青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ピエール・コフィン/カイル・バルダ『怪盗グルーのミニオン大脱走』

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ミニオン達のそれぞれのキャラクターを見分けるのは困難を極める。彼らは無数に存在するが、そのルックのバリエーションは、一つ目、二つ目、デブ、チビ、ノッポくらいのもの。しかし、彼らはそれぞれに個性があって、ケビン・ボブ・スチュアート、ティム、ジェリー、メル、マーク、フィル・・・と名称さえ持ち合わせている。グルーにしてもアグネスにしてもネファリオ博士にしても、「怪盗グルー」シリーズの登場人物らは、判別のつきにくいミニオンの差異をしっかりと判別し、その各々の個性をはっきりと認証している。スピンオフ作品『ミニオンズ』(2015)においても、リーダー格のケビンがミニオン全員の名前入り顔写真をファイリングして持ち歩いているという描写があって、その固有性へのこだわりにグッときてしまうのだ。一方で、誰もが底抜けに明るく、常にふざけ合い、大雑把に何でもかんでも笑い飛ばす。とりわけ、相手の失態にはとにかく目ざとく、シニカルに笑い転げる。何と言うか、”ミニオン”という総称で呼んでしまうにふさわしい共通の性質のようなものを持ち合わせているのだ。つまり、個性がありつつも、匿名性も強い。この”どっちつかずさ”というか「何がしたいかよくわからない」感じが、イルミネーション・エンターテインメントが作るアニメーションの長所であり短所であり、やはり長所だろう。とにかく、軽やかなのがいい。


ミニオンの個性を巡る”分裂”は、主人公のグルーにも及んでいる。1作目『怪盗グルーの月泥棒』(2010)では怪盗軍団を率いる大悪党、2作目『怪盗グルーのミニオン危機一発』(2013)では反・悪党同盟の一員として正義の道へ。そして、この3作目『怪盗グルーのミニオン大脱走』においては「正義か/悪か」という二律に悩まされ、文字どおり分裂してしまう。生き別れた双子の兄弟ドルーなる人物が登場するのだ。
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ドルーの存在が見事にグルーに内在していた二律を演出している。黒い服を身に纏ったグルー、白い服を身に纏ったドルー。グルーは悪党が性に合っているのだけども、家族の為には正義でありたい。ドルーは悪党にからきし向いてないが、家族(=亡父)の為に悪党になりたい。ちなみにミニオン達は「最強の悪党に仕えること」を存在意義としているので、悪党でなくなったグルーに不満を持っていて、これもまたグルーを「正義か/悪か」で悩ませる種だ。これらのテーマは、アグネスのユニコーンの挿話を通して、「願った通りの結果じゃなくても、楽しめたらいいよね!」という能天気なメッセージで締めくくられる。この深遠さを欠いたポジティブさは嫌いじゃない。


イルミネーション・エンターテインメントのアニメーション映画は、ディズニー/ピクサーに比べると中身がない、というのが定説であるが、シリーズ最初の2作に関しては、喪失感を巡るウェルメイドかつエモーショナルな非常に完成度の高い脚本を有していた、と反論したい。しかし、この『怪盗グルーのミニオン大脱走』においては、前述の論に屈するしかあるまい。とにかく煩雑。テーマが盛り込まれ過ぎていて、どれも物足りなく感じてしまう。グルーとミニオンたちの主従関係、ルーシーと娘たち、グルーとドルーの兄弟関係、どれをとっても1作をフルに使ってじっくり観たいテーマばかりなのに。ヴィランであるバルタザール・ブラットにしても、「80年代に囚われた男」というのが物語と振動しないのが気になる(BGMやルックのおもしろさとしては抜群で、80sミュージックはご機嫌だし、ブラットのフィギュアや巨大ブラッドロボのメッキの質感とか最高の一言)。『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』(1980)のハン・ソロばりにカーボン凍結されたネファリオ博士には笑ってしまったけども。腹が減れば宅配ピザを追いかけ、マイクを差し出されれば歌う、刑務所に収容されたならば脱走する、といったミニオン達のアクションの真っすぐさはシリーズを通して健在で、やっぱり楽しい。しかし、私の本当に好きなミニオンは歌ったり、踊ったりといった大味のアクションではない。ウォーターサーバーのボトル容器に気泡が入る「ボコっ」という音で笑い転げたり、コピー機でお尻を印刷しまくったりする、小さなアクションの数々なのです。次作に超々期待。ちなみにこのシリーズ、字幕版での鑑賞を推奨致します。