青春ゾンビ

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大杉宜弘『ドラえもん のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)』

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「映画ドラえもん」通算35作目、水田わさび版ドラから数えても10作目、というメモリアルな作品なわけですが、結論から言えば、かの駄作『ドラえもん のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜』(2012)と肩を並べる歴代ワースト級に仕上がっておりました。脚本は勿論、暗転の多用によるリズム感のなさ、キャラクターの等身(これまでの作品に比べるとかなり低くなっている)と背景の整合性のなさが生み出すミニチュア感、キャラクターデザイン・美術のつまらなさ、ヒーロー物でありながらのアクションの魅力の無さ、あらゆる点で不出来。すべてのクオリティがテレビ放送の域を出ていないように感じた。



ヒーロー番組「ミラクル銀河防衛隊」に憧れて自分達で特撮映画の撮影を始めるのび太達。ドラえもんの出した秘密道具ロボット「バーガー監督(スピルバーグのもじり・・・)」の元、ハイクオリティな撮影を開始していく。バーガー監督の演出と思い込んでいたポックル星人や宇宙海賊が実は本物で、のび太達は本物のヒーローとして星の為に闘う事となる。プロットの下敷きは、『ドラえもん のび太の小宇宙戦争』とてんとう虫コミック20巻

ドラえもん (20) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん (20) (てんとう虫コミックス)

収録の「超大作特撮映画”宇宙大魔神”」だろう。あの傑作2本を下敷きにして、よくもまぁここまで知性、豊かさ、スリルを削ぎ落とした脚本に仕上げられたものだ。のび太達が映画撮影を始めたぞ、と思ったらあれよあれよと気づけば宇宙に行ってしまう。無数にある難点の中で、唯一指摘する価値があるとしたら、ここではないだろうか。

焦るなかれ、のび太が眠らなければ、
ドラえもん映画は始まらない

暴言に近いが、少なからず意を得ているのではかろうか。ドラえもん映画の様式美は、序盤で、のび太ドラえもんの過ごす生活感、リズム、季節を印象づけながら、のび太がふと、日常に忍び寄る「すこし不思議」の予兆に勘づく。そして、夜眠る前に「あれは何だったんだろう」もしくは「確かに見たはずなんだ」と振り返る、それが物語が駆動していったはずだ(例外はもちろんたくさんある)。物語の始まりを感じながらも、一旦家に持ち帰る(なぜならのび太は小学生の子どもですから)。これがドラえもん映画の呼吸のリズムみたいなものだと思うのです。また残念というかもったいなかったのは、映画内で映画を撮るというメタ構造が、「誰もが誰かのヒーローになれる」という安っぽい感動にしか作用しなかった事だ。もっとこう”フィクションの力”みたいなものに訴えかける事はできなかったか。そうであれば、ドラえもん映画を35作愛してきた観客への何よりのプレゼントになったのではないだろうか。


なんでも、今作が紋切型のヒーロー映画として作られたのは、監督に「まんがやアニメは本来、子どものものであって、子どもに返してあげたい」という想いと藤子プロ側からの「明るい勧善懲悪物」というオファーから、対象年齢を「小学生まで」と想定して制作されたのだそうだ。「子ども向けに作る事」がイコール「お話を簡単にする」という思考なのであれば、どうにも分かり合う事はできなそうだ。幼い頃にドラえもん映画を観た経験があれば、そんな発想に至るだろうか。