『それでも、生きてゆく』1話にみる坂元裕二脚本の真髄
意見の合わなさ、考え方の根本的な相違、そういったある種の絶望的な隔たりを、肯定していく試みが坂元裕二の脚本であり、この『それでも、生きてゆく』はその最初の到達だ。会話が噛み合わずズレていく。そのズレが笑いを生み、ドラマを転がしていく。そういった点では坂元脚本には落語的な要素があるのかもしれない。1話のシーンを少し振り返ってみたい。
洋貴(瑛太)が父と経営する釣り船屋に、双葉(満島ひかり)がある目的を持ってやってくる。見慣れぬ車が停まっているので、湖のほうへ様子を窺いにいく洋貴。2人の出会いのシーンだ。
洋貴「ああ」
双葉「えっ?」
洋貴「車、アレすか?」
双葉「あっ、すいません」
洋貴「いや、別になにも、アレなんで」
双葉「・・・はぁ」
洋貴「・・・はい?」
双葉「いや・・・」
洋貴「なんすか?」
双葉「いや・・・ここの方ですか?」
洋貴「まぁ、ちょっとアレなんで、自分・・・」
双葉「えっ?」
洋貴「・・・いいすか?」(去ろうとする)
双葉「あっ!」
洋貴「えっ?」(立ち止まる)
双葉「いや・・・」
洋貴「なんすか?」
双葉「いや・・・お腹空いちゃって」
こうやって書き起こしてみると、ほぼ何も言ってないのに等しい。だけども、洋貴の「話したいけど、話せない」、双葉の「話したくないけど、話したい」という複雑な感情がしっかりと紡がれている上、この2人がどういう風に世界の隅っこで生きてきたのか、というのが滲み出ている。そして、会話としての圧倒的なリアルさ。つまり、省略と指定代名詞の多用。この文法をドラマ脚本に持ちこみ、エンターテイメントとして成立させた坂元裕二、そしてそれを見事に体現した満島ひかりと瑛太という役者の功績ははかり知れない。巷に溢れるテレビドラマへの違和感の1つに、「人ってこんな風にして喋り出すだろうか、こんなに内容のある事ばかり喋るだろうか」というのがあって、坂元作品にはそれがない。さて、更に続きを観ていこう。
「お腹が空いた」という双葉を連れ、釣り船屋の室内に戻った洋貴はカップ焼きそばを彼女に差し出す。カップ焼きそばなのでお湯が必要。ポットでお湯を湧かそうと思うも、なかなかコンセントが見つからない。コンセントを探す中で、電話機の横に貼ってあった「自殺防止ガイドライン」が目に入り、洋貴は双葉を”自殺志願者”と思い込む。やっと探し当てたコンセントは何故か壁の高い場所にあり、お湯が湧くまでポットを持ったまま立ち続ける羽目に。深刻さと滑稽さが入り乱れる。そして、カップ焼きそばを食べる準備を進める双葉。
洋貴「あの・・・」
双葉「はい?」
洋貴「お湯入れる前にソース入れちゃったら・・・」
双葉「あっ・・だ、大丈夫です、食べれます」
洋貴「無理です。相当無理だと思います。あの、おにぎりとか、そういうおにぎりのとか買ってきます」
双葉「あっ、ほんとよくて!」
洋貴「おかかか梅か、どっちがいいですか?」
双葉「じゃあ・・・鮭?」
洋貴「あっ、あぁ・・・すいません、鮭、気づかなくて」
なんていう噛み合わなさ!脱臼しきった緩い会話劇のようでいて、コミュニケーションの困難さ、そしてそれゆえの面白さ、というのが描かれているように思う。”勘違い”や”すれ違い”こそが、コミュニケーションを加速させていくのだ。『それでも、生きてゆく』は、こういった会話劇と共に、少年犯罪、その被害者家族と加害社家族という、「面白い」と言っては語弊があるが、圧倒的な強度を持ったドラマが並走している。このドラマ史に残る1作をぜひとも目撃して頂きたい。
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