
- 作者: チェーホフ,松下裕
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/09/16
- メディア: 文庫
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学生が村の母娘に、『福音書』に書かれているイエスとペテロの最後の晩餐のやり取りを話しきかせてやると、母は微笑みを浮かべたまま、大粒の涙を流し、娘は痛みを堪えるかのように真っ赤な顔つきになった。
彼は振り返ってみた。ワシリーナ(母)があんなふうに泣き出し、娘がどぎまぎしたところを見ると、たったいま自分が話して聞かせた、千九百年むかしにあったことが、現代のーーーこの二人の女に、そしてたぶんこの荒涼とした村に、彼自身に、すべての人に、なんらかのかかわりがあるのは明らかだった。老婆が泣き出したのは、彼の話しぶりが感動的だったからではなくて、ペテロが彼女に身近なものだったからだろう。彼女がペテロの心に起きたこに身も心も引かれたからだろう。
すると喜びが急に胸に込み上げてきたので、彼は息をつくためにしばらく立ち止まったくらいだった。過去は、と彼は考えた。次から次へと流れ出る事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ。一方の端に触れたら他の端が揺らいだのだ、という気がした。
やがて彼は渡し舟で川を渡って、それから山へと登り、生まれた村や、西の方、寒々とした真っ赤な夕映えが細い筋となって光っているあたりを眺めたとき、昔その園や祭司長の中庭で人間生活を導いた真理と美が、連綿と今日までつづいて、それらが絶えず、人間生活の、総じて地上の必要なものを形づくっているらしい、ということについて考えた。すると、若さと、健康と、力の感覚がーーー彼はようやく二十二になったばかりだったーーーそして幸福の、得体の知れない不思議な幸福の言うに言われぬ甘い期待が、次第に彼をとらえて、この人生が、魅惑的な、奇跡的な、そして高尚な意味に満ち満ちたものに思われてきた。