青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

小沢健二『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』

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小沢健二が、極めて私的ないくつかの関係性を綴ったリリック。ひどく露悪的ではあるが、どこまでも普遍的に、切実に響くことは否定できない。もしかしたら、ポップミュージックの歌詞というものは具体的であればあるほどいいのかもしれない、というような幻想に駆られる。それは言い過ぎとしても、「失恋して悲しい」と歌われるよりも、「君がいないと何にも できないわけじゃないとヤカンを火にかけたけど 紅茶のありかがわからない」(©️槇原敬之)なんてふうに歌われるほうが、その悲しみがずっと立体的になって心に響いてくる。それは「同じ体験をしたことがある」とかいう共感性ではなく、わたしたちが想像することができる生き物であるからだろう。歌詞の中で展開される限定的なシチュエーションと聞く人との距離、それを想像力で補うという運動性こそが、広く聞かれる大衆音楽というものを支える秘密なような気がしてならない。下北沢珉亭*1、行ったことがなくてもかまわない。「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」を聞く人の中で広がる何百、何千通りもの「珉亭」の炒飯を想い、ウットリとしよう。



これは友情だけでできております
岡崎京子さんという僕の友人で、本当に才能のある・・・
昔、漫画がすごかったって言われるけど、そうじゃない
今もすごいです
今は描いてないですけど、岡崎京子さんって今もすごい人です
それを伝えたくて
岡崎さん観てます、今

2/16に放送された『ミュージックステーション』でのパフォーマンス前の小沢健二の言葉を聞いて、「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」という楽曲が少しわかったような気持ちになった。今もすごいです・・・小沢健二岡崎京子のその活動の最盛期が90年代であったのは疑いようがない。しかし、20年以上の長い沈黙を貫いてもなお、新しい若い人々の魂を訴求し続けていたのだ。その証左として、新しい才能、若い詩人たちが次々にリスペクトを表明している。満島ひかり二階堂ふみやくしまるえつこSEKAI NO OWARIceroフジファブリック峯田和伸銀杏BOYZ)・・・・それらは「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」の以下のラインに集約されていく。

でも魔法のトンネルの先 君と僕の心を愛する人がいる
本当だろうか?幻想だろうか? と思う

きっと魔法のトンネルの先 君と僕の言葉を愛する人がいる
本当の心は 本当の心へと 届く

きっと魔法のトンネルの先 君と僕の心を愛する人がいる
汚れた川は 再生の海へと届く

「本当だろうか?幻想だろうか?」という戸惑いから、「本当の心は本当の心へと届く」と段階を追って、その心情を吐露している。自分たちの残してきた魔法を受け取った若い才能がいる、そのことがどれほど復帰後の小沢健二を奮い立たせたかが、伝わってくる。若き小沢健二の音楽は、散っていく熱への諦めと、それに抵抗する祈りであった。そんな「すべてのことは終わる」という前提が、更新されていく。若草ハルナと山田一郎の短い永遠の愛が、二階堂ふみ吉沢亮の身体によって再び灯ったように。かつて2人が放った熱は散らずに、受け継がれ、誰かの体温を保ち続けている。その事実は、岡崎京子の(そして、わたしたちの)疲弊した魂をひどく慰めるだろう。




「これは友情だけでできております」と小沢健二は言った。小沢健二岡崎京子の友情。そして、この日の『ミュージックステーション』では、満島ひかりがサプライズで登場し、パフォーマンスを繰り広げた。出演者の中にはFolderというユニットで活動を共にした三浦大知がいる。ある若い期間、強く魂が結びついた小沢健二岡崎京子という関係性が、三浦大知満島ひかりの共演というトピックにトレースされてしまう奇跡には、目が眩んでしまった。ここでもやはり、受け継がれているのだ。


この頃の 僕は弱いから 手を握って 友よ 強く

この頃は 目が見えないから 手を握って 友よ 優しく

ここで歌われる”友”というのはもちろん岡崎京子のことなのだけど、そこに限定されないのでは、というような気もしている。弱った小沢健二の手を握る”友”とは、二階堂ふみでもあり、満島ひかりでもあり、小沢健二岡崎京子の表現に魂を揺さぶられ慰められた、これまでとこれからのすべての人々に向けられている、そう思えるのだ。



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*1:かつて甲本ヒロト松重豊がバイトしていた古汚い中華屋だ

ロバート・マックロスキー『ゆかいなホーマーくん』

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ゼンマイ仕掛けの機械から大量に流れて出てくるドーナッツ、それをポケットに手を入れたまま片手でムシャリと頬張らんとする少年。たまらなく胸を捉えた。この表紙のイラストだけで、10冊は確保したい代物である。この『ゆかいなホーマーくん』の挿絵を担当しているのは作者のロバート・マックロスキーだ。『カモさんおとおり』(1950)『すばらしいとき』(1978)という絵本作品で二度のコルデコット賞を受賞している。

かもさんおとおり (世界傑作絵本シリーズ)

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すばらしいとき (世界傑作絵本シリーズ)

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とにかく絵がナイスなのだが、肝心の内容もまた、これが実に楽しい作品だった。訳は石井桃子ということで、名作保証つきなのである。1940年代のアメリカの田舎町を舞台とした6つの短編集。登場するのはドーナッツ、珈琲、床屋、フライドチキン、キャンプ場、シェービングローション、映画、署長、判事、スーパーマンに、ストロベリーアイスクリーム・・・・おぉ、古き良きアメリカ。物語は明るく、どこまでもカラっと乾いている。たとえば、1話「ものすごい臭気事件」でホーマーくんはスカンクという珍しい動物をペットとして手なづけるのだが、相棒めいたポジションにつくでもなく、絆めいたものはほとんど描かれることはない。ハイライトである3話「ドーナッツ」では、分量間違いと機械の故障で、無限と言わんばかりにドーナッツが溢れ出てくる。しかし、お話は「もったいない」だとか「機械文明批判」といった道徳めいた方向には進まずに、ホーマーくんの機転を効かした解決策がただただフューチャーされるのだ。


舞台となる田舎町が、なにやら活力にみなぎっている。町に騒動を巻き起こすのは、オートメイションによる大量生産、コピーライティング、看板広告、画一化された住宅街など、変わりゆく時代の波である。そんな大量消費社会を皮肉めいた視線で描きながらも、物語のホーマーくんたちはどこまでも楽しく資本主義を謳歌している。その筆致が新鮮であり、心地よい。なんたってドーナッツの洪水である。それを町中の人が珈琲やミクル、ソーダ水にひたしてフガフガと食べ狂うのだ。当時のアメリカという国の、勢いみたいなものを感じる。


機械いじりが趣味で、ラジオで自主制作してしまうほど賢く、クールなホーマーくんはかっこよくて素敵なのだけども、後半3編は、その存在感は薄い。真の主役は、聡明なホーマーくんの周りにいる大人になりきれない大人たちだろう。彼らの勝手気ままな振る舞いが情けなくも愛おしく、良質なコメディを形作っています。

坂元裕二『anone』5話

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とうとう周回遅れである。つい不満のほうに筆が走ってしまうので、何度も書き直してしまうのだ。たとえば、序盤で繰り広げられた「すれ違いコント」に、ナレーションによる状況説明が挿入されていたのには、たまらなく暗澹たる想いに駆られた。"すれ違っていますよ"と明け透けに説明してしまうことで、あの場で巻き起こるズレのおかしみは半減してしまう。*1冒頭のプレイバックしかり、ここはもうプロデューサーに腹を括って欲しい。

何もできなくていいの
その人を想うだけでいいの
その人を想いながら、ここにいなさい

「危篤状態の彦星の回復を願い、病院の前に一晩中立ち続ける」という描写にも首を捻ってしまった。祈りが通じる。その感動はわかるのだが、あまりにもスポ根でベタではないだろうか。危篤の彦星(清水尋也)を置いて、BMWに乗って1年前から予約していたレストランへと食事へと向かう家族を、責めるような描写もいささか息苦しい。妹が殺された日にAVをレンタルしていた男を肯定したのが『それでも、生きてゆく』(2011)だった。

怒られるかな…ダメかな
家族だから行かなきゃダメかな
行かなきゃ…

疎遠であった父の最後を見届けたくない娘に、「いいよいいよ」と逃避を呼びかけたのが『カルテット』(2017)だった。そう考えると、『anone』という作品、これまでとは違う領域を描こうとしているのだろう。たとえばそれは、どんな状況の中でも、貫き通さねばならない“美しい心の在り様”みたいなものではないだろうか。4話において、病室の枕元に『銀河鉄道の夜』が置かれていたが、今作での坂元裕二宮沢賢治を指標しているのではないだろうか。他人のために1000万円という大金を差し出す亜乃音(田中裕子)、彦星の手術代を偽札で賄い、その後は逮捕されてもかまわないと言い切るハリカ(広瀬すず)。彼女たちの誰かの幸福のための犠牲の精神は、『銀河鉄道の夜』のカンパネルラや蠍、『よだかの星』のよだかを彷彿とさせる。ともすれば、道徳の教科書のように扱われてしまっている宮沢賢治を、”偽札作りという強烈にイリーガルな現代の舞台で展開しようと試みているのが『anone』という作品なのだ。そう考えるならば、その行方を見届けないわけにはいかぬではありませんか。



『anone』のテーマはニセモノである。ときに”ニセモノ”というのは、なぜ存在するのだろう。それは、どうにもならない人達の「こうだったらいいのに」という”祈り”の裏返しなのではないだろうか。お金、家族、友人・・・誰かが何かを足りないと思う分だけ、この世界にはニセモノが生まれていく。ハリカが娘で、持本(阿部サダヲ)がパパで、るい子(小林聡美)がママで、亜乃音が伯母さんで・・・花房(火野正平)を欺く、という名目はありながらも、そのニセモノの家族の風景は、どこまでも寂しい4人の”祈り”が生み出したものなのだ。

娘のハリカです 文学部です テニスサークルです

こんな台詞からも、”普通のみんな”から零れて落ちてしまった者の切なさのようなものが滲んでいる。


るい子:自首してまいります
亜乃音:そういうの、もう結構です
    <中略>
    そういうの自己満足ですから!

「騙し取った1000万円が盗まれてしまったので自首します」というるい子と持本の謝罪を、亜乃音は「結構です」とあしらってしまう。ハリカの会話の仲介などでコミカルに描かれているが、法律や倫理といった社会のルールを超越した凄まじいやりとり。そして、そんな問題はおざなりに、4人はテーブルを囲んで焼きうどんを食べる。テーブルを囲んだ食事・・・るい子が最後まで本当の家族とできなかったこと。そして、焼うどんに添えられる紅しょうが。もちろん、この紅しょうがとは<赤>であり、”血のつながり”の代替である。亜乃音が玲(江口のりこ)に差し出すも拒まれた<赤>を、4人は分かち合っていく。そして、亜乃音が苺の代わりとして差し出した傘<赤>は、中世古(瑛太)の元に誤配される。中世古もまた、<赤>という血のニセモノで連帯していく疑似家族に仲間入りしていくのだろうか。



ニセモノの家族の4人は、同じパジャマを着て、並べた布団に眠り、揃って歯磨きをして、テーブルについて食事をする。坂元裕二ファンの誰もが『カルテット』を想起したことだろう。

わたしたち同じシャンプー使ってるじゃないですか
家族じゃないけど
あそこはすずめちゃんの居場所だと思うんです
髪の毛から同じ匂いして
同じお皿使って
同じコップ使って
パンツだってなんだって
シャツだってまとめて一緒に洗濯物に放り込んでるじゃないですか
そういうのでも いいじゃないですか

結びつきを深めた共同体は、「行く」ところ、から「帰る」ところに変容する。そこに、中世古という侵入者が現れる。この構図もまた『カルテット』を彷彿とさせる。



300円の蝉柄のパジャマ、白クマの赤ちゃんに匹敵するかわいさのくしゃみ、昨夜のとんかつが並ぶ朝食、ベレー帽とボーダーカットソー、パンの香り、ポイントを貯めること、止まらないおしゃべり、切り過ぎた前髪、ミカン鍋・・・・細部には小さいながらも確かな、生きる喜びが見事に描写されている。これらは昨今ことさら重要視されるようになった”伏線”という脚本の構造の縛りから解放された豊かさだ。「(手袋を)なくした場所の検討はついているの?」と亜乃音に尋ねられるところなどは、本当にさりげないのだけども、生々しい実感がこもっていて、大好きなシーンだ。その一方で、「生きなくたっていいじゃない 暮らせば」といういかにも名言っぽい台詞の意味を掴み損ねていることを正直に告白したい。それよりも、田中裕子の焼きうどんの啜り方だろう。あの”ズゾゾ”という粗野で愛おしい響きこそ、「暮らしましょうよ」という言葉を体現しているように思うのだ。

*1:これではあの視聴者をバカにしくさった『エンタの神様』におけるアンジャッシュのコントのテロップと一緒ではないか

村山籌子/村山知義『リボンときつねとゴムまりと月』

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村山籌子の紡ぐ児童文学は、夫である村山知義によるイラストの魅力と不可分である。上の絵をじっくり見つめて頂きたい。このタイムレスな魅力は異常ではないだろうか。そのシュールレアリスムにはさくらももこの源流を見るよう。とにかく絵もお話も、都会的に洗練され、現代的に混乱している。こんなにもハイセンスな童話が、大正~昭和初期にかけて生み出されていたなんて驚きを禁じ得ない。復刻に尽力した編者は「カラリとして明るく楽天的でユーモアにあふれる」と評していて、なるほどたしかにそうなのだけども、村山夫妻のユーモアの奥底には、やっぱり”かなしさ”が潜んでいるようにも思えて、チェーホフを読むような気分で、村山作品を読みたい。
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表題作「リボンときつねとゴムまりと月」における、この疲弊しきったリボンさんときたらどうだ。なんでも、隣に住むきつね達にいいように搾取されているらしい。見かねたゴムまりと月が救いの手を差し伸べる・・・というわけのわからない話なのだけども、妙にグッときてしまう。多様に異なるマテリアルが擬人化され、当たり前のようにテーブルで食事を交わしている。それがなんだか凄くいいのだ。「わたしは じゃがいも」という短い童謡も素晴らしい。
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わたしは じゃがいも、
じゃがいもに シルクハットは
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもに ながい ステッキ
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもに けいとの かたかけ
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもに 十もんの おくつは
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもが、まちを あるいても
いいですか。

たまらなく哀しく愛おしいではないか。時代に左右されない人間の劣等感みたいなものが*1、見事に掬いとられているように思う。

もしも、あめの かわりに
ねこだの
いぬだの
ねずみだのが ふってきたら
まあ、
どんなに おかしいでしょうね。
そして、
それが、
いくにちも
いくにちも
ふりつづけたら、
まあ
せかいじゅうは
ねこだらけ、
いぬだらけ、
ねずみだらけに
なるでしょうね。

この「もしもあめのかわり」のイマジネーションの裏側にもやはり、理不尽な世界に対する”怒り”のようなものを嗅ぎ取ってしまう。だけども、そこで降ってくるのが爆弾や矢などではなく、猫や犬や鼠であるところに、村山籌子の才覚がある。理不尽にはユーモラスな理不尽で返す。やさしいパンクスだ。そして、この魂は矢玉四郎の『はれときどきぶた』などに受け継がれているのではないだろうか。

*1:ファッションで武装するというのも不変のようだ。そして、そのファッションセンス自体もまた実にモダンだ

エズラ・ジャック・キーツ『ゆきのひ』

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雪が積もった日の幼き高揚感を瑞々しく捉え切った永遠のマスターピース。足跡をつけて歩く、雪の小山を滑り降りる、木に積もった雪を落とす、寝転んで手足を動かす(Snow Angel)・・・いつもと違う白銀の街でのはしゃぎ方がここにはすべて詰まっている。とにかく溜息が漏れるほどに美しい絵本だ。構図や柔らかな色彩の魅力はもちろんだが、切り絵・貼り絵を駆使したコラージュの技法が素晴らしい。異なる素材を組み合わせて世界を作り上げる、というコラージュの手法は、作者であるエズラのアティチュードそのものに想える。この『ゆきのひ』は、発売は1962年。「アメリカの絵本で黒人が主人公になったはじめての本」と言われいてる。黒人差別がより根強い時代において、革命的な1冊だったのだろう。黒人の少年が雪と戯れるという物語には、黒/白の共存という祈りが実にさりげなくトレースされていることに気づくだろう。少年ピーターは黒と白に調和をもたらす天使だ。
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淡い色使いの中で、ヴィヴィットに主張する少年の着る「赤い」マントも印象に強い。これまでに流れてきた多くの”血”を慈しむかのようだ。



雪の中で遊び尽くしたピーターは、家に帰ってもそれがどんなに楽しい1日だったかをお母さんに語り尽くす。お風呂の中でも、1日をどんな風に過ごしたかを思い返す。毎日がこんなだったら、どんなに素晴らしいだろう。しかし、解けない雪はない。ポケットに入れておいた雪玉はすっかり溶けてなくなってしまった。ベットに はいるまえに、ピーターは ポケットに手をつっこんでみる。

ポケットはからっぽ。ゆきだんごは、きえちゃった。
ピーターは かなしく なっちゃった。

そして、ピーターはベッドの中で夢を見る。燦燦と輝く太陽が、積もった雪をすべて解かしてしまう夢だ。とてもかなしい。朝が来て、目を覚ましてみると、雪は解けているどころか、昨日以上に降り積もり、ピーターをさらなる冒険に誘うのである。まったく!なんてハッピーエンドだろうか。こうだから絵本はたまらない。哀しみへの準備なんて、とっくにできている。それはピーターみたいな小さな子だって、充分すぎるくらいに。であるならば、物語は、雪を解かすべきではないのだ。「永遠みたいに、まだまだ遊び続けよう」という、エズラの声。それは生への賛歌みたいに響く。