青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ロロ『父母姉僕弟君』


傑作だ。いつもより抑え目の演技でジワジワと感情を揺さぶる亀島一徳や「まさに天使」という感じにキュートネスとサッドネスを炸裂させる島田桃子らの役者陣、トイピアノ、フルート、三味線、鉄琴らが一斉に奏でる音楽前夜社からの素晴らしき提供楽曲、舞台上の見立てのマジック、ありとあらゆるものがネクストレベルなわけだけど、何より脚本に込められた心意気に涙する。


脚本は今まで以上に(意図的に)破綻し、ナンセンスに、不条理に、脱臼・脱線を繰り返し進んでいく。過去・現在・未来の時間軸はセオリーを無視して複雑に絡み合い、生きている者と死んでいる者の境目はなくなり、人が猫になったり、他人同士が突然が家族になってしまったり。三浦直之(ロロ主催者)の手さばきは、フェイバリットとして上げられる舞城王太郎高橋源一郎大林宣彦らの影響を微塵も隠そうとせず、むしろそれらを加速させた形で進んでいく。この暴走した物語の軌道に「なんでやねん!?」が大量発生してしまい、現象を受け入れる事ができないまま振り落とされてしまう人は少なくないように思う。しかし、今作にはそれらの違和感に対するツッコミや受託を我々観客が行う必要はない。劇中においての森永重樹(篠崎大悟)と仙人掌(望月綾乃)がそれぞれツッコミと受託を一身に引き受けてくれているからだ。そのおかげで私たちはこの作品の芯に残されたピカピカ光るものを見つめる事ができるのだ。


それは想像力の可能性。そして、物語が無関係の人々を強引にでも繋いでしまうそのスピードと飛距離。物語が持つその力を三浦直之は心底信頼している。更に彼はこの『父母姉僕弟君』において、「物語は何故生まれるのか?」という問いを、キッド(亀島一徳)と天球(島田桃子)のボーイ・ミーツ・ガールに託した。


私たちはどうしても忘れてしまう。私たちは流れる時間の中に生きていて、”今”はすぐにでも”過去”になってしまう。とても悲しい事だけども。しかし、それに抗う方法が1つだけあるのだ。“今”を正確に捕まえて、懸命に詳細に、あらゆる感覚と語彙を駆使して描写する、ただそれだけ。それだけの事で”今”は”過去”にならず、鮮度を保ったまま冷凍保存される。その描写した何かは、例えばあなたのいつか言った「愛してる」とこれから言うであろう「愛してる」を繋いだりするかもしれない。そして、いつしかそれは“物語”と呼ばれ、遠くの、または未来の、離れた場所にいる多くの人々とあなたを繋げてしまうかもしれない。劇中での「Lifetime Respect」の

一生一緒にいてくれや

や『101回目のプロポーズ』の

僕は誓う、50年後の君を今と変わらず愛している

などの引用も三木道三やあのドラマの脚本家(余談だがあのドラマは脚本家の実体験をベースにしていという噂もある)がいつだか誰かに放った「愛してる」が三浦直之に繋がった結果なのだ。1度誰かに向けて生まれた気持ちは消えないし、古びないし、何度だって転生してまた誰かに辿り着く、というのが三浦がそのピュアネスでもって信じぬく現象で、それこそが彼の創造の源なのではないかと思っている。”過去””現在””未来”全ての「愛してる」が舞台上で平等に光に包まれた時、『父母姉僕弟君』の物語は幕を閉じる。ラスト、突如姿を現した大きな栗の木の下では、まるで関係のなかった人々が手を繋いで眠りについてた。小さな円を作って。



物語は、色々な物に宿る。小説、映画、音楽、絵、写真にも。もっと言えば日記とかブログとかそういったものにさえ宿ると思う。この作品は、「今」をただの「過去」にさせまいと何らかの形で物語を紡ぐ全ての人へ向けられた、三浦直之からの「アイラブユー」なのではないだろうか。古今東西のあらゆるカルチャーつまり物語からの引用で作品を作り上げるロロが、その手法の意図を根源から見つめ直した会心の一撃、それがこの『父母姉僕弟君』なのだ。