青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

大林宣彦『この空の花―長岡花火物語』


大林宣彦『この空の花―長岡花火物語』を観た。噂にたがわぬ、奇作、傑作。74歳を超えるベテラン監督がここまで映画の定石を無邪気に破壊しながらも、映画が持っている想像力の可能性というものに自身の思想・祈りの全てを託している。そんな大林の映画への信頼に涙するのだ。それは、どこか最新作『現在地』におけるチェルフィッチュ岡田利規の手さばきと共鳴しているように思えた。映画や演劇は現実に対して有効である。


ときに、巷で言われているように、大林はこの作品で突如壊れたわけでなく、元々狂った(思想、演出、カット割、構図、美術、性癖、など全部)作品を大量に生産していたわけだけど、今作がその集大成ではないだろうか。演者が観客に語りかけてくるなんていうのは序の口で、イマジナリーラインは歪み、建物や車の窓からの風景の不自然なはめ込み、そして何より驚愕なのが序盤のカット割りの早さで1つの動作で1回画面が切り替わるカチカチカっぷり。これで完全に目と脳がやられる。そして、もう1つ特徴的なのがテロップの連射であろう。演者の発する言葉がとにかくなんでも、どうでもいい言葉でも(「ジャガイモ」とか)テロップとして立ちあがってくるのだ。その効果なのか、小学校で執拗に見せられた平和教育のセミドキュメンタリードラマタッチのビデオを想起させる雰囲気でもって、物語は、戊辰戦争から日清、日露戦争第二次世界大戦、原爆、中越地震東北地方太平洋沖地震とあらゆるものを今に繋いでいく。その様は映画が外部によりかかるというよりは映画が外に外に広がって弾けていくようで、まさに花火の運動そのものなのだ。


「花火」「一輪車」に代表されるように今作は「循環」の輪のイメージで満たされている。

花火職人の技術は受け継がれ、長岡の祈りの花火フェニックスは被災地へ広がり、戦争の体験は語り継がれ、そして、人は命を繋いでいく。序盤に登場する18年前の別れのシークエンスでの遠藤玲子松雪泰子)の「戦争なんて私たちには関係ないのにね」という別れ言葉に片山健一(高島政信)が「痛いな!この雨、痛いな!」と返すポカーンとしてしまう絡みも、玲子が被爆2世であった事が知らされる中盤において、ストンと腑に落ちる。50年前の黒い雨の影響で、玲子は繋ぐ事を恐れていたのだ。途切れてしまったものを再び繋ぐ物語である。ラスト、玲子は親になる決意をするわけだが、その際、長岡で出会った井上和歌子(原田夏希)へ自身の靴を手渡したり、長岡郷土料理ニーナ(煮菜)にこだわりを見せたりする。この一見「必要か?」と首をかしげる描写も全て、「繋いでいく」という運動に支えられており、映画を豊かにしているのだ。


全ては想像力にて融解されていく。劇中劇である「まだ戦争には間に合う」のクライマックス、現代も過去も、演者も観客も、死者も生者も、役者もそのモデルの実在の人物も、現実と虚構も、全てが同じ画面に収まり出す。アナログと最新技術が交わって描かれた恐ろしき爆弾が美しき花火へと変容していく。パスカルズの音楽にのせて描かれるこの狂騒の美しさをどのような言葉で表現すればいいのだろう、と頭を悩ますと、テロップには「大団円」の文字が。ズッコケてしまいそうになるのだけど、そんなものはどうでもよく、ただ「凄いものを観てしまった」という興奮、恍惚でボーっとなり劇場を後にする。今後、多くの賞賛と批判を受けながら更なる拡大ロードショーとなっていく事は間違いないだろう。