青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

沖田修一『0.5の男』


『0.5の男』というドラマ、個人的にはここ数年のベスト作品として推薦したい。2023年にWOWOWで放送されていた連続ドラマなのだけど、今はU-NEXTでもNetflixでもPrime VideoでもHuluでもFODでも観られるようになっていますので、今さらですが紹介させて欲しい。今作には複数の監督・脚本がクレジットされているが、メインで統括しているのは沖田修一。『南国料理人』(2009)、『横道世之介』(2013)、『子供はわかってあげない』(2021)、『さかなのこ』(2022)など優れたフィルムを何本も献上している日本映画界のトップランカーで、個人的にも大好きな監督なわけだけども、そのフィルモグラフィーの中でも1番の輝きを放っている。『0.5の男』は一応連続ドラマなので、映画と比べるのも野暮な話なのですが。テレビドラマかつ全5話という尺の丁度良さもあって何回も観返していて、その度に「おもしろいなぁ」とウットリしています。“神は細部に宿る”とはこういうことか、というような美術、小道具、衣装、役者の演技、音楽*1のドラマへの奉仕。じゃがりこサラダとモンスターエナジーの“緑“、ZOZOTOWNで注文するお出掛け着としてのL.L.BEANのアウター、こういった細部の充実が人物、物語に厚みをもたらすのだなぁ。ハイクオリティにコントロールされた画面が映し出すのは、人間への生温い眼差しが紡ぐ家族の営み、舞台に選ばれている西所沢や小手指といった武蔵野エリアの安心と退屈な風景。それらが重なりあうことで、観る者にどこまでも心地いい質感をもたらしてくれる。


主人公の雅治(松田龍平)は、実家にひきこもる40歳男性で、ネットゲームの世界では名の知れた英傑で、1日のほとんどをゲームに費やすいわゆるネトゲ廃人であるらしい。ある日、寄生していた実家が2世帯(もしくは2.5世帯)住宅に建て替えられることになり、妹夫婦家族の介入で平穏な暮らしに変化が・・・というようなあらすじ。ドラマ好きであれば連想してしまうのが金子茂樹による『俺の話は長い』(2019)という実家暮らしのニートと家族の交流を描いた傑作ドラマであるが、あちらとは語りのフォーマットがまったく異なる。2作ともに新しい家族の形を描いた新時代のホームドラマではあるのだけど、『俺の話は長い』が矢継ぎ早な会話の応酬でタイトに物語っていくのに対して、『0.5の男』は無駄が多く、会話劇というよりも無音の時間のほうが多い。雅治の台詞は非常に少ない。松田龍平は表情や身体性でもって、雅治というキャラクターの心情を見事に表現し、ドラマを動かしていく。それがよい。涙が出るほどによい。松田龍平という役者への信頼と格は今作でもって更なる高みに到達したと言えます。


「家族以外と話す」とか「昼に外へ出かける」とか「電動自電車に乗る」とか「アイスをおごる」とか、これらが各話のタイトルであって、最大のトピックであるわけだから、ドラマとしてのスケールはおそろしく小さい。しかし、インターネットカフェの食べ放題のソフトクリームがうれしいこと(テンション上がってチョコソースを多めにかけちゃう)、他者と暮らすことで世界観がゴチャつく玄関の置物、はじめて電動自転車に乗った時の「うぉぉ」という感覚、いつも行くコンビニの店員が優しかったこと・・・というように、日々の“営み”に対する喜びの解像度が異常に高く、それは何も起きないわたしたちの平凡な日常に対する祝福のようだ。そして、この小さいドラマは、その眼差しを小さき者(=子ども)に向けていく。ドラマのメインに据えられるのは、雅治と恵麻(白鳥玉季)、蓮(加藤矢紘)という姪っ子、甥っ子との交流になる。彼女達は、2世帯住宅への引っ越しにより、新しい環境に置かれることになる。その新しさに対する馴染めなさが、雅治の社会からの逸脱性と同調していくのだ。引っ越しによって仲のよかった友達と離れ離れになってしまうこと、クラスメイトとうまく馴染めないこと、授業のダンス練習に参加できないこと、家の用事で友達の集まりに参加できなくなってしまうこと、保育園のごはんがベチョベチョしていて食べられないこと・・・どれも大人にとってはとるにたらないことに感じるかもしれない。しかし、彼女たちにとってはそのどれもが人生を左右するような大きな出来事なのだ。人は大人になると、子ども時代に体験した“切実さ”のようなものを突然理解できなくなってしまう。であるから、切実さに晒された子どもたちの小さな反抗を、ありきたりな道徳で説得しようとしてしまうのだ。しかし、雅治は違う。彼は、子どもと同じ目線で考え、対応することができる。蓮にベチョベチョしたごはんがたまらなく嫌なら食べなくていい、と言えてしまう。新居の壁紙への落書きを諭すどころか、笑って一緒に落書きしてくれる(消せばいいのだから)。さらに、雅治と恵麻はオンラインゲーム上のQ太郎というペルソナを通じて交感を果たし、同期していく。その果てに、「恵麻が雅治の部屋にひきこもる」という逆転現象が発生する。新しい環境への馴染めなさが引き起こした”ひきこもり”という反抗に対しても、一定の距離を保ち、美味しい食事を提供すること(自分が母親にしてもらっているように)で、雅治は恵麻の心を溶かしていく。こういった雅治の“やさしさ”は、彼が社会から逸脱してしまった理由でもある。それは、大人になるつれ忘れ去っていく、豊かで広大な”子どもの宇宙”のような思考を、雅治は宿したままでいるからに他ならない。たとえば、1話でのコンビニ店員に向けて放つ「ありがとう、ぬいぐるみ、大事にしてくれて、ありがとう」という感情の誤配。3話での瞳先生(西野七瀬)の「小さいヘラってお持ちじゃないですか?」という何気ない一言で、もんじゃ焼き屋で開催されるオフ会に参加してしまう思考の跳躍。小さなスケールのお話の中における雅治の内面の広大な宇宙という対比が、この作品をとても充実したものにしている。とにかく子役の2人が魅力的に撮られていて、それは他の沖田作品でも同様であって、沖田修一には子どもを撮るマジカルな演出メソッドがあるに違いない。そして、沖田修一もまた、脳内に”子どもの宇宙”を宿したままの大人なのだろう。


雅治の社会との馴染めなさは、歩行困難性という形で発露されている。オンラインゲーム上では、誰も真似できないような俊敏な動きを見せているわけだが、そもそも、そのゲームキャラクターの歩行もどこか歪である。1話で登場する移動においては、スーツケースに身体を支えられながら、なんとか歩く。たまに走ってみると嘔吐する。歩くのが困難であるので、基本は家を出ずにジッとしていたいのだけども、雅治の両親もギックリ腰や骨折によって歩行不能となり、雅治はたびたび歩き出さざる得ない状況に追い込まれる。そうすると、電動自転車、救急車、フィアットの旧車、といった魅力的な移動手段が現れ、彼を軽やかに運んでいく。今作における乗り物が登場するショットの快楽性は、そこに雅治の歩行困難性ひいては社会との断絶が潜んでいるからなのだろう。家の前にはスッと伸びた道が広がっている。それは物語の序盤では、雅治の社会復帰への困難性を示しているように映るのだが、終盤においてその道は“どこへでも行ける”という希望に変容している。そして、社会から逸脱した雅治の内面の”子どもの宇宙”が矯正されることなく、0.5からの脱出として、保育士という職業を目指していく。そんな幸福の予感でドラマは幕を閉じる。こういうのが連続ドラマを観る喜びだよな、と思うのです。

*1:あらかじめ決められた恋人たちへの池永正二!エンディングの工藤祐次郎「たのしいひとり」も最高