青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

Netflix『TERRACE HOUSE OPENING NEW DOORS』

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想いを寄せる安未とのドライブデートが上手くいかなかった雄大。得意の料理で挽回しようと、スーパーへの買い物に安未を誘うも、やんわりと断られてしまう。何もかもが期待どおりに運ばすにふて腐れる雄大は、場の空気を悪くしていく。その子どものような振る舞いを、年上メンバーの貴之から諭されるやいなや、「ギスギスした感じはなくせる」と空気を読まずに安未のいるプレイルームに突入していくも、愛想をつかしている安未はその場から立ち去ってしまう。

貴之「失敗したな」
雄大「失敗でした?」
貴之「来るべきじゃなかったな、雄大は」
雄大「なるほど。でも、ここに来れるくらいのスタンスなんだなってのはアピールできましたね」
貴之「アピール??」

雄大は精一杯の強がりをみせるも、堪えきれず泣き出し、何故かピースサインで涙を拭う・・・6話「First Snowfall」から7話「I Erased Hime From My World」にかけて映し出されていた一幕。何を見せられているのだろうと思いつつも、これで一気にテラスハウスシリーズに引き込まれてしまった。身に覚えがあるような、ないような、一人の人間の情けなさ、みっともなさ。テラスハウスには、映画やテレビドラマからは削ぎ落とされてしまうであろう、実に"小さきものたちの鼓動"が息づいているのだ、と確信した。それらは決して物語にはなりえない。しかしだからこそに、豊かな"生"の証のようなものだ。


初めてテラスハウスシリーズに触れて驚いたのは、参加メンバー達は必ずしも恋愛に重きを置いていないということだ。『あいのり』のように、告白がゴールではなく、メンバーたちは恋愛を成し遂げようが、遂げまいが、あらゆる理由で勝手気ままに卒業していく。視聴者が求めるような全うな恋愛ストーリーは実に稀で、ほとんどのメンバーが物語とは呼べないような断片を散蒔いては、テラスハウスから去って行くのである。この「脱・物語性」がゆえに、テラスハウスは様々な人間の唯一無二の"個"の煌めきを映しとることに成功しているのかもしれない。


とは言え、この最新シリーズである『TERRACE HOUSE OPENING NEW DOORS』の序盤は、つば冴と至恩というカップリングによる、スポーツ群像劇と少女漫画を掛け合わせたような起承転結のある美しい物語が用意されていて、それがたまらなく視聴者を魅了するのも確か。だが、この2人の物語で私が最も心奪われたのは、こんなシークエンスだ。つば冴の実家は蕎麦屋を営んでいて、メンバーが蕎麦を食べるシーンが何度か挿入される。初めて店を訪れるメンバーは冷たいデフォルトとも言える冷たいお蕎麦を注文するのだが、つば冴は必ず温かいお蕎麦を食べている。小さい頃から蕎麦を食べてきた彼女なりのこだわりなのだろう。つば冴と仲を深めた後に、他のメンバーと店を訪れた至恩が温かい蕎麦を注文するのだ!!もしかしたら、「このあいだは冷たいのだったから、今日は温かいの」くらいのことなのかもしれない。しかし、単なる深読みと言われようとも、カメラに映らなかった2人の会話を想像してしまうではないか。蕎麦の注文が冷から温に変わる、この実に些細な事象に、人と人が触れ合って変化していく様が刻まれている、これが私にとってのテラスハウスだ。寮長と呼ばれる31歳の男が、20歳の女の子に惹かれていくなかで、少しでも若く見えるようにと、ご自慢の髭を剃り落すシーンで、落涙した。"個"の煌めきというのは、他者と関わって初めて生まれる。貴方が愛した人は貴方の中に息づき、その逆もまたしかり。そうやって、営みは続いていくのだ。



定点カメラを軸とした一つ一つのショットの美しさ、スタジオメンバーの底意地悪くもエンタメとして成立しているいじり芸、翔平さんの人の良さ、俊亮によってか垣間見えた新世代のジェンンダー観の希望、優衣が体現する人間という生き物の複雑さ・・・などなど言及したい点は山程あるのだけどまとまらないので、またの機会としたい。この軽井沢編は残すところ4話で終了だそうだが、「テラスハウス、もっと早く観ておけばよかった・・・」と後悔させてくれるに相応しいシリーズでした。

くりはらたかし『たんぽぽふうたろうと7ふしぎ』

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今、1番素敵な絵を描く漫画家/イラストレーターはクリハラタカシさんなのです(断言)。やわらかい線で紡がれる所作の中に、生きることの喜びが詰まっています。くりはらたかし名義の新作絵本が発売されました。さすらいのたびびと"たんぽぽふうたろう"が"おおだぬき"を退治するお話。物語に絡んでこないチューじろう、首根っこ掴まれるマメだぬき、おむすびを運ぶおばあさん・・・とモブキャラのかわいさにも細かく言及していきたくなってしまうのですが、おおだぬきとふうたろうの追いかけっこ、その転がるような疾走感がこの絵本の白眉です。カメラアングルとコマ割りの秀逸さ、講談調の歯切れのよいテキスト、何度も声に出して読み返したくなること必至。お母さんもぜひお子様にすすめて上げてください*1。タイトルにもある「もののけがはらの七不思議」はこうである。

①小石をなげいれると 岩が ふる いけ
②手を たたくと おじぎを する スギの木
③のぼると いちばん したに とばされる かいだん
④なでると くびが とぶ じぞう
⑤ふりかえると そこに いる ダルマ
⑥ふむと けむりを はく カエル
⑦かぜも ないのに ゆれる 草

なんともばかばかしくてかわいらしいではありませんか。この"無用の長物"とでも言うようなものたちが絡み合い、そこに"在る"意味を為していくカタルシス。ページをめくるたびに、瞬間、瞬間の煌めきのようなものを感じてしまうのです。



ちなみに、今年1番読み直した漫画はクリハラタカシの『冬のUFO・夏の怪獣』です。

冬のUFO・夏の怪獣

冬のUFO・夏の怪獣

「ひろしとみどり」永遠に読んでいたい。もうすべてが大好きなのだ。発行は信頼のナナロク社から。未読の方はぜひ手に取ってみてください。

*1:Ⓒエキセントリック少年ボーイのテーマ

大賀俊二『映画 おむすびまん』

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さる日のTBSラジオ『ハライチのターン』で話題に上がっていた30周年*1を記念した『それいけ!アンパンマン』の人気投票。結果の詳細が気になり、サイトをじーっと眺めていると、ふと思い出した。私は"おむすびまん"が大好きだったのだ!いや、ビックリマークを持ち出すほど意気込んだ話ではないのだが、「アンパンマンしょくぱんまんカレーパンマン」の御三家にいまいち思い入れを持てなかった幼少期の私は、どこかニヒルなおむすびまんを推しに選んだのであった。先の人気投票では第23位と微妙な意味にランクインしているが、おむすびまんは実にかっこいいヒーローなのだ。そして、おむすびまんは私の映画原体験でもある。『それいけ!アンパンマン ばいきんまんの逆襲』(1990)という映画シリーズの第2作目、これがおそらく初めてのスクリーン体験。本編と同等、もしくはそれ以上に同時上映であったおむすびまんのスピンオフに心奪われた。「ひとくち村のこむすびまん」「おばけ寺のたぬきおに」という10分程度の2つの連作なのだけども、約30年ぶりに観返してみたところ、これがなかなかにいい。

あっしの名前はおむすびまん
以後お見知りおき申し上げるでござんす

こんな口上で映画は始まる。股旅姿に三度笠のおむすびまんは、流浪の旅を続ける渡世人だ。決して一カ所には留まらない。悪事に悩まされる市井の人を助けては、「あっしには旅の夜風が肌に合う」と挨拶もそのままに、そっと立ち去っていく。任侠映画や西部劇がトレースされたこのフィーリングがとにかくかっこいいのである。アクション映画としても秀逸で、おむすびまんが六尺棒を振り回して、実に小気味よく動く。林原めぐみ演じる"こむすびまん"はどこまでもソーキュートであるし、満腹寺ラーメン、ぶた地蔵、なめくじおばけ、"ひとくち村"という食べられることが前提なネーミング・・・細部がいちいち豊かで楽しい。とは言え、何を差し置いても観て欲しいというほどの作品ではないのですが・・・思い入れが強いので、つい記事にしてしまいました。



<参考サイト>
www.anpanman.jp

*1:初めて気づいたのだが、私はアンパンマン第一世代なのですね

プロフェッショナル仕事の流儀「 生きづらい、あなたへ~脚本家・坂元裕二~」

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「私 この人のこと好き 目キラキラ」みたいなのは
そこには本当はない気がするんですよね


バスの帰りで雑談をして
バスの車中で「今日は風が強いね」とか
「前のおじさん寝ているね」「うとうとしているね」とか
そんな話をしながら
「じゃあね」って帰って行って 家に着いて
一人でテレビでも見ようかなって思ったけどテレビを消して
こうやって紙を折りたたんでいるときに
「ああ 私 あの人のこと好きなのかもな」って気が付くのであって 

小さい積み重ねで 人間っていうのは描かれるものだから
僕にとっては大きな物語よりも
小さい仕草で描かれている人物をテレビで見るほうが
とても刺激的だなって思うんですよ

番組で発されたこの言葉に、坂元裕二の書くテレビドラマの魅力が端的に言いまとめられている。何の意味も、何の価値もないように見えることに、“本当のこと”は詰まっている。それを教えてくれるのが坂元作品だ。このドキュメンタリー番組のトーンも、この坂元裕二の言葉に導かれるようにして構成されていく。撮影の開始は、こんな会話からだ。「中華屋で紹興酒を飲みたかったのだけども、グラス1杯5,400円で注文できなかった」・・・実に些細なエピソードであるが、その人の価値観であったり、“生きる”ということの質感であったりが、それとなく浮かび上がってくる。そして、カメラはあらゆる生活の跡を映し取っていく。パンツを畳む、チョコレートをつまむ、ヒップホップを聞く、南アルプスの天然水を常備している、煙草を吸う、ガソリンスタンドでポッカの缶コーヒーを飲む、娘のお弁当のためにキッチンで納豆春巻きを揚げる、スマホゲームに興じる、歯を磨く、うたた寝する・・・このドキュメンタリーが捉えているのは、「生活を営む人」としての坂元裕二の姿だ。生活を慈しむことができる人だけが、普遍的な愛を紡げるのかもしれない。



番組の編集にはいささか疑問がなくはない。「『Mother』からやっと書きたいものが書けるようになった」といったような、わかりやすいストーリーテリング坂元裕二は徹底的に嫌う。しかし、この番組は発言の節々を繋ぎ合わせることで、初期のトレンディドラマや『西遊記』や『トップキャスター』といった作品を、あたかも「本当は書きたくなかった」かのように演出してしまっている。これはまずい。先日献上されたばかりの『脚本家 坂元裕二*1においても、下記のような発言が残されている。

「『Mother』以前、『Mother』以降」とよく言われますけど、自分では書いてる筆圧は変わってないし、『西遊記』や『トップキャスター』も大事な子供たちだから、そっちはダメでこっちはいいって言われると、そんなのただのジャンルの違いでしょって思って、若干気分悪いですね(笑)。

案の定、放送終了後に坂元裕二のインスタグラムにて訂正が入っていた。とは言え、現代を代表するテレビドラマ作家の素顔が垣間見れる貴重な番組であることには間違いない。個人的に気になったポイントを少しだけ書き記してみたい。



<優しくないお兄ちゃん>

ずっと優しくないお兄ちゃんだったからね
弟が追いかけてきているのが分かっているのに僕は遊びに行って
道路渡ったら 弟が「お兄ちゃーん」って追いかけてきて
車走ってきてバーンって飛んだんですよ うちの弟が
そのときの光景はねもう今でも忘れられないですね
弟ともう1回やり直したいなあと思って
弟とスキー行ったりしても何かうまく話せなかったりして

『またここか』(2018)という舞台作品を坂元裕二に書かせることとなる、弟とのエピソードが披露された。推測するに、このエピソードからもう一つ物語が生まれている。『それでも、生きてゆく』(2011)である。妹の面倒を頼まれていたにも関わらず、友達と遊びに行ってしまい、妹が殺人事件に巻き込まれてしまう兄の物語だ。坂元裕二の後悔から派生した2つの物語は、それぞれに悲しい存在を生み出している。三崎文哉(風間俊介)と近杉祐太朗(吉村界人)という2人の殺人者。彼らは、共に「してはいけないと思うと、せずにはいられなくなってしまう人間」だ。

それが大事なものであるほど、か弱いものであるほど、思うんだよ。
駄目だ駄目だ、しちゃいけない。
あのお腹を叩いちゃ駄目。あのお腹を蹴っちゃ駄目。


『またここか』より

それでも、生きてゆく』を執筆しながらも、三崎文哉という人間をわかりきれなかった、と坂元裕二は過去のインタビューで語っている。彼を救い切れなかったことが、どこかで心に引っかかっていたのではないだろうか。三崎文哉が重ねられた、『またここか』の近杉祐太朗という存在を、劇中において“優しくないお兄ちゃん”が救う。

おまえ字書ける?
書けるなら今日から頭に浮かんだことは、全部ノートに書き留めな。
やっちゃたら駄目なこと、人に迷惑かけそうになった時、そういうの書いて、全部そこに、そこに吐いて、小説みたいにするの。
俺はずっとそうしてきたし、おまえにも出来るよ。
<中略>
前だけじゃない。後ろにも行ける。小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。それが、お話を作るってこと。


『またここか』より

「何が心の病だよ。人間が心なんかに負けるかよ」と言い放つ“優しくないお兄ちゃん“が紡ぐ物語が、この過酷な現代を生きる私たちに与えられている。そのことをこの上なく幸せに思おう。


<移り行く壁の色>

撮影期間中に、仕事部屋の壁の色が変わっていくことにお気づきだろうか。撮影初日は白かった壁が、突然、何の説明もなく部屋中にビニールが張られ、少しずつ美しいエメラルドグリーンに変わっていく。なんて編集泣かせなことをするのだろう。しかし、これも坂元裕二なりの「日常を捨てない」という態度なのだろう。そして、慣れ親しんだテレビドラマというフィールドから飛び出し新しい可能性に挑戦する心情がトレースされているようにも思える。最後に、その新しく生まれ変わった壁の色が、『カルテット』での夢のような4人が暮らすあの別荘の壁と同じトーンを湛えていることに気づいた時、じんわりと瞳が潤んだことを告白しておく。
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*1:ちなみにこの本には仕事場の本棚がしっかり写っています。気になる方はぜひ

水曜日のダウンタウン「MONSTER HOUSE」3話

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これぞ、2018年のベストキスシーン。なんて醜く、なんて美しいのだろう。クロちゃんは「愛されたい」と叫ぶ獣だ。まるでこれまで誰からも愛されたことがないかのようだ。その欠落を埋めるようにして、どこまでも貪欲に愛を求めている。蘭ちゃん*1とのキスを成し得た時のあの狂おしいまでの歓喜、あれはもはや単なる性欲を飛び越え、自らの”実存”を初めて認識したかのような振る舞いではないか。

好きだよ、本当にもう・・・
俺は知らなかった
もう・・・本ッ当に
本ッ当わかってるようで
わかってなかった・・・
めちゃくちゃ好きだよ

忘れんなよ
忘れんなよ、俺
忘れんなよ
キスしたよ、忘れんなよ

観ていて、胸の奥がたまらなく苦しくなってしまった。多分、私たちもまた、クロちゃんと同じように寂しくてたまらないのだろう。本当は醜い存在なのだろう。「変な汗出るのはなんでしょうね」というたむらけんじ松本人志の言葉がそれを的確に表現している。獣になれない私たち。社会で適応していくために、私たちが必死で押し殺している部分を、解放し切っているのがクロちゃんという獣なのだ。


しかし、とんでもないシリーズが始まってしまったものである。「愚かで醜く、ゆえに愛おしい人間」という古来からあらゆるストーリーテーラーが言葉の限りを尽くしてきたテーマ。クロちゃんと藤井健太郎は、どこまでも敷居を下げながら、それを表現し尽くしてしまうのではないだろうか。



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*1:ミューズとしか言いようがない