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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』7話

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6話を観た、誰もが思っただろう。

だれかもつれた糸をヒュッと引き奇妙でかみあわない人物たちをすべらかで自然な位置にたたせてはくれぬものだろうか


大島弓子『バナナブレッドのプディング』より

7話はそんな祈りが通じたかのような兆しが伺える、心震える回でありました。


<佐引の嘘>

佐引(高橋一生)の虚言癖。

俺はな、小室哲哉のブレーンだったんだ

俺があいつ(ウサイン・ボルト)に走り方、教えてやったんだよ

佐引という人間の幼稚さ、もの哀しさを演出していたはずのこれらの台詞が、練(高良健吾)と音(有村架純)の途切れた会話を結び直す。7話におけるとりわけ美しいシーンの1つだろう。このシーンにおいて佐引は、彼の知りえぬ所で救われていると言える。坂元裕二は人間の"みっともなさ"を決して切り捨てたりはしない。余談、ではないが、高橋一生の演技の素晴らしさよ。あの声色と表情。人は誰しも悪魔にも天使にもりうる、そんな今作の隠れたテーマを請け負った佐引という複雑なキャラクターを繊細に演じきっている。


<何屋さんですか?>

「すべらかで自然な位置」というのだから、まずは練に、およそ似つかわしくない悪徳派遣屋という職業から足を洗ってもらわねばなるまい。「引越屋さん」という呼びかけが、恋する2人だけの特別な言葉として多用されている事からもわかるように、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』という作品は「その人がどんな仕事をしているのか」に執拗にこだわるラブストーリーだ。であるから、

もう引越屋さんには戻らないんですか?

という音の問いかけが、当然のように物語を大きく転がしていく事となる。6話に「カラオケ屋さんみたいですね」という台詞があったように、7話冒頭の音と静恵(八千草薫)の会話の中に「お花屋さん」というフレーズが差し込まれていたのを聞き逃してはならないだろう。「何屋さんですか?」と音に尋ねられ、口ごもりながら「曽田です」としか答えられなくなってしまった練。そんな彼の為に、音はフレキシブルに「~屋さん」を用意する。つまりは「”お花屋さん”になって静恵さんの家に帰ってきませんか?」という事なのだけども、その誘いは断れてしまう。しかし、練は「自然な位置」すなわち「引越屋さん」に戻るべきなのだ。音は諦めない。練のじいちゃん(田中泯)の遺品であるパジャマを丁寧に洗濯する音。そんな彼女の姿はまるで2人が出会った頃と同じように「クリーニング屋さん」である。2人はもう1度、引越し屋さんとクリーニング屋さんとして出会い直す。それがあのレシートの読み上げに繋がっていく。なんというすべらかな筆致だろう。


<さっきのアンパン美味しかったから もう一回食べよ>

音がじいちゃんのパジャマから見つけたレシート。その裏にはびっしりと練への想いが綴られている、なんていうのが(いささか臭いものの)セオリーというやつだろう。ましてや坂元裕二であるからして、ここで”手紙”が登場しても何らおかしくないはずだ。しかし、ここで音が読み上げるのは、レシートに記されている日付と品目、そして金額。それだけである。

9月3日12時52分 スーパーたけだ屋
蒸しパン 160円
牛乳(小)120円
一口羊羹 80円

9月4日 13時8分 スーパーたけだ屋
栗蒸しパン 180円
牛乳(小) 120円
きんつば  100円

園芸品を買ったレシートもある。これらのレシートは、佐引の言葉を借りれば"怒りと憎しみだけの人"になっていたはずのじいちゃんが誰にも知られずに繰り返していたささやかな日常の跡だ。1枚のレシートは、無味な記号の羅列でしかないが、積み重なるとそれは、"会ったこともない 何も知らない"じいちゃんという人間を想像させるに足りうるものとなる。

わかんないですけど
本当のところは わかんないですけど
おじいちゃん
怒ったり 憎んだり
そういうのばっかりじゃなかったんじゃないかなって
毎日ちゃんと生活してたんじゃないかなって
昨日は蒸しパンだったから
今日は栗の蒸しパンにしよ
さっきのアンパン美味しかったから
もう一回食べよ
そんな日もあったんじゃないかなって思います
畑の事も忘れてなかったんだと思います

坂元裕二の進化をまじまじと感じる。手紙という得意技を封じ、ミニマルな記号の羅列のみで、居なくなってしまった人の感触を蘇らせる事に成功している。坂元裕二は我々(視聴者)の想像力を信頼しているのだ。そう、私たちは想像する事を許されている。両親との写真を漫画に挟み大事に持ち歩いていた青年。悪徳業者にハメられてしまった彼にも色んな事情があったはずなのだ。このドラマには被災者がいて、また社会から搾取され傷つく多くの若者が登場する。私達は彼らの事を何も知らないし、もしかしたら、わかりあえないのかもしれない。しかし、まずは彼らの感情や痛みを想像してみる所から始めねばならないのだ。


<演出について>

4話において感度の高い演出を見せた高野舞が再び登板している。『最高の離婚』(2013)において、”平行線”という坂元作品の主題を見事に視覚化してみせた並木道子をリーダーとして、3人の演出家は意思疎通がしっかりとれているように感じる。どの演出家においても、人物の立ち位置や動線をとても丁寧に作り込んでいる。6話においては、バーカウンター越しに交わされた音と練の会話は、7話においては、しっかりと”横並び”で撮られている。音が、練との間にある障害を乗り越えようとしているという事を視覚的に演出しているのだ。また、その構図を印象づける為に、練が2台のパソコンを操作する為に移動を行い、その度に”横並び”がやり返される、なんていうのも実に巧妙だ。「街中で慈しむように赤いコーンに触れる」という練の所作が一旦宙ブラリとなり、憧憬のまなざしで見つめる引越屋の作業風景で回収されるという演出も見事。凡百のドラマであれば、「赤いコーンに触れる」という所作の動機をすぐさま説明している事だろう。そうしないと観ている人が不安になるからだ。しかし、今作はあえて一旦放っておく。「理由のわからない運動こそが、人々の心を捉える」という事を信じているのだろう。すぐさま"引越し"と結びつかない「赤いコーン」というアイテムのチョイスも抜群だ。


<スーツとか似合わないですよ、ネクタイとか >

今作において「タクシーに乗る人」と同じくらい露悪的に描かれるのが「スーツを着る人」だ。その偏執ぶりには思わず苦笑してしまうのだけども、こういった作家の個性が作品を豊かにする。施設長の神部、朝陽(西島隆弘)の父や兄、木穂子の不倫相手、練に土下座を要求した男、芸能事務所の社員、スマートリクルーティングの取引先etc・・・と、おそらく今作においてスーツを着ている人間は一様に悪として描かれているわけだが、元を辿ればそれは1話での白井(安田顕)から徹底されていた。ダークスーツを身に纏っていた練は、見事にそれを着替える事に成功するが、未だスーツを着続けている人物がいる。朝陽である。彼の「音を(物質的に)幸せにするのだ」という見えない圧力は、1話における白井の姿がうっすらとトレースされている。音が大切に花を生けていた空き瓶を勝手に買い替えてしまう朝陽の行動は、アンテナ設置の為に花壇を無下にどけてしまう白井の行いと本質的には同じなのである。

<見えない人たち>

音ちゃんを見てると 音ちゃんのお母さんがどんな人だったかわかる
練を見てると 練のおじいちゃんがどんな人だったかわかる
私たち 死んだ人とも これから生まれてくる人とも 一緒に生きていくのね
精一杯生きなさい

ラストにおけるこの静恵の台詞は1話で登場した音の母の手紙と共鳴している。

愛するって心から心へと残していくことだと思う。
音が笑ってるとき、お母さんも笑ってる。
音が走ってるとき、お母さんも走ってる。

音を愛した母の心は、音に息づいている。そうやって続いていく。「人がかつてそこに居た」という事実は、誰かを愛する事で消えずに残り続ける。現在というのは、連綿と続く過去の連なりと結ばれていて、未来もまた同様である。これは勿論、肉親関係のみを指すのではないだろう。例えば、貴方が真剣に愛した、しかし今は連絡先もしらないかつての恋人の中にも、きっと貴方は生きている。坂元裕二は「人が人を好きになった気持ちがずっと消えない」という事をラブストーリーで描き続けてきたわけだが、25年という歳月を経て、「恋をする」という行為が持つ更なる意味を描く事に成功している。