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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

かもめんたる『なのに、ハードボイルド』

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かもめんたる『なのに、ハードボイルド』を新宿シアターモリエールで鑑賞。かもめんたるこそが現役コント師のトップランカーであると信じてやまない。1年ぶりの単独公演も圧倒的でありました。「気まずさ」や「ディスコミュニケーション」を笑いに変換するという手法はもはや珍しいものでものなくなってきたわけですが、かもめんたるの描く複雑な自意識の絡まりは、そういった凡百の作品とは一線を画し、もはや文学の域である。ベタな例えで申し訳ないのだが、太宰治の『人間失格』で説明させて欲しい。

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

あの作品に感銘を受けるような人間であれば、誰もがしこりのように残っているであろう鉄棒のシーン。

自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。それからの日々の、自分の不安と恐怖。

これである。かもめんたるのコントの核は、まさにこれではないだろうか。道化を演じる人間に対して、「おい、わかってるんだぞ」と指摘した時に人から漏れ出す腐臭や場の不穏さ。かもめんたるのコントではそういった感情の機微が、あらゆるバリエーションで”お笑い”というエンターテイメントに昇華されている、その事実に、みんなもっと大袈裟に驚いてみてもいいのでは。笑っていいのである。滑稽で醜い人間は、実に可笑しくて愛おしい。


さて、『なのに、ハードボイルド』なのだが、今まで以上に濃いというか深い。そのモチーフといい、フレーズの冴え渡りといい、「わかる奴にだけわかればいい」というような強度が全編に行き渡っている。『キングオブコント』優勝という栄誉を得ながらも、TVサイズに収まる事ができなかった屈辱が逆に功を奏しているように思える。”やりとりの剥製”という抜群の言語センスが冴える、既存のTVプログラムへのアンチを剥き出したコントなどに顕著だろう。では、かもめんたるは自身のお笑いを広く届ける事を諦めてしまったのかというと、そんな事はないだろう。本作の、なんだかよくわからないけども緩やかな連帯で貫かれたコント群からは、「どうか、わかってくれ」といった”祈り”のようなものが滲み出ている。貴方とは違うかもしれないが、世の中にはこういう人が確かに居て、そして、それは少し可笑しい(素敵な)事なのだ、と。岩崎う大が笑いを通して、訴えかけ続けているのは多様性の許容や重層性の認識。公演タイトルに顕著だろう。「なのに、ハードボイルド」つまり「~なのに、ハードボイルド」である。この多様で複雑な世界においては、たとえ依頼人がすっ転びオナラをしてしまったとしても、いくらでも探偵はハードボイルドでいられる。捉え方次第で。かもめたるが描く世界、その厚みに、私はいつだって信頼と興奮を覚えるのです。