

シムズ・タバック『ヨセフのだいじなコート』

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古本屋で見つけて一目惚れした絵本だが、2000年にコールデコット賞(アメリカの絵本界における権威)を受賞しており、すでに多くの人々の記憶にマスターピースとして根付いている作品。「この絵本は、水彩絵の具、グワッシュ、色鉛筆、インク、そしてコラージュでできています」という冒頭の宣言どおり、優れたパッチワーク(継ぎ接ぎ)感覚で制作された1冊。発刊は2000年になっているが、もともとは同タイトルで1970年代に出版されており、その時はほとんど売れなかったのだという。シムズ・タバックのそのどこかカラフルなヒップホップ的感性は30年の時を経て、時代に追いついたのかもしれない。


ヨセフの大切な一張羅のコートはどんどん擦り切れていく。その度にヨセフは、ジャケット→ベスト→マフラー→ネクタイ→ハンカチ・・・と大胆なリメイクを施すのだ。ここに「ものは大切に使いましょう」というような道徳を読み取るのも、もちろんOK。絵本は子供たちのものだ。しかし、この絵本がここまで広く支持されたのは、現代を生きる”日々擦り減っていくような感覚”を的確に紡ぎ取っていたからのようにも思う。ヨセフは妻も子供もおらず一人ぼっちで動物に囲まれて暮らしている。陽気なダンスフィール溢れる絵には表出されないが、その背景には必ずや”孤独”が忍んでいるはず。しかし、お気に入りのコートやジャケットでめかしこむ時は、彼はどこかへ出掛けていく。擦り減っていく毎日の中でも、思い出は増えていく。そして、最後には大事だったコートのすべてをなくしてしまったヨセフ。彼はそれをただ嘆くのでなく、これまでの出来事を物語にしたためる決意をするのだ。

だって “なんにもない!” になるまでに いろいろ あったでしょう?

削られて小さくなっていくような恐怖(それは命の暗喩そのものだ)を鮮やかに反転させるエンドロール。何度だって読み直して、勇気をもらいたい一冊だ。

ヨセフのだいじなコート (ほんやくえほん)

ヨセフのだいじなコート (ほんやくえほん)

野木亜紀子『アンナチュラル』2話

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圧巻の完成度を誇った1話が沸点かと思いきや、続く2話もなんら緩むことなくおもしろい。恋はスリル、ショック、サスペンス(©愛内里菜)とでもいうようなエンターテインメント性を保ちながら、芯をくった人間ドラマが並走している。坂元裕二『anone』と野木亜紀子『アンナチュラル』、まったくタイプの異なる2本の傑作を同クールで鑑賞できるこの2018年の冬は、後のテレビドラマ史において語り草となるに違いありません。不明瞭で複雑ゆえに豊かな『anone』、単純明快でポップな『アンナチュラル』、というように対比させたくもなるのだが、実のところ『アンナチュラル』もかなり攻めたドラマである。その展開は目まぐるしいほどに速い。誰もが同時多発的に喋り出し、通常のドラマであれば”ノイズ”とされるような環境音や生活音が当たり前のように役者の台詞に被ってくる。2話で言えば、冒頭の会話を切り裂くパトカーのサイレン音の堂々たる響きや、被害者の胃の内容物の話題と老舗の玉露深蒸し茶が並行していく会話劇が見ものだ。ボーっと観ているとあっという間に物語に置いていかれるし、耳をすまさねば台詞が聞き取れないことも間々あるだろう。しかし、そういったリスクを冒しているからこそ、このドラマは圧倒的な生々しさを獲得している。「UDIラボ 不自然死究明研究所」という実在しない組織で働く架空のキャラクターたちが、どこまでもいきいきと”本当のこと”を話しているように感じるのだ。もちろん、役者陣の力量も大きい。前述の並走する会話の締め部分なども、たまらないものがある。

所長:ひとつ言っていい?ひとつ言っていい?
   誰もお茶の味 覚えてないでしょ
ミコト&夕子:あっ、おいしかったですー
所長:嘘つけぇ

この軽快なやりとりがバシッと決まる快感。松重豊石原さとみ市川実日子、三者ともに抜群に巧い。編集のテンポも文句なしだ。こういった要素がすべて、このドラマが紡ぎ出そうとしている「生きる」ということ、そのリアリティに寄与しているように思う。



<不条理と戦うヒーロー>

2話はUDIラボに舞い込んだ練炭自殺事件の調査から始まる。その調査は、ミコト(石原さとみ)の抱える心の傷とオーバーラップしていくが、当の本人はクールさを保ったまま。凡百のドラマであれば、大袈裟に泣き叫びかねないトラウマ。ミコトはその「絶望するには充分」な経験をあえて研究対象に選び、”不条理”に抵抗する為の糧とする。ミコトは不条理に飲み込まれたか弱き者の声を、決してないがしろにしない。

まぁまぁまぁ
犯人捜しは警察に任せるとして
花ちゃんが どこで凍らされて
何を伝えようとしたんだろう・・・

そんな・・・待ってください
助けてっていう彼女の言葉は?
生きてるときも助けられずに
死んでからも見なかったことにするんですか?

彼女達を
好きにしていい権利は誰にもない

死者の発したSOS。身体を切り刻むことで、ミコトはそれを受信する。絶望を未来へと繋げていくヒーロー、それが三澄ミコトだ。また、バットマンにおけるロビンのような、ミコトのサイドキック的存在東海林夕子(市川実日子)もいい。*1「女がいつどんな服着ようと勝手でしょ」「今月の残業時間合計が すでに勤務規定を超過しているため自主的に相殺します」といった現代的なテーマを内包した自由さが、新しくて強いのだ。


<ここにいます>

ガラケーですか?
スマホなら現在地分かって地図も見られるしメッセージのやりとりも楽ですよ

という冒頭の六郎(窪田正孝)とのやり取りは、やはり物語に深く浸透していく。スマホを端としたSNSの生み出す闇が事件の真相であり、ガラケーであるが故にミコトはより窮地に追い込まれていく。しかし、「目的地に着きました スマホなしでも」というミコトの堅実さもまた、ドラマを動かす。

ここです
ここにいます

誰もが見失いがちな自分の現在地は、スマートフォンに頼らずとも、知識と時の積み重ね(=「時間 計って!時間」)でもって、示すことができる。そう訴えているようだ。



<反転する空間>

空気穴が塞がれ、隙間を目張りされた民家。そこで焚かた練炭一酸化炭素を蔓延させ、死に至らしめる。この密閉空間は、「火/水」もしくは「一酸化炭素/二酸化炭素」など、イメージが反転した形で後半に再登場する。ミコトと六郎が閉じ込められた冷凍コンテナトラックである。水没していくトラックの内部で、テープや物で隙間をふさぐ浸水を防ぐミコトたち。“隙間を塞ぐ”という行為が、練炭自殺の民家におけるそれと、まったく逆のベクトルを向いている。

人間は意外としぶとい

というミコトの台詞もまた、練炭自殺心中から生き残った者としての言葉ではなく、生きることを諦めない者として響くからこそ感動的だ。この”反転”のイメージは、無数の死体に囲まれた解剖医の、固有の生命の煌めきを描こうとする『アンナチュラル』というドラマの構造そのものと言える。



<食べること>

1話に「こんな時だから食べるんです」という台詞があったが、ミコトの食事シーンはこのドラマの大きな見所だ。死のすぐ隣でミコトの食欲は旺盛だ。美味しいものを食べることで、“死”に取りつかれることを拒んでいるかのように。事実、母親からの身勝手な殺害からミコトを救ったのは、ラムネだと食べさせられた睡眠薬を、”不味い”と吐き出したからだ。2人の家出少女が分け合って食べた鹿肉のカレー風味おにぎりもまた強い印象を残す。死に場所を求める少女たちが、監禁されながらも、ご当地モノをチョイスしたのだ。人はどんな状況であろうと、美味しいものを食べたがる。そして、その鹿肉のカレー風味おにぎりは事件解明の鍵となり、1人の少女の命を救った。食べることは生きること、絶望している暇あったら美味いもん食べて、寝ればいいのである。


この2話のハイライトは冷凍コンテナトラックにおけるミコトと六郎のやりとりであろう。

ミコト:巻き込んでごめんね
六郎:・・・いえ
ミコト:お詫びに 明日の夜 空いてる?
六郎:明日?
ミコト:おいしいもの食べに行こう 何っでもおごる
六郎:・・・明日
ミコト:明日
明日、何食べよっかな~
六郎:あったかいのがいいな
ミコト:あったか~い味噌汁、飲みたいな
六郎:いいっすね
ミコト:何食べたい?
六郎:・・・チゲ

たとえばこれらのやりとりは、残業中のオフィスでの上司と部下の会話としても成立するだろう。しかし、だとしたらなんて退屈なことか。しかし、それが目前に死が迫ったシチュエーションに置き換わることで、かくもエモーションを宿す。「チゲ」というたった一言に涙が溢れるような生きる希望を託せてしまう。野木亜紀子によるまさにドラマメイクのお手本のような筆致である。「結構…かなり怖いっすね、死ぬの」という台詞も痺れた。また、窪田正孝が抜群にいい。「チゲ」の発話にはもうそれしかないというような凄味があるし、石原さとみの凍った手を包み込み、息を吹きかけて温めるシーンも悶絶もの。水に濡れ弱り切り、オールバックになった姿もセクシー。とにもかくにも、「窪田正孝はいいぞ」ということで、このエントリーを締めたいと思います。

*1:六郎もまたロビン的だ