青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

テレビ東京ドラマ『孤独のグルメ』におけるモブの演技はなぜうるさいのか


『孤独のグルメ』のテレビドラマのSeason11の録画を流していたら、2歳の娘がハマってしまい、むやみやたらと「五郎さん、みる!」という熱烈なリクエストが入り、Season1からチビチビと観返している。そういえば、年末年始に帰省すると、実家の父も過去シリーズの一挙放送をずーっと眺めている。孫からジジまで虜。なんでも韓国で最も人気のある日本ドラマでもあるらしい。一体、なぜドラマ『孤独のグルメ』はかくも人々の心を掴むコンテンツなのだろう。飯は美味そうだし、ボーっと何も考えずに観ていられる。原作者の久住昌之が監修に入っている独特の言語感覚もおもしろい。それに尽きるような気もするが、もう少しだけ考えてみる。


メインの食事パートに入る前の井之頭五郎(松重豊)の輸入雑貨商としての商談パートに意外なほどに尺を割いているのだけど、あの商談パートが、五郎の食事に寄与することはない。伏線どころか、何の影響も与えない。そして、食事パートに入ると、膨大なメニューの中から五郎がいったい何を注文するのか、というのが最大のドラマになりそうなところだが、五郎が食べるメニューは冒頭のタイトルテロップであらかじめ提示される上に、ご丁寧にメニューの映像すら挿入される。この潔いまでのアンチドラマ性が、現代社会の疲弊した深夜の時間帯にたしかに心地良い。そして、シリーズを10年以上重ねても、このプロットフォーマットはほぼ変更されていない。不変の美学。


そんなマンネリズムを刻んでいく、松重豊の“咀嚼”の美しさ、これこそが、このドラマの魅力かもしれない。松重豊の贅肉のそぎ落とされたこめかみから頬にかけてのフェイスラインにおける反復運動は観る者の心を惹きつけるものがある。いや、その咀嚼をフォーカスするにしては、『孤独のグルメ』というドラマはモブキャラクターの芝居が大きすぎやしないか。五郎が食事をしている周辺で、エキストラの役者たちが身振り手振りを交えてあまり達者とは言えない演技して、なんならカメラが彼らにピントを合わせていることさえある。井之頭五郎の“誰にも邪魔されず、気を使わずものを食べる孤高の行為“を撮っているにも関わらず、あきらかに視聴者の気を散らせるような演出が為されている。これはつまり、井之頭五郎の孤独さを映し撮るのでなく、「井之頭五郎を群衆に紛れさせる」という意図があるのだろう。

腹が、減った…

とつぶやいてから、道端でポンポンポンとカメラを引いていくお馴染みのショットがまさにそうだ。監督らのインタビューによれば、「食のスイッチ」が入る瞬間として、『ウルトラマン』の変身シーンのカットをイメージして作られたものらしいが、ウルトラマンが三連で寄ってくるのに対して、井之頭五郎はカメラを引いて、どんどん小さくなっていく。190㎝という長身の松重豊が街に紛れていく。そう、『孤独のグルメ』というのは“街”のドラマなのだ。そもそも、ドラマは街の俯瞰映像(駅と列車を捉えていることがほとんど)に地名のテロップが入るカットから始まるわけで、オープニングにて高々と街のドラマであると宣言している。


井之頭五郎の"孤独"というか“孤高の時間”が、街に紛れ、拡散していくような感触。これがドラマを貫いていて、それを観ているわたしたちはなんだか少しだけ寂しくなくなる。それがこのドラマの人気の秘密なのでは、と勝手なことを想った。