青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

こだま『夫のちんぽが入らない』

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いきなりだが、夫のちんぽが入らない。本気で言っている。交際期間を含めて二十年、この「ちんぽが入らない」問題は、私たちをじわじわと苦しめてきた。

なんという”いきなりさ”だろうか。どう転んだって面白そうな導入だ。”普通ではない”物語を覗けそう、という下世話な期待。しかし、物語は予想だにしない場所に転がっていく。ちんぽが入らない。とにかく入らない。その入らなさが、出血と共に執拗に繰り返される事で、愛する夫のちんぽが入らない、という稀有で残酷な現実が、普遍のものとして物語にドーンと貼り着く。すると、浮かびがってくるのは、子どもを作らずに2人で生きていくことを決断した”普通”の夫婦の話なのである。その決断に至るまでの20年間に、2人にどんな出来事があり、どんな感情の流れがあったのか。それは本来であれば、知り得るはずのない他者の人生の”奥行き”のようなものである。その奥行きの途方もない広がりに圧倒されてしまう。人間というのは、そして世界というのは、こんなにも複雑な構造をしているのだ、という事を本書は教えてくれる。


ちんぽが“入らない”“、”行き止まり“という事実が、奇しくも夫婦の生き様や人となりを体現してしまっている。2人は社会やシステムに巧く接続できないタイプの人間であるように描写されている。集団や輪の中では、どうしても”ノイズ”を発生させてしまう。これは枠の外に弾き出されてしまった人々の物語なのである。

私たちが本当は血の繋がった兄妹で、間違いを起こさないよう神様が細工したとしか思えないのです

2人は”孤児”のように、”兄妹”のように身を寄りそって生きていく。そう、このブログで本書を取り上げるのであれば、触れねばならぬのがcero「Orphans」という楽曲の存在だろう。

別の世界では 二人は兄妹だったのかもね


cero「Orphans」

ceroのボーカリスト髙城晶平は、同人誌『なし水』に収録されていた本書のオリジナル版にインスパイアされ、この曲の歌詞を書き上げたのだという。ceroは、その接続不可能性を、ティーンエイジャーの恋に託した。結ばれてはならない愛。しかし、たとえ肉体的に結ばれたとしても、恋人であろうが、夫婦であろうが、人間は根源的には孤独な生き物のはずである。であるのならば、兄と妹のような2人に流れる”親密さ”こそが、この世界を生き抜く為の”愛”なのだ、と信じたい。


恋人は?結婚しないの?子どもは作らないの?あーうるさい。我々はそういった”気安さ”を捨て、想像力を鍛え上げていかなくてはなるまい、と自戒を込めて想う。野木亜紀子の『逃げるは恥だが役に立つ』、『Kai-You』のマツコデラックスインタビュー、木皿泉の『富士ファミリー2017』、そしてこだまの『夫のちんぽが入らない』ときて、いよいよ決定版の登場という感じか。”呪い”を解いていかねばなるまい。という風に書くと、何やらどこまでも深刻そうな話に思えてくるかもしれない。勿論、深刻は深刻なのだけども、どこかこの状況を楽しんでいる、というか楽しもうとしている作者の姿勢が本書を何より魅力的にしている。泣きながら笑うこだまさん。であるからなのか、物語として抜群に面白い。夫婦の出会いである学生時代を描いた序盤のエピソードの非凡性と圧倒的なリリカルさ。中盤における、夫婦が一般的な倫理から堕落していく展開のドライブ感は阿部和重の小説すら想起した。もはや大ヒット間違いなし、という感じですが、タイトルで躊躇してしまう方にも、改めて激烈レコメンドしたい一作だ。

夫のちんぽが入らない

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大島弓子『秋日子かく語りき』『ロングロングケーキ』

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あなたは大島弓子を読んでいるだろうか。その眩いばかりの傑作群は、漫画作品のみならず現行のあらゆるジャンルのポップカルチャーに根強く影響を与え続けており、今なお必修のテキストなのである。*1いや、そういう言い方は違うかもしれない。大島作品を読むというのは、大袈裟に言うのであれば、”魂の救済”のようなものだ。とりわけ”枠からはみ出してしまう人々”への眼差し。大島作品の登場人物は、常識から外れた場所で大きな声を上げることで、どんどん壊れていく。文字通りに精神をきたしてしまう者もいる。しかし、それでも懸命に強い想いを持ち続ける事で、ある瞬間、世界そのものが変容し、彼らの”おかしさ”がスルっと肯定されてしまう。”おかしさ”が治るのではない。おかしい者がおかしいままに許されるのだ。それがどんなに優しい物語であるか、想像がつくだろうか。大島弓子の作品は、大小様々な”生き辛さ” (話題のマツコ・デラックスのインタビューでも登場したワードだ)を抱えた、現代を生きる全ての人々の魂をギューっと抱きしめる事だろう。


しかし、いざその巨大な山脈に挑もうにも「どこから手をつけていいのやら」と途方に暮れてしまうはず。「画があまりに前時代な少女漫画で・・・」と、食指が伸びきらないことも想像に難くない。そこで、「大島弓子の最初の1冊」に相応しいテキストを選出してみることにした。素直に選べば『綿の国星』(1978)になるだろう。

綿の国星 1 (白泉社文庫)

綿の国星 1 (白泉社文庫)

大人になれば人間になれる、と信じて疑わぬ子猫の愛と冒険の物語。誰もが認める代表作だ。しかし、大島作品においては珍しい長編作であるため、いささかハードルが高いかもしれない。小泉今日子主演で映画化もされた『グーグーだって猫である』(1996)
グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)

グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)

もまた代表作に違いないが、あちらはエッセイコミックであるから、いったん置いておくとしよう。すると、

きょうはあしたの前日だから……
だからこわくてしかたないんですわ

という伝説的導入で始まる『バナナブレッドのプディング』(1977)

バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

が大本命だろうか。岡崎京子が『ジオラマボーイパノラマガール』(1988)で

ウチのおねいちゃんスレてるくせに
夜ねるマエに必ずバナナブレッドのプディング読むヒトだからさー

と引用してみせ、よしもとよしともが『バナナブレッド』(単行本未収録)で大胆にカバーした、なんて史実も、ポップカルチャーファンの心をくすぐるに違いなし。いやしかし、マスターピースである事になんら異論はないが、そのあまりの強度に、入門編とするには抵抗があるのも正直なところ。やはりここは、『秋日子かく語りき』(1987)と『ロングロングケーキ』(1987)、この2本を推したい。

ロングロングケーキ (白泉社文庫)

ロングロングケーキ (白泉社文庫)

奇しくもこの2本が同時に収録された白泉社文庫が刊行されている。こちらが大島弓子入門編としてあまりにふさわしいのではないでしょうか。『ジギタリス』『庭はみどり川はブルー』など他の収録作も大充実。ストリーテリングと画のタッチが最も成熟している時期。断然読みやすく、抜群に面白い。その上で、表現のコアのようなものは1ミリも緩んでいません。さぁ、本屋へ急ごう。疑り深い方の為に、物語の要点を簡単にまとめて紹介しておきます。本当はネタバレせずに読んで欲しいので、畳んでおきますね。

*1:そもそもこのエントリーの出発点は『逃げるは恥だが役に立つ』の最終回で大島弓子を引用した際に、眼に入ってきた「知らない」という声であった

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ホセ・ルイス・ゲリン『ミューズ・アカデミー』

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台詞の詳細を追いかけようとすると、一部のインテリ層を除けばすぐに置いていかれてしまうだろう。ベアトリ―チェ、エロイーズetc・・・記号的にしか見聞きしたことのない創造のミューズ達を巡る教授と学生の文学的対話、或いはジェンダー論、芸術論。その矢継ぎ早な高尚さは、ダンテの『神曲』を1ページ目で挫折した経験がある者にはとうてい理解のスピードが追いつかない。しかし、そんな劣等感に似たこの映画へのノレなさは、サルデーニャ島のパートに突入するやいなや無化されることだろう。フィクションとドキュメンタリーでの揺らぎ、という点でもこのパートが今作の白眉である事は疑いようもない。そして、何と言って羊飼いの愛!音楽映画が言葉を超えていく。あの愛に倣い、垂れ流される難解な固有名詞を鼓膜から排除し、カメラに映し出される人々の感情の色合いに目を凝らしてみる。すると、高尚に思えたそれらは、どれも下世話な恋愛観の主張や性欲への隠れ蓑(もくしは屁理屈)でしかないように思える。神話がメロドラマへ降りてくる。ゲリンの神殺し、と言いたいところだが、そもそもあるゆる神話や文学の骨格がメロドラマ的である事は既に指摘されている。痴話喧嘩や三角関係というのは、いかにも下世話であるが、当の本人らにとっては、どれも”切実な”問題であって、その感情の機微は充分に目を見張るに値するものである。事実、女達の顔に徐々に灯っていく"熱"のようなものはどうだ。なんでも彼女らはプロの役者でも何でもないらしい。フィクションとノンフィクションを行き来する、という点においても本作はどこか濱口竜介の『ハッピー・アワー』と共鳴しているように思える。


と言うような見方をしてしまうわけだから、今作が美と創造を巡る優秀なコンテキストとなっているのかは判断がつかない。しかし、創造を刺激するミューズの存在については、ゲリンは明確な答えを画面に用意している。建物の窓や車のフロントグラスに映り込んだ女性達の像は、木々に、風に、或いはまた別の人々とに、混ざり合う。女性達が街に溶け込んでいく。すれ違う女性の断片、断片にロマンを落とし込んだ代表作『シルビアのいる街で』を思い出すでもなく、創造を来すような心の動揺というのは、街のあるゆる場所に、知られざるして潜んでいるのである。

大久保「Spicy curry 魯珈」の極上ハイブリット

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2年前の八角旋風、1年前のビリヤニとの衝撃的な出会い。スパイス革命により、私の味覚は地殻変動を起こしている。世界の中心は台湾とインドにあり。とりわけ台湾のソウルフードであり、日本人の味覚にも最も適した魯肉飯にはもうメロメロ。日本でも、台湾料理屋やレトルト食品(最近ではイオンや無印でも販売されている)などを食べ散らかしてみたのだけども、どうにも台北の屋台で食べたような理想の魯肉飯には出会えない。いや、そもそも魯肉飯って見た目や味にブレがありすぎるんですよね。特にレトルト系はひどい。調べてみると、かつて渋谷や六本木に「髭鬚張魯肉飯」という台湾のチェーン最大手店が進出しており、安定した魯肉飯をいつでも食べる事ができたらしい。しかし、現在は石川県の店舗以外は撤退。天を仰いでいたさ中、「髭鬚張魯肉飯」でバイトをしていた方が、魯肉飯を看板メニューとしたお店をオープンしたという情報を発見。しかも、その店主はインド料理の名店「エリックサウス」

で修業しており、魯肉飯とインドカレーを二大看板に掲げているのだそうだ。それだけにとどまらず、魯肉飯とインドカレーのミックスに試みているそうな。2つに分かれていた世界の中心が1つに!駆けつけねば。
SPICY CURRY 魯珈

食べログ SPICY CURRY 魯珈

世界の中心は、JR大久保駅南口から徒歩1分の「Spicy curry 魯珈」でございます。店内は9席。昨年の12月にオープンしたばかりらしい。営業時間が独特なので、注意が必要ですね。

月〜土 11〜16時(火・木は15時まで)
火・木 17〜20時
定休日 日・祝

注文したのは勿論、ロカプレート(トップ画像のものです)。3種から選べるカレーはチキンをチョイス。更に、200円のプチカレーで、店主一押しの「ラムビンダルカレー」を追加しました。どちらのカレーもスパイスがガツンと効いており、一口で脳内がパッカーンと割れるような感覚。味覚のネクストステージである。ラム肉が苦手じゃない方は、ぶっ飛び具合重視でラムビンダルカレーがオススメ。そして、魯肉飯!ついに出会えたあの味。いや、あの本場の味に、より複雑なスパイスのハーモニーが加わっている。美味い、美味すぎます。カレーと魯肉飯のそれぞれ堪能したら、思い切って混ぜちゃう。添えられた煮卵、生野菜、アチャ―ル、マスタードオイル高菜なども一緒くたに混ぜることで、更に味覚はハイブリットに。インドと台湾は1つの国だったのだ。漬物を混ぜることで、ザクザクと食感も楽しい。いやはや。カレーと魯肉飯を両方出す、なんて突飛な発想が、ここまで美しい調和を魅せるだなんて。あまりの美味しさに魯肉飯をお弁当でお持ち帰りしました。勿論、単品でも抜群で「美味しいなぁ」と一人部屋で声が漏れました。魯肉飯は肉増しもできる模様。今回は並びませんでしたが、既に行列もでき始めているようで、あと数カ月でもっと凄いことになっていきそうです。スッと食べたいなら、今しかないかも。急げ―。



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石山さやか『サザンウィンドウ・サザンドア』

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団地やマンションの均等に並んだたくさんの窓の灯りを遠くから眺めていると、あの灯り1つ1つに自分は決して知り得ることのない無数のドラマがあるのだ、と密やかな興奮を覚える。というような事を何気なく女の子に話したら*1、「私はそれってゾッとするな」と返され、結局その子とは何もかもがうまくいかなかった。その途方のなさにゾッとするという感覚もわからなくはない。しかし、私はその途方もなさにこそ胸をときめかせてしまう。私があの窓の灯りの元に広がる暮らしを想像するように、別の誰かが私の住む部屋の窓を眺め、同じように想いを馳せているかもしれないではないか。そんな“ゆるやかな連帯”の可能性に賭けてみたい。と言うよりも、それこそが、誰かと完全にわかり合うなどとうてい不可能な我々の孤独を慰めてくれるたった1つの方法なのではないだろうか、とさえ思うのだ。


こんな感覚が見事に掬い取られている作品を紹介したい。イラストレーターとして活躍する*2石山さかやの商業漫画デビュー作『サザンウィンドウ・サザンドア』である。団地を舞台とした連作短編集。扉の数だけ生活がある。様々な人々が集う団地を舞台にするからには、世代などクラスターを超えた交流がいくつか描かれているが、作者は団地をそういったユートピアのような場所としては捉えていないように思う。だが、石山さやかが描く団地は、上に述べたような”人知れぬゆるやかな連帯”がある。それはたとえば、廊下に盛れる隣人のお風呂場の匂いのようなもの。その匂いを嗅いで「今日こそはオレも湯船に浸かろう」と思考すること。こういった誰にも知られることのない、目には見えないささやかな繫がりだ。


それぞれの人が、それぞれの場所で、同じ花火を見上げるという1話の「今年の花火」が端的にこういったフィーリングを見事にまとめあげているのだけども、単行本化の際にかきおろされたエピローグが更に凄い。”団地が水没する”という夢を、2人の登場人物が同時に見る。現実世界において顔も知らない青年と老人であるはずの2人は、何故か夢の中で同年代の子どもであり、互いに手を取り合い、同じボートに乗り込む。その2人は本編において絡み合っている描写は一切なく、この夢に至る因果律のようなものは見当たらない。しかし、同じ夢を観る。これは団地に住む人々のそれぞれの孤独が液状化して引き起こした洪水なのではないだろうか。目を覚ました青年はそれを「楽しい夢だった」とする。団地はユートピアではない。しかし、繫がりたいという”祈り”のようなものを託すにふさわしい器なのである。


「住宅都市整理公団」別棟 : 物語のインフラとしての団地・『サザンウィンドウ・サザンドア』がすばらしい
団地学の権威である大山顕が指摘するように、団地という舞台を選択しながらも、これまであらゆるポップカルチャーが作り上げてきた既存の団地イメージが希薄である点も興味深い。”団地妻”といった記号に託されていた閉塞感のようなものもないし、「昭和に取り残された」というような悲壮感もない、過去を慈しむようなノスタルジーさえも見受けられない。なんせ第1話にして、結婚1年目の新婚カップルが団地での生活を新しくスタートさせているのだ。未来を見据えた”今”しか、『サザンウィンドウ・サザンドア』の団地にはない。まったく新しい団地モノの誕生なのである。



話題作ですので、漫画読みは既にチェック済みと想われますが、個人的にはceroシャムキャッツの音楽を愛する人々にも手に取って欲しい1作だ。石山さかやの表現は2組のそれと、そう遠くない質感を湛えている。

My Lost City

My Lost City

AFTER HOURS

AFTER HOURS




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*1:学生の頃の話ですよ

*2:インディー音楽ファンにはMiles Apart RecordsやTHISTIME RECORDSのナイス過ぎるイラストでお馴染かもしれない