青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

宮藤官九郎『ごめんね青春!』最終話

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平助(錦戸亮)の罪の告白。既存の教師ドラマ(例えば同じTBSなら『3年B組金八先生』とか)であれば、放送3回分にまたがり、じっくり描くであろうトピックだろう。その告白に生徒達は大反発し、泣き叫び、なんやかんやで「先生ー!!」と抱き合い和解するというのが、デフォルトのはず。しかし、今作はそういったプロセスを一切踏まず、神保(川栄李奈)の「別によくね?」であっさりと受け入れられる。いともたやすく肯定されてしまう。これは放送尺の問題でも、脚本を手掛けた宮藤官九郎の手抜きでもなく、『ごめんね青春!』という作品の強度そのものだ。この「別によくね?」に説得力をもたらす為に、これまでの9話分があったとも言えるだろう。


しかし、作品としてのピークは完全に前回であり、最終回は祭りの最中を描いていながらも、"祭りのあと"のような質感を湛えている。「相撲ミュージカル」「クイズ対決」「お化け屋敷」「坊主&シスターの学園天国」「フォークダンス(青春のバトンはタッチしていかなくてはいけないということ!その循環性)」「ミス&ミスター聖駿」などなど、どれも1話分をかけて描いても耐えうる題材が、足早に処理されていく。対照的にゆっくりと描かれる早朝の後片付けシーン。静岡を舞台にしておきながら、最終回にして、ついぞカメラに堂々と据えられた富士山のあのチルアウト感ときたら。事件の最大の被害者であるサトシ(永山絢斗)と佑子(波瑠)への謝罪を画面に映さずに省略しまう事からもわかるように、この最終回は蛇足なのだ。それは、そうであろう。あの9話におけるリサ(満島ひかり)の素晴らしき"罪の肯定"の後に、これ以上何が語れるというのか。しかし、蛇足は蛇足でも、愛おしき蛇足である。成田(船橋良)の

俺たち、この先進学して社会に出て何一ついい事がなかったとしても
この高三の二学期だけは「最高だった」って胸を張って言えます。本当にありがとうございました!

という台詞の素晴らしさはどうだろう。全くもって、生きていくというのは、そういった最高の瞬間を少しずつ掻き集めていく事ではないか。あとあと、「学園天国」での満島ひかりの脱臼したあまりにもキュートなダンスを君は観たか!?



さてさて、ここからは最終話にならって、蛇足を連ねてみることにしよう。今作のテーマは、延滞した”青春”の返却。宮藤官九郎は過去に映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ

という作品でも同様のテーマを扱っている。ぶっさん(岡田准一)が死に、散り散りになった青春時代の仲間が、ぶっさん”黄泉がえり”現象によって、再び一同に会す。『木更津キャッツアイ』における"ぶっさん"というキャラクターは言うまでもなく”青春”のメタファーそのものであり、その彼がゾンビとして蘇ってくるわけだから、まさに”青春ゾンビ”である。しかし、昔と同様の大騒ぎを散々繰り返した後、最終的にメンバーはぶっさんに

もう帰ってくんねぇかな

と言い放つ。ここから10年の時を経て、宮藤官九郎の筆致は変化を見せている。青春の返却の際に放つ言葉が、”照れ”からくるぶっきらぼうな「もう帰ってくんねぇかな」ではなく、「あー楽しかった」というストレートな肯定に変容している。放送開始時に、今作は『木更津キャッツアイ』と世界観を共にしているのでは、という説が流れた。観音菩薩の母ちゃんは『木更津キャッツアイ』のローズなのではないか?というのだ。緋田康人演じる教頭がどちらの作品にも登場しているというのもこの説を強力なものにした。9話における平太(風間杜夫)の「30年連れ添った女房が」という台詞で、その説は消え去ったわけだけども、そういった史実は抜きにしても、『ごめんね青春!』は『木更津キャッツアイ』の続編と言えるだろう。『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』で公平(小日向文世)とローズの間に生まれた子どもの名は「平助」である。史実はさておき、田渕公平と原平助は”兄弟”なのだ。死んだオジー(古田新田)と会話するぶっさんの姿を、菩薩の母ちゃんにのみ真実を打ち明けていた平助の姿に重ねるのはたやすいだろう。とてもよく似た兄弟。であるからして、『ごめんね青春!』は、“帰ってくれねぇかな”しか言えなくてごめんね!という宮藤官九郎のぶっさん(=青春)への気持ちから始まったドラマなのではないだろうか。