青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

チョ・クァンジン『梨泰院クラス』

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『愛の不時着』から『梨泰院クラス』という実にありきたりなルートを歩んだわたしは今、あのイガグリ頭が目に焼き付いて離れないのである。『梨泰院クラス』というドラマを駆動させているのは“土下座”であるからして、”頭”というのは重要なモチーフとなっている。パク・セロイというキャラクターを象徴するあのイガグリ頭。2年後、7年後、4年後・・・というように鮮やかに時間軸を飛ばしていくドラマメイクの中で、登場人物たちのルックスやファッションもまた変容していくのだが、セロイの髪型だけは不変である。そして、セロイの頭を触る癖。照れ、気まずさ、悲しみ、怒りといった感情が込み上げた時、セロイはまず自らの頭を撫でる。また、他者への愛情表現を行う際も、相手の頭を撫でてあげる。

すごいな

と言ってイソの頭を撫でるシーンはこのドラマのアイキャッチとしてあまりに優秀で、世界中の人々がパク・ソジュンにハートを奪われたことは想像に難くない。このドラマにおけるもっとも素晴らしい”頭“を巡るシークエンスは7話だろう。セロイが自らの生い立ちに隠された真実、そして復讐の計画をイソに打ち明ける。セロイの膝に”頭を“置いて横たわったイソは、セロイの身体に刻まれた無数の傷に気づき、涙する。それがセロイの抱える悲しみの象徴であるかのように。

イソ「1人でつらかったでしょ」
セロイ「少しね」

そんな風にして2人の交感が果たされた帰りのバスの中でもまた、イソの”頭“はセロイの肩に置かれることになる。睡魔に負けてグラグラと揺れるイソの頭を愛おしそうに自らの肩に導くセロイ。『梨泰院クラス』において、心というのは”頭“にあるのかもしれない。であるから、セロイは頑なに土下座を拒み、ジッと前を見据える。


土下座を巡る物語である『梨泰院クラス』は、青春版『半沢直樹』というような紹介のされ方をしているようだ。しかし、このドラマを「痛快な復讐劇×青春群像劇」という風にレジュメしてしまうことに戸惑いを覚える。もちろんドラマの軸となっているのは、パク・セロイの長家への復讐、そしてセロイ、イソ、スアを巡る恋の三角関係だ。しかし、復讐の対象となる長家の会長チャン・デヒという存在がどうしても、前述のまとめを拒む。どういうことかというと、このドラマは「セロイとチャン・デヒの15年に及ぶ壮大なラブストーリー」であるように思えてしかたないのである。「俺が気になるんですね?」「信じていました」「ゴールはあんただ」「すごい男でした」「価値観は違えどもリスペクトしていました」「この闘いには価値があった」といったセロイがチャン会長に向ける言葉の瑞々しさ。なによりも、セロイは父を亡くして空っぽになった心にチャン会長への“復讐”の2文字を刻むことで、生きる気力を取り戻すのである。チャン会長もまた、病魔に犯され弱り切ったところ、セロイからの挑発によって生命力が湧き出していく。13話における電話でのそのやりとりが2人のハイライトと言えるだろう。

チャン「なんの用だ」
セロイ「聞きました_ガンを患ったと
    死ぬんですか?」
チャン「君は…」
セロイ「そんなにあっけなく死ぬなんて卑怯です
    天罰?冗談じゃない、罰は僕が下す
    まだ死ぬな」
チャン「(俺の生存を望む唯一の人が君とは…)面白い
    ああ…俺の最後の楽しみは君だ」
セロイ「近々 伺います」
チャン「長くは待てない 急ぐんだな」


ここに横たわっているのは“憎しみ”という感情かもしれない。しかし、互いの存在が生きることの意味となっていることは否定できないだろう。穂村弘という歌人の一首を想い出す。

こんなめにきみをあわせる人間は
ぼくのほかにはありはしないよ

この短歌は江戸川乱歩『人間彪』において、明智探偵が宿敵に向けて放った言葉からインスパイアされて作られたものだそうで、まさにセロイとチャン・デヒの関係性である。愛憎を超越した圧倒的な結びつき。ドラマを貫くこの感触が、『梨泰院クラス』を韓国映画やドラマの伝統ともいえる復讐劇や恋の三角関係というフォーマットに収まることを許さない。もちろん、セロイの長家への復讐はしっかりと果たされるのだけども、ドラマに流れるのは復讐というよりも”許し“のフィーリングだ。「人間は誰しも悪(弱いもの)である」という劇中でも登場する性悪説。そんな人間の”弱さ“や”ずるさ“を、「いいんだよ」「お前は悪くない」「理由があるんだろ」「俺に何をしてもいい」「お前が何をしようが俺は揺るがない」「逃げていい」というようにセロイはひたすらに許していく。そんなセロイの“許し”の積み重ねが、このドラマのメッセージの強度を高めていく。

自分は自分だから
お前はお前だから
他人を納得させなくていい

自分が人生の主体であり
信念を貫き通せる人生
それが目的です

セロイの経営する「タンバム」のメンバーは様々な“生きづらさ”を抱えた人々だ。ほぼすべての登場人物は孤児であり、またソシオパス、トランスジェンダー、元ヤクザ、婚外子、アフリカ系韓国人といったマイノリティである点が、ポリティカル・コレクトネスの観点からも称賛されている。そういった登場人物たちが、「誰からも阻害されることなく、自分の人生を生きる」ことを目指して社会と闘う様が、ドラマを観る者の胸を撃つ。


しかし、マイノリティであるから生きづらいのでなく、「生きるということは、誰しもおしなべてつらいものである」というのもこのドラマの主張だ。人生は往々にして苦い。しかし、誰にも時には”甘い夜”というのが訪れる。それは悲しみや寂しさから解放された、完璧で愛おしい時間。たとえば、セロイやスアと過ごしたハロウィンの梨泰院の夜。あんな時間をいつかもう1度過ごせますように。そして、みんなのに苦い夜が甘くなりますように、という祈りを込めて、セロイは自らの経営する飲食店を“タンバム「甘い夜」”と名付ける。


ドラマの中で最初に放たれる言葉というのはとても重要で、作品の方向性を指し示していることが多い。『梨泰院クラス』ではイソのカウセリングシーンから始まる。

カウンセラー「寝る前によく考えることは?
イソ「ちょっとヤバくて 変に思われるかも
   地球が…滅びればいいのにって」
カウンセラー「何か悪いことでもあったの?」
イソ「別にないけど、何か生きるのが面倒っていうか」
<中略>
カウンセラー「主にどういう時に思うの?」
イソ「いつもです。人生って同じことの繰り返しでしょ?」

そんなイソの人生観を変えるのがセロイである。「退屈な毎日でもいつかはときめくことが起きるかもしれないぞ」とセロイは説く。辛くて、悲しい日々の繰り返しの中でも、ときには甘い夜が訪れる。だからこそ、人は生きることを諦めないでいられるのだろう。


ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を手にしたイソが呟く。

イソ「分かる」
セロイ「何が?」
イソ「もし来世があるなら私は生まれてきたくなかった」
セロイ「どういう意味だ?」
イソ「生きるのってつらいでしょ
   すごくつらいのに
   会長(セロイ)に会ってからこの一節がすごくしみる」


“何度でもいい むごい人生よ もう一度”

『Nizi Project』の素晴らしさに寄せて

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まさに一世風靡という感じの『Nizi Project』の素晴らしさに遅ればせながら打ちひしがれている。もしあなたが(数日前のわたしのように)まだこの番組に触れていないというのであれば、YouTubeで公式にアップされている#1をクリックすることをオススメする。これは単なるアイドルオーディション番組の域を超えた力のあるコンテンツだ。もし、#1を観終えたのであれば、そこに少しだけ余計な解説を添えることをお許しいただきたい。


この番組の主役と言ってしまっていいJ.Y.Park(TWICEや2PMを手掛けるなど韓国を代表するプロデューサー)がオーディションのはじまりに、自らの芸術観を語り出す。

人の見えないところを見えるようにするのが芸術です

これはスイスの画家パウル・クレーの「芸術とは見えるものを再現するのではなく、見えないものを見えるようにするものである」からの引用であろうし、もっとわかりやすく噛み砕くのであれば、サン=テグジュペリ星の王子さま』における「いちばん大切なものは、目には見えない」というキツネの言葉に呼応している。このJ.Y.Parkの信念は番組全体に貫かれており、たとえば、典型的な元気なアイドル像を演じてパフォーマンスをした練習生をこんな風にして諭すのだ。

自分自身がしっかりと感じて表現しているように感じません
僕たちはみんな一人ひとりの顔が違うように、一人ひとりの心、精神も違います。
見えない精神、心を見えるようにすることが芸術です

J.Y.Parkは「人の見えるところではなく、見えないところがはるかに大事だ」と語る。自分はこのオーディションを通じて、その人の持つ想い、心、性格といったものを歌やダンスで表現できる人材を探しているのだ、と。そんな挿話の後、「トン トン トン」という扉を叩く3回のノックと共に、ヒルマン・ニナという天使性を湛えた日米ハーフの美しい少女が現れるシーンはあまりに感動的だ。「扉をノックして入ってきたのはあなたがはじめて」とJ.Y.Parkが少しの戸惑いと共に賛辞を贈った後、少女は圧倒的な歌唱を披露する。あぁ、この少女が物語の主人公なのだと誰もが即座に理解してしまうだろう。当然のように、J.Y.Parkは彼女のパフォーマンスを称賛する。

あなたは完全にスターだと思う
あなたは、自分に対しての表現がはっきりしていると思う
芸術は自分自身を表現することだけど
大体の参加者たちはオーディションを自分の実力に対する評価だと思っている
そうじゃない!そんなコンテストではない
僕はただ、あなた自身の表現力が見たい

ニナは自分自身の表現をすでに会得している。であるから、J.Y.Parkは彼女自身のキャラクターがそのままパフォーマンスに現れていることを褒め称えるのだ。「誰かの真似をせず、自分の声で、表情で歌うこと」というのもこのオーディションを通じて何度もJ.Y.Parkが練習生に伝えるアドバイスの一つ。そして、彼は「わたしたちは誰もが特別な存在なんだ」と訴え続ける。そして、このオーディションに落ちたからといって、その特別性は一切損なわれないと。


さらにJ.Y.Parkは、歌手・アイドルというのは、“世界に自らを真似させるような”存在であるが故に、「常に嘘がなく、誠実で、謙虚でありなさい」と未来ある少女たちに説いていく。その目には見えない美しい精神性がパフォーマンスとして現れ、世界中に伝染していくのだと。まさに!それこそがポップミュージックの力だ。オーディションを勝ち抜いて結成されたNiziUのデビュー曲「make you happy」を聞くたびにわたしは涙ぐんでしまう。

youtu.be

Nothing ヒミツならNothing
Something 特別なモノあげるのに
どんなのがいい? 笑顔にしたいのに
That thing 探し出す キミのために

もう ねぇねぇ 何見て
何聴いて 幸せ?
話してみて すべてね

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

Gave me きれいな恋 Gave me
Held me 小さなこの手繋いで
大切よ ひとりきりにはさせないよ
Take me この私 全部あげたいの

バレバレのハート
私だけのカード
忘れずに そばに来て

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

Tell me Like OOH-AHH
FANCY me do not
be ICY I'm So Hot
no Good-bye Baby good-bye

Tell me Like OOH-AHH
FANCY me do not
be ICY I'm So Hot
no Good-bye Baby good-bye

キミがくれる安心
寄り添って 休めるための場所
光が満ちて Feel いつだって
夢見てるの一緒

完全Sweetなメロディー
本当に癒してくるセオリー
Put it on repeat 聴いて ずっと ずっと
You're my favorite song

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

拙いティーン・エイジャーの恋模様を隠蓑にしながら、ここで歌われているのは「ポップミュージックとわたしたち」の関係性そのものではにか。崇高な精神から放たれる音楽はいつだって、「ひとりきりにはさせないよ」と寄り添ってくれる。この行き先の見えない混沌とした2020年に、わたしたちの気持ちを軽やかかにリフトアップしてくれるヒットソングの誕生だ。*1



J.Y.Parkが共鳴するパウル・クレーが連作で描き続けてきた天使について。それは宗教性を帯びたものではなく、人間の“自己の変容”を表したものだと言われている。どこか未完成な様相のクレーの描く天使たちは、「より良い自分でありたい」というわたしたちの祈りのようだ。クレー自身もこんな言葉を残している。

私が表したいと思っている人間は、現にあるがままの姿では全然なくて、
“ありうるでもあろう”姿だけです

クレーの描く天使のイマージュ、それはまさにオーデイションを通じて絶え間ない努力で「もっといい自分へ」と成長を遂げていく彼女たちにピッタリとはてはまる。J.Y.Parkが「新人の瞳はこの世で最も美しいものの1つ」というように、より良くあろうする人間の懸命さは、なによりも観る者の胸を捉えるのだ。


最後に余談になるが、谷川俊太郎がクレーの描く天使たちに詩を添えた『クレーの天使』という本があるのだけども、クレーの描く天使の中で最も有名な「忘れっぽい天使」にはこんな詩が添えられている。

すぐそよかぜにまぎれてしまううたでなぐさめる



<余談>
『NIziProject』の細部の素晴らしさに言及できていないことに後悔がある。たとえば、オーディションにおけるベストパフォーマンスである若干15歳の天才ミイヒのWonder Girls「NOBODY」カバー。
youtu.be
これはもうデビュー当時の宇多田ヒカルの表現力に匹敵するではないか。


そして、もうひとつ。J.Y.Parkが口だけではなく、優れたアーティストであることのなによりの証左。Twiceに提供した「Feel Special」のセルフカバーパフォーマンス。これぞ、Asian Soulだ。
youtu.be

*1:今年度の新入社員と同行したときに車内で流れたこの曲に、「聞いていると元気になれますよね」と言った新入社員の衒いのない笑顔が忘れられない

パク・ジウン『愛の不時着』

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<Intro>

アロマキャンドルやジャガイモを見かけるたびに、ヒョンビンのあの涙の滲むようなやさしさを思い出し、胸がいっぱいになってしまうのです。これが世に言う『愛の不時着』ロスというやつなのか。世界中で大ヒットを飛ばし、日本においてもNetflix視聴ランキング1位を独占し続けている『愛の不時着』にご多分に漏れずハマってしまった。テレビドラマの登場人物に想いを馳せるというこの感覚はいつ以来のことだろうか。主演陣はもちろんのこと脇役(あの愛すべき第5中隊と舎宅村の人々!)まで、誰もが好きにならずにはいられない人物造形の妙。全編を貫く“結ばれてはいけない2人”という哀しみのトーンを、絶妙に和らげる機知とユーモア。「帰りたい/帰りたくない」という二律背反の感情をベースにしたシンプルなドラマメイクで人間の複雑な感情を描き切る手腕にも脱帽だ。このドラマにおいては稀代の詐欺師すらやさしい気遣いを見せる。


韓国ドラマの純愛ラブストーリーと聞いて少し古臭いな敬遠する気持ちはわからなくもない。しかし、この『愛の不時着』は、その少し古びれたフォーマットの中で、王道のドラマメイクを研ぎ澄まし、細部をアップデートすることで、現代に“観るべき”テレビドラマに仕上がっている。もし未見の方がいるのならば、どうか重い腰を上げてみて欲しい。以下はネタバレになりますので、約80分×全16話という果てしなく長い道のりの果てに再会できることを祈りたい。

<間違えてもいい、ということ>

主人公であるユン・セリが経営するファッションブランドの名が「セリズチョイス」であることが示すように、『愛の不時着』というのは“選択”の物語だ。いや、選択の“誤り”についての物語といっていいかもしれない。韓国の財閥令嬢であるユン・セリがパラグライダーでの飛行中に竜巻に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまうところから物語は始まる。その第一発見者となるのが北朝鮮の軍人リ・ジョンヒョク。彼はユン・セリに韓国への帰り道を伝える。

まっすぐ行くと分かれ道が現れる
そこで右に行け

しかし、ユン・セリは自分の直感を信じて左の道を選び、韓国への帰路をどんどん外れていくことになる。こんな風にして、ユン・セリは何度も選択を誤り、北朝鮮から韓国に戻ることを困難にしていくのだけども、物語はそんな選択の誤りを「運命の人との出会い」として書き換えることで、優しく肯定していくのだ。5話においてユン・セリは”乗り間違い“だらけの自らの人生を

間違った電車が時には目的地に運ぶ

というインドの諺に擬え、自らとリ・ジョンヒクを鼓舞する。このやり取りが最終話において「乗る電車を間違えたんだ」というリ・ジョンヒョクの台詞としてリフレインし、2人の再会の呼び水となるという筆致の鮮やかさ!この『愛の不時着』というドラマをエモーショナルに駆動させるのは、いつでも“間違える“ということなのだ。


たとえば4話でのリ・ジョンヒクがアロマキャンドルと間違えて買ってきたロウソクのエピソード。間違えて購入したロウソクが停電時の灯りとして機能し、さらには今度こそ間違えずに買えたアロマキャンドルは、本来の機能を離れ、市場ではぐれてしまったユン・セリをリ・ジョンヒクのもとへ、まるで灯台のようにして導く光源となる。そして、以下のやりとりだ。

今回は香りすがするロウソクだ。合ってる?
合ってるわ

合ってないけど、合ってる。この台詞だけ抜き出してしまえばなんでもない言葉のやりとりの中に、複雑な感情が編み込まれ、”アイラブユー“と同義の響きさえもたらしてしまう巧みな脚本術は、今作のハイライトの一つに数えたい。


そして、“間違い”を肯定する物語は、様々な誤配と循環を生み出していく。ク・スンジュンがユン・セリへのプロポーズとして渡した指輪がソ・ダンへ。リ・ジョンヒクが兄へとプレゼントした腕時計がユン・セリからリ・ジョンヒクへ、と思いきやチョン・マンボクの元に。指輪を巡るエピソードにおいては、愛情の矢印がスライドしていくこと(別の誰かのために買った指輪で愛を誓うこと)すら許してしまっている。これらの誤配と循環を支えているのは、物語の中に何度も登場する質屋の存在と言っていいだろう。質屋が引き起こす巡り巡る運動は、ひとたび誰かに向けて放った気持ちは、周り回ってまったく別の誰かに届いてしまうかもしれないという、この残酷な世界に潜むささやかな希望を導き出している。たとえば、リ・ジョンヒクが兄のために、そして少女のために弾いたはずのピアノの音色が、自殺しようとしていたユン・セリに生きることを諦めない強さを与えてしまったように。こんな風に、間違えながらも、人と人は結ばれていく。だからこそこ世の中は、生きるに値するおもしろさを秘めているのだ。


<断ち切られてしまうものが一つもないように>

『愛の不時着』というドラマが世界中の人を魅了しているのは、劇中でもその名が挙げられるように『ロミオとジュリエット』、『織姫と彦星』といった“結ばれてはいけない2人”という古典的でありながらも、誰もが共感できるラブストーリーを踏襲しているからと言っていいだろう。いや、『ロミオとジュリエット』や『織姫と彦星』のみならず、『愛の不時着』はこの世のすべてのラブストーリーを焼き増ししていく。どこかで見たことがあるようなシーンの継ぎ接ぎ(=サンプリング)なのだ。

愛する人たちは再会できる
どんなに遠くにいても
最後には戻ってくる
愛は戻ってくる

大胆にもチェ・ジゥをサプライズ召喚し、韓国ドラマを代表するラブストーリー『天国の階段』(2003)の台詞を引用し、ストーリーの主題として響かせる態度からもそれが窺えるだろう。リ・ジョンヒョクとユン・セリの恋は、38度線という巨大な現実の前に何度も断ち切られそうにななる。しかし、断ち切ろうとする強い力に逆らい、何度でも結ばれていく。その2人の懸命さはまるで、この世の中に存在した「もう会えなくなってしまったすべての恋人たち」に捧げるかのようである。もうこの世界に断ち切られてしまうものが一つも存在しないように、2人は結ばれよう結ばれようと戦うのだ。


<“正しさ”を世界に伝染させる>

2人のラブストーリーは世界に影響を与えていく。韓国と北朝鮮という舞台ゆえに、2人の恋の行末に”統一“を重ねさせてしまうからというのは勿論なのだけども、『愛の不時着』のすばらしさは、そんな大きな物語に回収されることなく、小さな人間の営みが世界を変えていくというような感触が豊かに描かれている点にある。


リ・ジョンヒョクとユン・セリの営みの”正しさ“は、世界に伝染していく。たとえば、5話において寒空の下のユン・セリに自らのコートを掛けてあげるリ・ジョンヒク。その姿を遠方からたまたま見ていた、ク・スンジュンがそれまで邪険に扱っていたチョン社長と毛布を分け合うというあの何気ないシーンはどうだ。そして、「世界の音を聞く人」としての耳野郎の存在だ。恋路を盗聴する耳野郎ことチョンマンボクは、どんな苦境に立たされるようとも正しくあろうとする2人の態度に感化されていく。そして、耳野郎の存在は、2人の恋の行末を見守るわれわれドラマの視聴者と同義。このドラマを愛する者は後を絶たないだろう。リ・ジョンヒョクとユン・セリののやさしい眼差しのイメージは、いつまでも留まることなく広がっていくのだ。

シャムキャッツは”忘れていたのさ”

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そうだよ 僕は忘れていたのさ

シャムキャッツの記念すべき全国流通盤『はしけ』の1曲目を飾っている楽曲は、執拗なまでに「忘れていたのさ」と連呼するのである。一体何を忘れてしまったのかは明言されないのだけど、彼らは、いや、“わたしたち”はたしかに何かを忘れている。わたしはなぜ生まれてきたのか、わたしはなぜ生きているのか、わたしはこれから何をすべきなのか・・・さっぱりわからない。この得体の知れない“欠落感”のようなものは、この世界に生きる人々の共通の切迫感だろう。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

とデビュー作である詩集『二十億光年の孤独』に収められたこの詩に若き谷川俊太郎は「かなしみ」と名付けている。しかし、シャムキャッツの「忘れていたのさ」という楽曲には切実さが微塵もない。曲調も構成もとにかくファニーで、ウォーミ―でオリジナル。あっけらかんとその欠落感を歌い上げる。

引き出しを
1つ 2つ 3つ 4つ目の奥と
5つ目の奥にも 6つ目は飛ばして
7つ目と8つ目の引き出しの奥に
大事なものを
入れておきたい気持ちを見つけたけれど
僕は忘れたふりして街に出た

あまつさえ、彼らはその忘れものを見つけても、また“忘れたふり”をしてどこかに出かけてしまうのだ。シャムキャッツのメインソングライター夏目知幸がインタビュー(https://www.cinra.net/report/201910-natsumetomoyuki_kawrk)にて

誰かが仕込んだことには加担したくない

というのが一貫したメッセージだ、という言葉を残している。まるで全人類にプログラミングされたかのような欠落の切実さにも、唾を吐くのだ。これがわたしにとってのロックバンド、シャムキャッツ


甘い気持ちで言うんだよ
ああ渚、これから何をしようが勝手だよ

という代表曲「渚」の一節のように、シャムキャッツが突然解散してしまった。1985年生まれの彼らとは同い年で、その時々に届けられる音源を同世代の現状報告のようにして受け取っきた節がある。“落ち着かないのさ”、 “うまくいってる?”、“GET BACK”、”なんだかやれそう”、”AFTER HOURS”、“Friends Again”、“このままがいいね”、“完熟宣言”・・・楽曲やアルバムのタイトルをこうして並べるだけで、この10年間の試行錯誤がありありと思い浮かぶと同時に、どれほどまでにシャムキャッツに勇気づけられてきたことかを思い知らされる。とてもとても寂しくて、言いたいことは山ほどあるけど言葉になっていきません。なのでただ「お疲れ様でした」という言葉を残したい。またいつか、中年の現状報告を聞かせて欲しいなって思います。

最近のこと(2020/07/04)

iPhoneの充電を忘れたままに眠ってしまい、アラームが鳴らず昼まで眠ってしまう。腹ペコだったので、外に出て近所の気になっていた喫茶店で日替わりランチを食べる。ハンバーグと目玉焼きと海老フライ。どれも決して美味しくはないけども、懐かしい味でほっこりする。近所にはまだまだ気になるお店がたくさんあり、こんなにも食べるのに困らない土地に住んでしまうと、もう東京の郊外に戻れる気がしない。

腹ごなしに散歩に出る。休日のビジネス街を彷徨っていると、土曜日にもかかわらず営業している1000円カットのお店を見つけた。ちょうど髪も伸びていたので、思い切って入ってみる。品のいいマダムが丁寧にカットしてくれ、満足な仕上がり。「髪切った?」と聞かれるのが苦手なので、だいたいいつも「長さを1センチ短くして、あとはそのまま軽くしてもらう感じで」と注文するのだけど、その意図を一発で汲み取ってくれた1000円カットの美容師ははじめてかもしれない。もう今や東京には1000円カットなどほぼ存在せず、そのほとんどが1500〜1800円に値上がりしているのだけど、こちらはきっかり1100円のお会計だった。髪を切り店を出ると雨が降り出してきたが、そのまま散歩を決行する。先週と同じく足が自然と船場センタービルに向かっていく。町田洋の漫画で突如としてトレンド入りしてしまった船場センタービルだが、現地にはそんな浮かれた気分は皆無で、どんよりと平常運転だ。漫画にも登場した“船着き場のベンチ”がこちら。いい青なのだ。人が座っていないベンチを探すのが難しいくらい利用者が多い。あの漫画の「眠る直前に“世界の真実”に辿り着くも、目が覚めるとそのすべてを忘れてしまっている」という挿話が、先日書いたシャムキャッツ「忘れていたのさ」についてのエントリーともリンクしていているように思える。センタービルを抜け出し船場の博労町というエリアを彷徨く。Twitterでオススメしてもらった「ZABOU」という洋服屋さんを覗いてみた。チャンピオンのT1011のネイビーとHAV-A-HANKのチョコミントカラーのバンダナを買った。T1011なんて何枚あったっていいのだ。バンダナをもちろん頭や首に巻くわけではなくハンカチ代わりです。

寺の前にオフィスビルという珍しい建物を見つけた。ちゃんと寺への導線を確保してあるのがクールだ。家の近くまで戻り、その途中でビルの5階にある「古書象々」という古本屋を見つける。芸術や児童文学、さらにはオカルトやエログロなども抑えた品揃えも抜群だけども、本の状態がまた素晴らしい。岩波文庫などは新品かと思うほどだった。辻征夫の詩集の初版がいつくか置いてあって、思わず手が伸びるところだったが我慢。中野重治室生犀星』(筑摩叢書)、寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫)、J.L.ボルヘス『伝奇集』(岩波文庫)を購入。『柿の種』は東京の家にあるけども、200円だし、読みたくなったので買ってしまった。ビルを出て少し歩いて、傘を忘れたことに気づき店に戻る。傘立てにビニール傘が2本あって、どちらが自分のものかわからない。悩んでいると、お店の人がちょうど出てきて「汚いほうがわたしのです」と言ってくれたので助かりました。

紀伊國屋書店」で石黒正数の『天国大魔境』(講談社)の4巻を買う。5月に出ていたようだけども、すっかり見落としていた。性差をはじめとしてあらゆるものを溶かして物語を紡いでいて、すごい境地だなと溜息をつく。トリュフォーの『ある映画の物語』(草思社文庫)も少しずつ読み進めているのだけど、とにかく示唆に富んでいて、付箋を貼りまくりたい気持ち(けど、付箋がない)。

そんなこんなで土曜日は暮れていく。映画館に行きたいのだけども、なかなか気力が湧いてこない。神戸か京都まで足を運んで、サウナに入り身体の凝りをほぐしたいなとも画策しているのだけど、いつになったら実行できるのだろう。