青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

『キングオブコント2020』空気階段の描く“恋と退屈”

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キングオブコント2020』を終え、そのままTBSラジオ空気階段の踊り場』の収録に臨んだ空気階段の2人。「いつもひとりぼっちだけども、ラジオを聞いて孤独を慰めた」というリスナーからの感謝のメールに鈴木もぐらが感極まり、お得意の口上から銀杏BOYZ「エンジェルベイビー」を流す。

どうして僕 いつもひとりなんだろ
ここじゃないどこかへ行きたかった

Hello my friend
君と僕は一生の友達さ

そして、リスナー達に「お前たちひとりじゃないぜぇ」とメッセージを送る鈴木もぐら。人間の愚かさ醜さを笑い飛ばす空気階段、そののルーザー達に向ける眼差しの真摯さにいつも胸を撃たれてしまう。


彼らが『キングオブコント2020』で披露した2本目のコントの登場人物は夜間の定時制の生徒たちだった。昼は働きながら学び、歩けば職務質問されるという彼らの人生は決してイージーなものではないのだろう。そんな社会との風通しの悪さを体現するかのように、ハルト(鈴木もぐら)の放つ言語はまるでノイズのようで、ほとんど聞き取ることができない。しかし、アオイ(水川かたまり)はそのノイズのような響きをはっきりと聞き取ってしまう*1。それが“当然のこと”のように劇中で処理されてしまう違和感が笑いを生み出すという、ねじれた構造のコントなのだ。しかも、それらは会話ではなく手紙で交わされるというのだから、一筋縄ではない。空気階段はズレから生じる摩擦こそがエモーショナルを巻き起こすということを知っている。そして、それは社会から少しだけズレてしまったコント内のキャラクターへの祝福でもある。しかし、伝えたいメッセージは至極ストレートだ。水川かたまりがコントを終えて言ったように、“恋の尊さ”である。

忙しくて大変だけど、今は毎日が楽しい
それは恋をしているから

「時に人生は厳しいけど 恋をしている時は忘れられる」と書いたのは、稀代のドラマ作家坂元裕二だが、アオイとハルトの気持ちが通じ合った一瞬は、永遠の記憶として保存されるだろう。これはニッポンの社長が『キングオブコント2020』で披露したコントでも描かれていたことだが、「出会えたことがすべて」なのである。ここで流れるのは、Every Little Thingの「出会った頃のように」であるけれども、その歌い出しのリリックが「My Love is forever」であることからも、彼らがあの場面で本当に流したかった曲が銀杏BOYZ「恋は永遠」であったことは想像に難くない。

Oh My Baby
やりきれなくても
君が笑うから
いつもの部屋で
いつもみたいに
君が笑うから
やさしくって やさしくって


銀杏BOYZ「恋は永遠」

いつだってわたしたちが“寂しい”のは、誰かと出会うためなのだ。


恋の尊さを体現するのに値する水川かたまりの女装の美しさ、そして、アオイとハルト*2の何気ない所作や表情のかわいげ(演技の細かさ)。まさに決勝の舞台で披露するにふさわしいパーフェクトな1本。しかし、1本目に披露されたコントもまた同等に素晴らしかった。死んだおばあちゃんに「ありがとう」と伝えたくてイタコの元を訪れる(今まで出会えた全ての人々に もう一度いつか会えたらどんなに素敵なことだろう©️銀杏BOYZ漂流教室」)、という導入でまずもって泣けてしまうのだけども、なんと言っても全編に迸る空気階段のラジオ愛だろう。ラジオの電波は破産寸前(マジで破産する5秒前)というような追い込まれた人間たちにも等しく降り注ぐ。さらに、ラジオと霊の波長は非常によく似ているのだという。つまり、ラジオは現世/死後(もしくはダンプカー/ヤリイカ)というような分断された世界を結びつけてしまうのものなのだ。それを示すように10m4cmの長い“としやんストラップ”がバラバラのはずの世界をいとも簡単に繋げてみせる。ラジオというのは時空を超えて届けることのできるメディアであるというの空気階段なりの証明。そして、その電波は等しく降り注ぐがゆえにランダムで、思ってもみない相手(隣に住んでいたトメさん)に届いてしまうものでもあるのだ。


関連エントリー

*1:それはまるで銀杏BOYZのライブのよう

*2:アオイとハルトでアオハル”青春”

田島列島『水は海に向かって流れる』

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『水は海に向かって流れる』が3巻をもってして、堂々たる完結。2020年を代表する傑作というありきたりな言葉を冒頭に置いておきたい。ときに、今作の血の繋がらない共同体のイメージソースとしてあるのは『めぞん一刻』というよりも、『すいか』ではないだろうか。なにせ、直達の暮らす広い一軒家にはOLと教授と漫画家がいるのだから。そう考えると、言葉の飛距離と会話劇の妙、そして、スローペースな寡作ぶりといい、田島列島は漫画界に現れた木皿泉のようである。


『水は海に向かって流れる』の素晴らしさは、”運命“というような大きな容量の言葉に収まらない感情の機微の丹念な編み込みや、「もっとラノベに出てくる妹にみたいに起こしてくれーっ」とか「何の変哲もないガールズトークですよ」のようなウィットに富んだユーモアを撒き散らすことで、盛大に照れてみせる細部にある。それを承知の上で、物語の構造を因数分解してみたい。


田島列島という作家が繰り返し描くモチーフとして、「家族」という共同体の脆さというのがある。そこには昼ドラ的もしくはハードボイルド的事象が介入し、その維持を困難なものにしてしまう。まるで血の繋がりというものにあまり信頼を置いていないかのように。しかし、田島作品で描かれるのは「人と人の結びつき」だ。それらは“贈与”によって構築されていく。『水は海に向かって流れる』1話のタイトルが、「雨と彼女と“贈与”と憎悪」であり、「ポトラッチ(北米の先住民の間で行われていたお返しをする義務を伴った贈り物をし合う儀式)」というワードが登場することからも明らかだが、田島列島の筆致の根源には文化人類学の教養がある。教授がレヴィ=ストロース親族の基本構造』の名を出したり、『子供はわかってあげない』において善さんが『うすら悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』のパロディ)を、『ごあいさつ』において地歴部の顧問の先生が前田速夫『白の民俗学へ』を読んでいるなど、枚挙に暇がない。


マルセル・モースやレヴィ=ストロースと手を繋いだ田島列島が立つ地平から見れば、『水は海に向かって流れる』は、「牛丼を振る舞ってもらったお礼に、カボチャをお返しする」という物語だ。牛丼やカボチャといった意味のないようなモノの交換が、ささやかな連帯を生み出していく。であるから、この物語においては、誰もが何かを与えていく。5人が共同生活を営むあの一軒家に訪れる際には、誰もが必ずや手土産のようなものを持っていることに気づくだろう。うどん、モチモチのお菓子、卵、エッチな大根、ナン・・・その他にも榊さんは「もう着ない服」を泉谷さんに与え、直達がカップ焼きそばの捨てるお湯を教授のカップ麺に注ぎ、榊さんはやたらと直達に「うで卵いる?」とを与えようとする(直達が父からカツアゲしたお金で卵を買って帰ってきたことへの返礼のように)。牛丼やカボチャや卵といったモノ自体に意味はない。しかし、「何かを誰かに受け渡す」というのは、“親密さ”や“うしろめたさ”を混濁させながら、「自分の一部を、魂を受け渡すこと」ということなのである。であるから、贈与・交換といったモノの受け渡しは、“交感”(=心が通じ合うこと)を呼び起こすのだ。田島列島の短編集『ごあいさつ』に収録されたデビュー作においても、姉の不倫相手の妻から霧吹き(もしくはドーナツ)という他愛のないモノを贈与された主人公が、血の繋がった姉ではなく他人であるはずのその妻に「情がうつって」しまうお話である。『水は海に向かって流れる』において、ファミレスごはんの食べ残しを榊さんのために持ち帰った直達が、

本当はお腹いっぱいになんか なってなかったの

という榊さんの本音を引き出して交感を果たすシーンなどは、そのさり気なさも含めて、本作のハイライトの一つに数えたい。


贈与、交換、交感といった動的な流れこそが、生命や社会を形作っている、という論理で編まれた田島作品においては、一箇所に踏みとどまってはいけないのだ。短編集『ごあいさつ』に収録されている「おっぱいありがとう」の中に、“求める人には与え、与える者からは奪いつくす人”(これおもポトラッチ的思想だろう)が登場する。

世の中をくるくる回すってコトなのよ
いろんなものが均等になるように

と彼女は言う。みんなが幸せになるために、水は海に向かって流れなければいけない。そんなタイトルの言霊に沿うようにして、物語は水のモチーフで推進していく。1人で傘を差していた榊さんは、直達が現れたことで1つの傘を分け合うことで肩が雨に濡れる。海に飛び込み、堪えていた涙を流す。そして、ラスト直前の突然の天気雨を段ボールでの雨を避け、本音を語り合うシーンの鮮やかさ!出会うことで、水の”流れ“が生まれ、堰き止められていた時間もまた流れていく。


感情が流れ、人が人に影響を与えていくということ。すなわち“循環”と“継承”を田島列島は描き続けている。『子供はわかってあげない』の終盤などは、そこへの言及が溢れるように飛び出している。

人は教わったことは教えられる
でももじせんせーのこと忘れても
もじせんせーから教わったことは忘れない子はいるんじゃないの
したらその子の書く字にもじくんが残るじゃん

世界に必要なのは「自分にしかない力」じゃない
「誰かから渡されたバトンを次の誰かに渡すこと」だけだ

僕たぶんずっと
世界中で自分にしか出来ないことにこだわり続けてきたんです
この年になるまで
なんか恥ずかしいですね

美波ちゃんが大人になった時
私と同じように自分より若い人にそのお金の分何かしてあげて
そういう借りの返し方もあるの
覚えておいてね

ここには、「オリジナルではないもの」への眼差しがある。人はオンリーワンである必要などない。誰かの影響を混ぜ合わせながら生きていけばいいのだ。『子供はわかってあげない』16話のタイトルには「蒼氓」という山下達郎の楽曲が添えられている。これは山下達郎の言葉を借りれば、「無名性、匿名性への熱烈な賛歌」だ。この連綿と受け継がれる文化の流れにも、心を熱くしてしまう。

誰かと出会うことのおかげで僕たちは生きていける。

というのは『子供はわかってあげない』に添えられた秀逸なコピーだが、『水は海に向かって流れる』にもそのまま当てはめることができるだろう。

何にもどうにもならないとわかっていても
知っててほしかった
怒りたかったこと
誰かが知っていてくれるだけできっと生きていけるんだろう

僕がずっとおぼえておいくので
榊さんが怒ってたことはずっと僕がおぼえておくので
大丈夫です

約束だよ
ずっとおぼえてて
私も直達くんが怒りたかったこと泣いたこと
ずっとおぼえておくね

モノの贈与を通じて、2人は秘密の感情さえも交換する。そのことで彼らの抱えていた怒りや涙といった感情が密やかに輝きだす。こんな運動こそが、生き続けることの意味なのではないだろうか。


「君は幸せになるよ」と、榊さんはミスター・ムーンライトに予言を与える。それは、盗み聞きしていた直達に届き、時を経て改めて直達への言葉としても与えれ、今度は「榊さんも幸せになります、大丈夫です」と直達から榊さんに返ってくる。このグルグルと回る循環と連帯が、「最高の 人生にしようぜ」という台詞を感動的に響かせるのである。



チョ・クァンジン『梨泰院クラス』

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『愛の不時着』から『梨泰院クラス』という実にありきたりなルートを歩んだわたしは今、あのイガグリ頭が目に焼き付いて離れないのである。『梨泰院クラス』というドラマを駆動させているのは“土下座”であるからして、”頭”というのは重要なモチーフとなっている。パク・セロイというキャラクターを象徴するあのイガグリ頭。2年後、7年後、4年後・・・というように鮮やかに時間軸を飛ばしていくドラマメイクの中で、登場人物たちのルックスやファッションもまた変容していくのだが、セロイの髪型だけは不変である。そして、セロイの頭を触る癖。照れ、気まずさ、悲しみ、怒りといった感情が込み上げた時、セロイはまず自らの頭を撫でる。また、他者への愛情表現を行う際も、相手の頭を撫でてあげる。

すごいな

と言ってイソの頭を撫でるシーンはこのドラマのアイキャッチとしてあまりに優秀で、世界中の人々がパク・ソジュンにハートを奪われたことは想像に難くない。このドラマにおけるもっとも素晴らしい”頭“を巡るシークエンスは7話だろう。セロイが自らの生い立ちに隠された真実、そして復讐の計画をイソに打ち明ける。セロイの膝に”頭を“置いて横たわったイソは、セロイの身体に刻まれた無数の傷に気づき、涙する。それがセロイの抱える悲しみの象徴であるかのように。

イソ「1人でつらかったでしょ」
セロイ「少しね」

そんな風にして2人の交感が果たされた帰りのバスの中でもまた、イソの”頭“はセロイの肩に置かれることになる。睡魔に負けてグラグラと揺れるイソの頭を愛おしそうに自らの肩に導くセロイ。『梨泰院クラス』において、心というのは”頭“にあるのかもしれない。であるから、セロイは頑なに土下座を拒み、ジッと前を見据える。


土下座を巡る物語である『梨泰院クラス』は、青春版『半沢直樹』というような紹介のされ方をしているようだ。しかし、このドラマを「痛快な復讐劇×青春群像劇」という風にレジュメしてしまうことに戸惑いを覚える。もちろんドラマの軸となっているのは、パク・セロイの長家への復讐、そしてセロイ、イソ、スアを巡る恋の三角関係だ。しかし、復讐の対象となる長家の会長チャン・デヒという存在がどうしても、前述のまとめを拒む。どういうことかというと、このドラマは「セロイとチャン・デヒの15年に及ぶ壮大なラブストーリー」であるように思えてしかたないのである。「俺が気になるんですね?」「信じていました」「ゴールはあんただ」「すごい男でした」「価値観は違えどもリスペクトしていました」「この闘いには価値があった」といったセロイがチャン会長に向ける言葉の瑞々しさ。なによりも、セロイは父を亡くして空っぽになった心にチャン会長への“復讐”の2文字を刻むことで、生きる気力を取り戻すのである。チャン会長もまた、病魔に犯され弱り切ったところ、セロイからの挑発によって生命力が湧き出していく。13話における電話でのそのやりとりが2人のハイライトと言えるだろう。

チャン「なんの用だ」
セロイ「聞きました_ガンを患ったと
    死ぬんですか?」
チャン「君は…」
セロイ「そんなにあっけなく死ぬなんて卑怯です
    天罰?冗談じゃない、罰は僕が下す
    まだ死ぬな」
チャン「(俺の生存を望む唯一の人が君とは…)面白い
    ああ…俺の最後の楽しみは君だ」
セロイ「近々 伺います」
チャン「長くは待てない 急ぐんだな」


ここに横たわっているのは“憎しみ”という感情かもしれない。しかし、互いの存在が生きることの意味となっていることは否定できないだろう。穂村弘という歌人の一首を想い出す。

こんなめにきみをあわせる人間は
ぼくのほかにはありはしないよ

この短歌は江戸川乱歩『人間彪』において、明智探偵が宿敵に向けて放った言葉からインスパイアされて作られたものだそうで、まさにセロイとチャン・デヒの関係性である。愛憎を超越した圧倒的な結びつき。ドラマを貫くこの感触が、『梨泰院クラス』を韓国映画やドラマの伝統ともいえる復讐劇や恋の三角関係というフォーマットに収まることを許さない。もちろん、セロイの長家への復讐はしっかりと果たされるのだけども、ドラマに流れるのは復讐というよりも”許し“のフィーリングだ。「人間は誰しも悪(弱いもの)である」という劇中でも登場する性悪説。そんな人間の”弱さ“や”ずるさ“を、「いいんだよ」「お前は悪くない」「理由があるんだろ」「俺に何をしてもいい」「お前が何をしようが俺は揺るがない」「逃げていい」というようにセロイはひたすらに許していく。そんなセロイの“許し”の積み重ねが、このドラマのメッセージの強度を高めていく。

自分は自分だから
お前はお前だから
他人を納得させなくていい

自分が人生の主体であり
信念を貫き通せる人生
それが目的です

セロイの経営する「タンバム」のメンバーは様々な“生きづらさ”を抱えた人々だ。ほぼすべての登場人物は孤児であり、またソシオパス、トランスジェンダー、元ヤクザ、婚外子、アフリカ系韓国人といったマイノリティである点が、ポリティカル・コレクトネスの観点からも称賛されている。そういった登場人物たちが、「誰からも阻害されることなく、自分の人生を生きる」ことを目指して社会と闘う様が、ドラマを観る者の胸を撃つ。


しかし、マイノリティであるから生きづらいのでなく、「生きるということは、誰しもおしなべてつらいものである」というのもこのドラマの主張だ。人生は往々にして苦い。しかし、誰にも時には”甘い夜”というのが訪れる。それは悲しみや寂しさから解放された、完璧で愛おしい時間。たとえば、セロイやスアと過ごしたハロウィンの梨泰院の夜。あんな時間をいつかもう1度過ごせますように。そして、みんなのに苦い夜が甘くなりますように、という祈りを込めて、セロイは自らの経営する飲食店を“タンバム「甘い夜」”と名付ける。


ドラマの中で最初に放たれる言葉というのはとても重要で、作品の方向性を指し示していることが多い。『梨泰院クラス』ではイソのカウセリングシーンから始まる。

カウンセラー「寝る前によく考えることは?
イソ「ちょっとヤバくて 変に思われるかも
   地球が…滅びればいいのにって」
カウンセラー「何か悪いことでもあったの?」
イソ「別にないけど、何か生きるのが面倒っていうか」
<中略>
カウンセラー「主にどういう時に思うの?」
イソ「いつもです。人生って同じことの繰り返しでしょ?」

そんなイソの人生観を変えるのがセロイである。「退屈な毎日でもいつかはときめくことが起きるかもしれないぞ」とセロイは説く。辛くて、悲しい日々の繰り返しの中でも、ときには甘い夜が訪れる。だからこそ、人は生きることを諦めないでいられるのだろう。


ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を手にしたイソが呟く。

イソ「分かる」
セロイ「何が?」
イソ「もし来世があるなら私は生まれてきたくなかった」
セロイ「どういう意味だ?」
イソ「生きるのってつらいでしょ
   すごくつらいのに
   会長(セロイ)に会ってからこの一節がすごくしみる」


“何度でもいい むごい人生よ もう一度”

『Nizi Project』の素晴らしさに寄せて

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まさに一世風靡という感じの『Nizi Project』の素晴らしさに遅ればせながら打ちひしがれている。もしあなたが(数日前のわたしのように)まだこの番組に触れていないというのであれば、YouTubeで公式にアップされている#1をクリックすることをオススメする。これは単なるアイドルオーディション番組の域を超えた力のあるコンテンツだ。もし、#1を観終えたのであれば、そこに少しだけ余計な解説を添えることをお許しいただきたい。


この番組の主役と言ってしまっていいJ.Y.Park(TWICEや2PMを手掛けるなど韓国を代表するプロデューサー)がオーディションのはじまりに、自らの芸術観を語り出す。

人の見えないところを見えるようにするのが芸術です

これはスイスの画家パウル・クレーの「芸術とは見えるものを再現するのではなく、見えないものを見えるようにするものである」からの引用であろうし、もっとわかりやすく噛み砕くのであれば、サン=テグジュペリ星の王子さま』における「いちばん大切なものは、目には見えない」というキツネの言葉に呼応している。このJ.Y.Parkの信念は番組全体に貫かれており、たとえば、典型的な元気なアイドル像を演じてパフォーマンスをした練習生をこんな風にして諭すのだ。

自分自身がしっかりと感じて表現しているように感じません
僕たちはみんな一人ひとりの顔が違うように、一人ひとりの心、精神も違います。
見えない精神、心を見えるようにすることが芸術です

J.Y.Parkは「人の見えるところではなく、見えないところがはるかに大事だ」と語る。自分はこのオーディションを通じて、その人の持つ想い、心、性格といったものを歌やダンスで表現できる人材を探しているのだ、と。そんな挿話の後、「トン トン トン」という扉を叩く3回のノックと共に、ヒルマン・ニナという天使性を湛えた日米ハーフの美しい少女が現れるシーンはあまりに感動的だ。「扉をノックして入ってきたのはあなたがはじめて」とJ.Y.Parkが少しの戸惑いと共に賛辞を贈った後、少女は圧倒的な歌唱を披露する。あぁ、この少女が物語の主人公なのだと誰もが即座に理解してしまうだろう。当然のように、J.Y.Parkは彼女のパフォーマンスを称賛する。

あなたは完全にスターだと思う
あなたは、自分に対しての表現がはっきりしていると思う
芸術は自分自身を表現することだけど
大体の参加者たちはオーディションを自分の実力に対する評価だと思っている
そうじゃない!そんなコンテストではない
僕はただ、あなた自身の表現力が見たい

ニナは自分自身の表現をすでに会得している。であるから、J.Y.Parkは彼女自身のキャラクターがそのままパフォーマンスに現れていることを褒め称えるのだ。「誰かの真似をせず、自分の声で、表情で歌うこと」というのもこのオーディションを通じて何度もJ.Y.Parkが練習生に伝えるアドバイスの一つ。そして、彼は「わたしたちは誰もが特別な存在なんだ」と訴え続ける。そして、このオーディションに落ちたからといって、その特別性は一切損なわれないと。


さらにJ.Y.Parkは、歌手・アイドルというのは、“世界に自らを真似させるような”存在であるが故に、「常に嘘がなく、誠実で、謙虚でありなさい」と未来ある少女たちに説いていく。その目には見えない美しい精神性がパフォーマンスとして現れ、世界中に伝染していくのだと。まさに!それこそがポップミュージックの力だ。オーディションを勝ち抜いて結成されたNiziUのデビュー曲「make you happy」を聞くたびにわたしは涙ぐんでしまう。

youtu.be

Nothing ヒミツならNothing
Something 特別なモノあげるのに
どんなのがいい? 笑顔にしたいのに
That thing 探し出す キミのために

もう ねぇねぇ 何見て
何聴いて 幸せ?
話してみて すべてね

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

Gave me きれいな恋 Gave me
Held me 小さなこの手繋いで
大切よ ひとりきりにはさせないよ
Take me この私 全部あげたいの

バレバレのハート
私だけのカード
忘れずに そばに来て

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

Tell me Like OOH-AHH
FANCY me do not
be ICY I'm So Hot
no Good-bye Baby good-bye

Tell me Like OOH-AHH
FANCY me do not
be ICY I'm So Hot
no Good-bye Baby good-bye

キミがくれる安心
寄り添って 休めるための場所
光が満ちて Feel いつだって
夢見てるの一緒

完全Sweetなメロディー
本当に癒してくるセオリー
Put it on repeat 聴いて ずっと ずっと
You're my favorite song

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

拙いティーン・エイジャーの恋模様を隠蓑にしながら、ここで歌われているのは「ポップミュージックとわたしたち」の関係性そのものではにか。崇高な精神から放たれる音楽はいつだって、「ひとりきりにはさせないよ」と寄り添ってくれる。この行き先の見えない混沌とした2020年に、わたしたちの気持ちを軽やかかにリフトアップしてくれるヒットソングの誕生だ。*1



J.Y.Parkが共鳴するパウル・クレーが連作で描き続けてきた天使について。それは宗教性を帯びたものではなく、人間の“自己の変容”を表したものだと言われている。どこか未完成な様相のクレーの描く天使たちは、「より良い自分でありたい」というわたしたちの祈りのようだ。クレー自身もこんな言葉を残している。

私が表したいと思っている人間は、現にあるがままの姿では全然なくて、
“ありうるでもあろう”姿だけです

クレーの描く天使のイマージュ、それはまさにオーデイションを通じて絶え間ない努力で「もっといい自分へ」と成長を遂げていく彼女たちにピッタリとはてはまる。J.Y.Parkが「新人の瞳はこの世で最も美しいものの1つ」というように、より良くあろうする人間の懸命さは、なによりも観る者の胸を捉えるのだ。


最後に余談になるが、谷川俊太郎がクレーの描く天使たちに詩を添えた『クレーの天使』という本があるのだけども、クレーの描く天使の中で最も有名な「忘れっぽい天使」にはこんな詩が添えられている。

すぐそよかぜにまぎれてしまううたでなぐさめる

<余談>
『NIziProject』の細部の素晴らしさに言及できていないことに後悔がある。たとえば、オーディションにおけるベストパフォーマンスである若干15歳の天才ミイヒのWonder Girls「NOBODY」カバー。
youtu.be
これはもうデビュー当時の宇多田ヒカルの表現力に匹敵するではないか。


そして、もうひとつ。J.Y.Parkが口だけではなく、優れたアーティストであることのなによりの証左。Twiceに提供した「Feel Special」のセルフカバーパフォーマンス。これぞ、Asian Soulだ。
youtu.be

*1:今年度の新入社員と同行したときに車内で流れたこの曲に、「聞いていると元気になれますよね」と言った新入社員の衒いのない笑顔が忘れられない

パク・ジウン『愛の不時着』

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<Intro>

アロマキャンドルやジャガイモを見かけるたびに、ヒョンビンのあの涙の滲むようなやさしさを思い出し、胸がいっぱいになってしまうのです。これが世に言う『愛の不時着』ロスというやつなのか。世界中で大ヒットを飛ばし、日本においてもNetflix視聴ランキング1位を独占し続けている『愛の不時着』にご多分に漏れずハマってしまった。テレビドラマの登場人物に想いを馳せるというこの感覚はいつ以来のことだろうか。主演陣はもちろんのこと脇役(あの愛すべき第5中隊と舎宅村の人々!)まで、誰もが好きにならずにはいられない人物造形の妙。全編を貫く“結ばれてはいけない2人”という哀しみのトーンを、絶妙に和らげる機知とユーモア。「帰りたい/帰りたくない」という二律背反の感情をベースにしたシンプルなドラマメイクで人間の複雑な感情を描き切る手腕にも脱帽だ。このドラマにおいては稀代の詐欺師すらやさしい気遣いを見せる。


韓国ドラマの純愛ラブストーリーと聞いて少し古臭いな敬遠する気持ちはわからなくもない。しかし、この『愛の不時着』は、その少し古びれたフォーマットの中で、王道のドラマメイクを研ぎ澄まし、細部をアップデートすることで、現代に“観るべき”テレビドラマに仕上がっている。もし未見の方がいるのならば、どうか重い腰を上げてみて欲しい。以下はネタバレになりますので、約80分×全16話という果てしなく長い道のりの果てに再会できることを祈りたい。

<間違えてもいい、ということ>

主人公であるユン・セリが経営するファッションブランドの名が「セリズチョイス」であることが示すように、『愛の不時着』というのは“選択”の物語だ。いや、選択の“誤り”についての物語といっていいかもしれない。韓国の財閥令嬢であるユン・セリがパラグライダーでの飛行中に竜巻に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまうところから物語は始まる。その第一発見者となるのが北朝鮮の軍人リ・ジョンヒョク。彼はユン・セリに韓国への帰り道を伝える。

まっすぐ行くと分かれ道が現れる
そこで右に行け

しかし、ユン・セリは自分の直感を信じて左の道を選び、韓国への帰路をどんどん外れていくことになる。こんな風にして、ユン・セリは何度も選択を誤り、北朝鮮から韓国に戻ることを困難にしていくのだけども、物語はそんな選択の誤りを「運命の人との出会い」として書き換えることで、優しく肯定していくのだ。5話においてユン・セリは”乗り間違い“だらけの自らの人生を

間違った電車が時には目的地に運ぶ

というインドの諺に擬え、自らとリ・ジョンヒクを鼓舞する。このやり取りが最終話において「乗る電車を間違えたんだ」というリ・ジョンヒョクの台詞としてリフレインし、2人の再会の呼び水となるという筆致の鮮やかさ!この『愛の不時着』というドラマをエモーショナルに駆動させるのは、いつでも“間違える“ということなのだ。


たとえば4話でのリ・ジョンヒクがアロマキャンドルと間違えて買ってきたロウソクのエピソード。間違えて購入したロウソクが停電時の灯りとして機能し、さらには今度こそ間違えずに買えたアロマキャンドルは、本来の機能を離れ、市場ではぐれてしまったユン・セリをリ・ジョンヒクのもとへ、まるで灯台のようにして導く光源となる。そして、以下のやりとりだ。

今回は香りすがするロウソクだ。合ってる?
合ってるわ

合ってないけど、合ってる。この台詞だけ抜き出してしまえばなんでもない言葉のやりとりの中に、複雑な感情が編み込まれ、”アイラブユー“と同義の響きさえもたらしてしまう巧みな脚本術は、今作のハイライトの一つに数えたい。


そして、“間違い”を肯定する物語は、様々な誤配と循環を生み出していく。ク・スンジュンがユン・セリへのプロポーズとして渡した指輪がソ・ダンへ。リ・ジョンヒクが兄へとプレゼントした腕時計がユン・セリからリ・ジョンヒクへ、と思いきやチョン・マンボクの元に。指輪を巡るエピソードにおいては、愛情の矢印がスライドしていくこと(別の誰かのために買った指輪で愛を誓うこと)すら許してしまっている。これらの誤配と循環を支えているのは、物語の中に何度も登場する質屋の存在と言っていいだろう。質屋が引き起こす巡り巡る運動は、ひとたび誰かに向けて放った気持ちは、周り回ってまったく別の誰かに届いてしまうかもしれないという、この残酷な世界に潜むささやかな希望を導き出している。たとえば、リ・ジョンヒクが兄のために、そして少女のために弾いたはずのピアノの音色が、自殺しようとしていたユン・セリに生きることを諦めない強さを与えてしまったように。こんな風に、間違えながらも、人と人は結ばれていく。だからこそこ世の中は、生きるに値するおもしろさを秘めているのだ。


<断ち切られてしまうものが一つもないように>

『愛の不時着』というドラマが世界中の人を魅了しているのは、劇中でもその名が挙げられるように『ロミオとジュリエット』、『織姫と彦星』といった“結ばれてはいけない2人”という古典的でありながらも、誰もが共感できるラブストーリーを踏襲しているからと言っていいだろう。いや、『ロミオとジュリエット』や『織姫と彦星』のみならず、『愛の不時着』はこの世のすべてのラブストーリーを焼き増ししていく。どこかで見たことがあるようなシーンの継ぎ接ぎ(=サンプリング)なのだ。

愛する人たちは再会できる
どんなに遠くにいても
最後には戻ってくる
愛は戻ってくる

大胆にもチェ・ジゥをサプライズ召喚し、韓国ドラマを代表するラブストーリー『天国の階段』(2003)の台詞を引用し、ストーリーの主題として響かせる態度からもそれが窺えるだろう。リ・ジョンヒョクとユン・セリの恋は、38度線という巨大な現実の前に何度も断ち切られそうにななる。しかし、断ち切ろうとする強い力に逆らい、何度でも結ばれていく。その2人の懸命さはまるで、この世の中に存在した「もう会えなくなってしまったすべての恋人たち」に捧げるかのようである。もうこの世界に断ち切られてしまうものが一つも存在しないように、2人は結ばれよう結ばれようと戦うのだ。


<“正しさ”を世界に伝染させる>

2人のラブストーリーは世界に影響を与えていく。韓国と北朝鮮という舞台ゆえに、2人の恋の行末に”統一“を重ねさせてしまうからというのは勿論なのだけども、『愛の不時着』のすばらしさは、そんな大きな物語に回収されることなく、小さな人間の営みが世界を変えていくというような感触が豊かに描かれている点にある。


リ・ジョンヒョクとユン・セリの営みの”正しさ“は、世界に伝染していく。たとえば、5話において寒空の下のユン・セリに自らのコートを掛けてあげるリ・ジョンヒク。その姿を遠方からたまたま見ていた、ク・スンジュンがそれまで邪険に扱っていたチョン社長と毛布を分け合うというあの何気ないシーンはどうだ。そして、「世界の音を聞く人」としての耳野郎の存在だ。恋路を盗聴する耳野郎ことチョンマンボクは、どんな苦境に立たされるようとも正しくあろうとする2人の態度に感化されていく。そして、耳野郎の存在は、2人の恋の行末を見守るわれわれドラマの視聴者と同義。このドラマを愛する者は後を絶たないだろう。リ・ジョンヒョクとユン・セリののやさしい眼差しのイメージは、いつまでも留まることなく広がっていくのだ。