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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

新海誠『星を追う子ども』

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全てのアニメーター、いや鑑賞者を含めアニメに少しでも関わった全ての人間はジブリコンプレックスなのではないだろうか。そのコンプレックスの集大成がこの作品だ。宮崎駿の各作品からイメージをほぼそのままトレースしたもので敷き詰めるという、よく言えばヒップホップ的な、しかし、どう考えても幼児的な感性でもって、新たな物語を再構築している。そのトレースはキャラクターデザイン(後半になるにつれその疑似度は加速していく)や建築や背景美術はおろか、ロボット兵や飛行石やフード理論といったジブリの専売特許とも言える領域にまで及ぶ。更には”寒くて震える”だとか”タオルでふいてあげる"、といった仕草ひとつひとつにまでオマージュが捧げられていて、これはもう記憶レベルでジブリな作品で、あまりのてらいのなさに鑑賞中にクラクラすることしきり。


こういった指摘に対して、「ジブリからの影響は自覚しているが、どっちかというと東映アニメーション世界名作劇場といった日本のアニメの伝統的に倣うことで、鑑賞の間口を広げたかった」的なことを新海誠は語っている。しかし、作品を観ればそんな言い訳が通用しない事は明白だろう。だってもうジブリへの憧れでパンパンなのだから。間口を広げるなんていうのは建前で、絶対「(ジブリを)やってみたかったんだもん!」という事なのだろう。なんたるチャイルディッシュな欲望だ、と呆れるのは簡単なのだが、そもそも新海作品というのはそういった幼児的欲求に支えられたものではなかったか。「最初に好きになった人を最後の最後まで愛し抜くのだ、絶対に、ぼくは!」という幼くて無垢な発想を、エヴァンゲリオンやら村上春樹やの風味でまぶして作られたのが、『ほしのこえ』であり『秒速5センチメートル』であったはずだ。それを評価してきてくれたのに、今作に限ってそんなに叩かなくてもいいではないか、という反論もわからなくはない。


しかし、今作はやはり抜きん出て稚拙。壮大なスト―リーは当然のように脚本は破綻しているし、説教じみた説明過多な台詞は耳にうるさい。「動」の描写の魅力の乏しさもあまりに痛い。これを観てしまうと、改めて宮崎駿の運動感と物語とメッセージ性のバランス感覚に感服せざるを得ない。サンプリング元がジブリにだけに留まらなにのも往生際が悪い。『鋼の練金術師』やら『タッチ』やら、まるで小中学生の本棚のようだ。それでも、本作を褒めるならば、新海誠が物語ることに挑んでいる点になるだろう。本当は誰もが観たくてたまらないくせに、何故か軽視され続ける血沸き肉踊るような少年少女達の冒険物語。その担い手に歪な形ながらも立候補している。そこは最大限に評価さればなるまい。


タイトルに冠される「星を追う子ども」とは宮崎駿を追いかける新海誠の事ではないだろうか。今作において”星を追う子ども”であるシュンを待ちうけていた未来は”死”であった。シュンはそうなることがわかっていても「見ておきたいものがあった」と星を追いかける。この筆致から、世間が大得意の「パクり!」という糾弾を覚悟しながらも、本作に挑んだ新海誠の覚悟が伺えまいか。コンプレックスを克服するために、一度徹底的に模倣してみたのだ。この作品の「別離とは呪いであり祝福である」というテーマもやはりジブリとの関係性そのものとして飲み込みたい。宮崎駿に対する「物語れよ!」という挑発であり、壮大で不細工なラブレターである今作。大ヒット中の『君の名は。』のおかずとしても、一見の価値はあるかと思います。