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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『カルテット』最終話

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『カルテット』がついに終わってしまった。なんたる幸福な3ヵ月であったことだろうか。坂元裕二の最高傑作か否かという判断は観終えたばかりなので留保するが、間違いなく『それでも、生きてゆく』(2011)、『最高の離婚』(2013)という燦然と輝くマスターピースに肩を並べる作品の誕生である。坂元裕二への強烈な愛を叫びながらも、作家としてのピークはもう過ぎてしまったのではないだろうか、と密かに案じていた自身を恥じ、そして喜びたい。『カルテット』ではこれまでの得意技を更に研ぎ澄まし、時代の空気に適応しながら、新しい領域に果敢に突入している。坂元裕二はまだまだ我々の心をおおいに揺らし続けてくれることだろう。さて、最終話ということですが、物語としてのピークは9話で終えていて、まさにエピローグという印象。これまで鳴らしてきたいくつかのテーマを丁寧に再確認しながらも、”永遠に終わらない”という稀有な感覚を画面に刻み込んだ美しいフィナーレだったように思います。このドラマについて書きたいことは同じく全て9話のエントリーに託してしまったので、正直もう書くことがない。しかし、ここまできたならと、振り絞って筆をとります。ピークタイムのないダラダラとした文章になってしまうかと思いますが、どうかお付き合いください。



『カルテット』というドラマは、そのモチーフに”ドーナッツ”を据えている。であるから、物語はその穴の周りをなぞりながら円を循環し、元の地点(1話)に舞い戻ることになるのだ。離散してバラバラになっているかと思われたカルテットメンバーは、軽井沢の別荘に留まり、これまでのように暮らしている。しかし、どこかが違う。まるでこれまで我々の観てきた『カルテット』の”並行世界”であるかのように。まず”真紀の不在”という大きな変化がある。カルテットからトリオに。だが、それはやはり4人で暮らしているのと同義でもあるようだ。

いなくなるのって、消えることじゃないですよ
いなくなるのって、いないっていうことがずっと続くことです
いなくなる前よりずっとそばにいるんです

かつて真紀(松たか子)の口から発された言葉を別府(松田龍平)が噛みしめるように実感している。*1真紀のコロッケデートをシンドロームを巡る会話(と視線)からも、家森→すずめ→別府→真紀というお馴染みの矢印の片想いが健在であることが窺える。


これまでの『カルテット』の世界との差異をより鮮明なものにしていくのは、不在そのものでなく、繰り返される1話の様々なシークエンスの反復によってである。別府がミニバンで迎えに行ったヴァイオリニストは、聞き取れないほどの小さな声で話す人見知りの女性ではなく、腹式呼吸のような大きな声で話す神経の太そうな女性に。途中でミニバンに乗り込む家森(高橋一生)は、雌犬に覆い被さられ顔をベロベロと舐められている。かつては道案内した女の子に別れ際にキスをかますような気障な男であったはずなのに!机の下で猫のように眠っていたすずめ(満島ひかり)は豚になってしまったようだ。差異は1話とのそれに留まらない。ライブレストラン「ノクターン」は和食ダイニング「のくた庵」に、”紫式部”はボックスからポケットティッシュに、家森と別府は互いを下の名前で呼び合い(諭高さんのエリンギ!)、別府の袖をまくる癖はズボンの裾捲りに移行している。鍋のマロニーをハサミで切ってあげる家森の所作には美容室で働いていた頃の名残が少しだけ残っている。同じようで少し違う。まさに並行世界。そして、何より異なっているのが3人の生活ぶりである。二度寝の常習者であったすずめは徹夜で資格の勉強をする意識高い系に、無職であった家森は週7日労働をこなすハードワーカーに。対して、これまでカルテットを養っていたはずの別府が仕事を辞めて無職に。別府は思う、みんなどうかしている、と。僕はみんなのちゃんとしてない所が好きだったのに。このパラレルワールドから抜け出す鍵はやはり不在の真紀にあるだろう、と1枚の写真を頼りに捜索を開始する。3人がミニバンに乗り込み、冒険の旅に出掛ける。この質感はやはり『ドラゴンクエスト』的だ。真紀を勇者とするならば、魔法少女(すずめ)、僧侶(別府)、遊び人(家森)というイメージがしっくりくることでしょう。そして、4人が集まり、再び演奏された「ドラゴンクエスト序曲」の間奏が、1話でのレベルアップのテーマから、セーブポイントのテーマに変更されている。これでもう4人は離れ離れのスタート地点には巻き戻らない、という安心なのだ。



真紀を再び迎え入れるまでシークエンスの見事さは、この最終話における白眉と言えよう。再会の場面における、日が落ちた団地に風に揺れる木々が影を映し出す、という画作りの強さ。『カルテット』という作品の映像感度の高さも、脚本の強度と同様に書き記しておきたい要素だ。洗濯物を干す、引き戸の開け閉め、走る、降りる、転ぶ、といったごく小さなアクションが、イメージとの連なりでもって、”活劇“とすら呼びたい興奮をもたらしている。少し振り返ってみよう。真紀がベランダで洗濯物を干す。一足の靴下には穴が空いており、真紀の脳裏には無意識に、”欠けた”仲間たちがよぎったことだろう。すると不思議なことにその仲間達が奏でる音色が聞こえる気がする。そんなはずあるわけないのに。そういったボンヤリとした思考も、けたたましい洗濯機の騒音が、すぐさまかき消してしまう。真紀は気のせいだろうな、と引き戸を閉める。暴れ回る洗濯機、嫌がらせ行為のこれまたけたたましいノック音、そういったノイズから逃れる為、部屋に戻った真紀はイヤフォンで耳を塞いでしまう。ここで真紀は仲間の音色と完全に分断されてしまう。しかし、そこに風が吹く。風はベランダに干された洗濯物を揺らす。真紀は慌ててベランダに戻り洗濯物を仕舞おうとする。ここで再び扉が開かれ、音色が彼女の耳を揺らすことになる。洗濯終了の合図音がそれを阻害しようとするが、煙であり、つまり流動体であるトリオの演奏は風に乗り、今度ははっきりと真紀の耳を捉える(君の部屋までも届く)。居ても立っても居られなくなった真紀はサンダルつっかけで部屋を飛び出し、階段を駆け下り、その音の鳴る方へ。急ぐあまりに転んでしまうほどの走りをみせる。この”転倒”がどうにも感動的だ。何度も繰り返し転んでみせたカルテットメンバーの中において、これまで真紀だけが一度も転んでこなかった。”転ばないこと”(=しくじらないように慎重になること)が、世を偽って生きる彼女の絶対に守らねばならぬルール、もしくは”呪い”のようなものであったからだ。つまり、あの転倒は、そういった呪縛から解放された”走り”なのである。そんな走りの先にいるのは、彼女の世界そのものを変容させてしまう、運命共同体に他ならないだろう。



並行世界のモチーフは意外なところにも潜んでいる。それは坂元裕二の必殺技とも呼べる手紙に。あの手紙の主は誰だったのだろうか。手紙の主と推測されるコンサート会場にいた”G”のキャップをかぶった女性を演じていたのが主題歌を担当した椎名林檎だったのでは、という憶測が流れた。なるほど、確かにそれは気が効いたファンサービスかもしれない。だが、手紙の主は椎名林檎が演じてはならない人だ。名前もない、顔もない人、誰でもない人でなくてはならない。それは彼女が、”みんな”と出会わなかった並行世界の真紀であり、すずめであり、家森であり、別府であるからだ。

世の中に優れた音楽が生まれる過程でできた余計なもの。みなさんの音楽は、煙突から出た煙のようなものです。価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。私は不思議に思いました。この人たち煙のくせに何のためにやってるんだろう。早く辞めてしまえばいいのに。私は5年前に奏者を辞めました。自分が煙であることにいち早く気づいたからです。自分のしていることの愚かさに気づきすっぱりと辞めました。正しい選択でした。本日またお店を訪ねたのはみなさんに直接お聞きしたかったからです。どうして辞めないでんですか?煙の分際で、続けることに一体何の意味があるんだろう?この疑問はこの一年間ずっと私の頭から離れません。教えてください。価値はあると思いますか?意味はあると思いますか?将来があると思いますか?なぜ続けるんですか?なぜ辞めないんですか?なぜ?教えてください。お願いします。

この匿名の手紙への回答は、コンサートにおけるカルテットの演奏で返される。1話に登場し、スーパーマーケットでの「ドラゴンクエスト序曲」の演奏に目を輝かせていたあの中学生2人組がコンサート会場に姿を見せる。届く人には届いているのだ。

すずめ「あ、でも、外で弾いてて
    あ、今日楽しいかもって思ったときに
    立ち止まってくれる人がいると
    やった!って思います。その人に何か・・・」
真紀「届いた!自分の気持ちが・・音になって」
別府「飛ばす、飛んでけって」
家森「わかります、音に飛べ、飛べーって」
真紀「あの感じがね・・・」

そして、手紙の送り主である”並行世界の自分”にも届いてしまったに違いない。煙突の煙のようなもの、つまりは流動体であるカルテットの演奏だからこそ、シームレスに階層を超え、本来交わるはずのない世界のあの子の元に、音が、想いが届く。離れ離れになってしまった真紀の部屋のベランダに届いたように。どんなに隔たれていようとも、どんな形であろうとも、届く人には届く。”人と人はわかりあえない”という諦観の元に、徹底的なまでのすれ違いを描いてきた坂元裕二が、常にその筆で最も力を込めて伝えようとしているのは、こういった希望だ。この考察に小沢健二の「流動体について」が潜んでいることも届く人にだけ届けばいい。坂元裕二という作家はこの10年間、小沢健二以上に小沢健二な言葉を駆使してきた作家であると個人的には考えていて(山田太一小沢健二坂元裕二という美しいリレー)、小沢健二本人が復活を果たした今、両者が完璧なまでの共鳴を見せていることに、感慨を覚えてしまう。



欠点と嘘で結ばれたカルテットが、その”負債”を逆手にとり、たくさんのお客をホールに集めていく反転は、実に美しく感動的だ。しかし、問題は真紀とすすめの控え室でのやりとりだろう。
すずめ「真紀さん。一曲目って、わざとこの曲にしたんですか?」

真紀「ん?好きな曲だからだよ」
すずめ「・・・真紀さんのこと疑って来た人、別の意味にとりそう」
真紀「そうかな・・・」
すずめ「・・・なんでこの曲にしたの?」
真紀「零れたのかなぁ・・・内緒ね」
すずめ「・・・うん」

いかようにも解釈のできるこの謎の残し方である。ここですすめが指摘しているのは「死と乙女」という楽曲の持つ”死”のイメージが、執行猶予中の真紀につきまとう疑い(義父の殺害)を色濃いものにしていしまうのでは?ということだろう。しかし、対する真紀の「零れたのかなぁ」という返しはどうだろう。とても主語が”殺意”であるとは思えない。劇中使用楽曲のバックボーンについては基本的には触れないと宣言しておきながらも、抗えずシューベルトの「死と乙女」という楽曲についてWikipediaで調べてしまった。

病の床に伏す乙女と、死神の対話を描いた作品。乙女は”死”を拒否し、死神に去ってくれと懇願するが、死神は、乙女に「私はおまえを苦しめるために来たのではない。お前に安息を与えに来たのだ」と語りかける。ここでの”死”は、恐ろしい苦痛ではなく、永遠の安息として描かれている。

“死”を安息として表現した楽曲とのことである。これまた様々な解釈が可能だと思うのだけども、私は、真紀の黒髪に混じった白髪(グレー)やストレスで荒れたしまった手を想う。匿名による無数のバッシングに疲弊し、自ら”死”を望んだこともあった(でも、今は”みんな”がいる)という真紀の告白(零れた想い)なのではないか。しかし、そういった謎解きは意味をなさない。重要なのは、「信じて欲しい」という真紀の言葉であるし、秘密を守ることだ。そして、何よりも松たか子満島ひかりの”顔”の演技の凄みに他ならない。真相は明らかにならず、グレーの中へ。気に食わない人はどこまでも腹立たしいであろうアンチドラマの姿勢が、最終話においても貫かれている。


再びたくさん眠るようになったすずめが、夢から目を覚ます。ふと、あの夢のような充実感を覚えたコンサートも”夢”だったのではないかという疑念がよぎる。しかし、1枚の写真が確かにあのコンサートの現実を保証している。夢じゃなかった、と安堵の表情を浮かべるすずめ。この質感はまさに『となりのトトロ』(1988)の屈指の名シーン

夢だけど 夢じゃなかった

ではないか。最後までジブリへの目配せが貫かれている。


そして、センキューパセリである。どう考えても、”唐揚げにレモン”と比べると、キレがないし、無理がある。それでも、坂元裕二が入れ込みたかったメッセージがある。

ねぇねぇ君たち。
見て!見てぇー!

この子たち言ってるよねー
ここにいるよー

食べても食べなくてもいいの
ここにパセリがいることを忘れちゃわないで

このドラマにおいて、本当に大切なことはいつも家森の口から冗談のようにして語られる。1話のはじまりを思い出したい。誰からも耳を傾けられないにも関わらず、路上で演奏するすずめだ。社会と上手に接続できない名も無き人々は、「わたしたちはここにいます」と叫んでいる。そのか細く小さな”ボイス”に耳をすましてみよう。このドラマは、真紀の聞き返してしまうほどの小さな声に耳をすますことから始まったはずだ。その散り散りになったボイスが集まり、交じり合い、調和がとれたその時、それは人々を躍らせる音楽となることだろう。


物語の締め方がいい。スクリーンプロセス撮影の社内で主題歌を歌い狂うシーンも出色だ*2。道に迷うことすら肯定する人生賛歌の筆致。そして、すべては、”途中”、という感覚。真紀の義父殺害疑惑も、才能も、夢も、別荘売却も、片想いの結末も、全て宙吊りになったまま、カルテットのメンバーはミニバンに乗り込み旅に出る。途中であるから、グレーであるから、自由にどこへでも進める。どんな続きをも書き足すことだってできる。生き辛さを湛えた人々の希望の物語は最後、名も無き我々の手に差し渡されたのである。




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*1:余談になるので脚注に回すが、この度、サニーデイ・サービス岡崎京子をジャケットアートに迎えて発表した新曲「桜super love」の”きみがいないことは きみがいることだなぁ”というフレーズと完全な共鳴をなしていることは言及せずにはいれないだろう

*2:やはり黒沢清クリーピー』における香川照之の「まだまだ行くぞぉ」を彷彿させる

最近のこと(2017/03/11~)

2月末にハーゲンダッツの華もちの発売が再開したのだけども、ウカウカしていたら「きなこ黒蜜」は売り切れていて、店頭には「胡麻くるみ」しか並んでいない。悲しみに暮れていたら、アイスの匠が、もっと安上がりにハーゲンダッツなんて余裕に超えるもの食わしたるよ、と誇らしげな顔でほほ笑む。スーパーに出向き、明治「エッセルスーパーカップ」のバニラ、黒蜜シロップときなこ(黒胡麻入りが好ましいらしい)を購入。なんだか想像がつくなーと思いきや、いざ食べてみると、期待を上回る美味さがそこにはあった。確かに余裕で超えている。なるほど、きなこは黒胡麻の香りが効いている。いやいや、華もちの餅はどうした、という話なのだが、ダイレクトに注ぐ黒蜜シロップの粘度が、餅感も演出するのである。ぜひ、お試しあれ。私は思わず、次の日も試した。更に、帰り道に「カネスエ」のわらび餅を購入し、エッセル黒蜜きなこアイスに添えてみたのだけども、これは当然に麻薬ほどに美味いが、ハーゲンダッツを買う以上に高くついているのでNGです。本質を見失うところであった。お気に入りのワンピース達をメルカリに出品しているのだけど、全然売れない。かわいいと思うんだけどな。大人コーデで決めたいモノトーンのワンピース(6巻)とか、初夏にぴったりなエメラルドグリーンのワンピース(9巻)とか。本棚に空きを作りたいので、誰か買ってくれ。



土曜日。オールナイトのドライブ、ジョナサンモーニング(友人達のあの3/11何をしていたか、を改めて話した)から帰宅するともう朝の8時を過ぎていたので、このまま起きていることにする。夜をずっと起きたまま朝を迎えると、朝が異様に高潔なものに感じる。別に乱れた夜を過ごしていたわけでもないのに。洗濯物が大量に溜まっていて、強引に1回で済ませてしまおうとしたら、ものすごい音をたてて暴れていた。たまに爆発するんじゃないか、という音を出す時があるんですけど、洗濯機って爆発するんですかね。爆発したらとても困ります。部屋の掃除をして、洗濯物を干して、お風呂で『エスパー魔美』を読んだ。

魔美のボーイフレンドである高畑さんは全漫画の中で1番素敵なボーイフレンドだと思う。怪人的に頭が良くて野球が下手でとびきりに正義感で優しい。しかし、前も書いたけども、F先生の作品に出てくる男性はどうして一様にパートナーの女性より背が低く、小太りなのだろうか。F先生自身は高身長のスラっとした体型なのだけども、F先生の中ではむしろそれがコンプレックスだったりしたのだろうか。『マンガ道』の中でも才野茂(≒F先生)が、食が細くて苦労しているエピソードがいくつか見受けられる。諸々の支度を済ませて、昼前に京王線で南大沢へ。南大沢はいかにもニュータウンという佇まいで、大学もあるし、アウトレットモールもあるし、お祭りの出店も出ているし、明るくて賑やかな駅だ。お目当ては駅から1分ほどのところにあるスーパー「サカガミグランルパ」だ。その一角に居を構える「カーンさんのカレー」が本当に素晴らしいのである。ホテルのレストランで修行経験もあるというインド人のカーンさん手作りインド料理はこれがなかなかに本格的なのです。「サガミグランルパ」にはイートインスペースもあり、買ったカレーをすぐさま食べられる。「カーンさんのカレー」では本格的なビリヤニも提供していて、この日は店頭に並んでいなかったので、尋ねてみると、ちょうどできたところだったようだ。「本当に美味しいものを知っているね(ニッコリ)」と色々サービスしてくれた。
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ビリヤニはインド人の心のツボなのだろうか。カレーは種類豊富で、色々食べたけどどれも美味しい。この日チョイスしたエビのカレーは大量のオニオンの甘味と海の香りが口に広がる名品でございました。食事を終えて、多摩センター駅に移動。パルテノン多摩の小ホールで『演劇人の文化祭LIVE』を観て、更に京王線よみうりランド前駅へ。250円を払いゴンドラで丘の上へ。これが結構楽しいのでオススメ。時間帯によっては多摩の夜景が望める。丘に到着すると、よみうりランドがちょうど閉園する時間だったようで、とても混雑していた。お目当てはよみうりランドではなく、そのお隣の「丘の湯」だ。親子連れで賑わう土曜のスーパー銭湯。サウナと水風呂は平均点という感じなのだけど、広くとられた外気浴スペースがよかった。サウナ、水風呂の後に、外にゴロンと寝そべると、視界には空しかない。これはもうととのわざるをえないだろう。
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観覧車が目の前にあるのだけども、露天風呂からは観覧車は見えないし、観覧車からも露天風呂は見えない。情けないようで、逞しくもある。よく考えると一晩一睡もしないで、サウナに入るのは危険だったのでは。帰宅してそれはもうグッスリと寝た。



日曜日。10時間くらいグッスリ眠って、快調。お米のセレクトショップを名乗る菊田屋米穀店が展開する「米屋のおにぎり屋」で「魚沼産コシヒカリ 目刺し弁当」を食べた。
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これぞ、朝ご飯弁当の最高傑作だ。目刺しの苦味がお米のとてつもない甘味、すなわち旨味を引き出します。目刺し以外にも、だし巻や鮭がおかずになった弁当もあるのだけども、やっぱり1番質素で、故に最も美しいヴィジュアルを有する「目刺し弁当」をイチオシとしたい。ちなみに、新宿NEWoManで購入。「米屋のおにぎり屋」は他にも京都伊勢丹、JR新大阪駅、大丸梅田、大丸東京に店舗があるようです。新幹線や高速バスでの旅のお供にオススメだろう。目的地でいろいろ美味しいものを食べるのだろうから、旅のはじまりの朝食はこれくらい質素なほうが好ましい。お昼前に有楽町に出向いて、25年ぶりに3時間56分版がデジタルリマスターされたエドワード・ヤン『牯嶺街少年殺人事件』を観た。
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ついに、スクリーンでこの作品を観ることができた、その喜びでいっぱいだ。一体何人の映画ファンが渋谷と新宿のTSUTAYAに在庫されていた数本のビデオを観回してきたのだろう。その”みんな”で泣こうじゃないか。まったく作品の感想が言葉にならなくて、ただただ「映画の神様だ」と打ち震える。こう書いている今も、あの映画のショット1つ1つを思い浮かべてしまい、涙が出てきそうだ。ちなみに、朝から大好きな珈琲を絶ち、ノンカフェイン人間として挑むことで4時間の長丁場における尿意に打ち勝ちました。映画を観終えて、JR有楽町駅前に古から存在する中華料理屋「中園亭」で少し遅めのランチ。レモンそばとジャージャー麺が超絶気になったのだけども、無難にエビそばをチョイス。これがむちゃくちゃ美味しかった。多分このお店は何を食べても美味いのだろうな。JRで五反田駅に移動し、東急池上線に乗り換え。(たぶん)人生初の池上線だ。聞いたことない駅名がたくさんある。しかし、どこか慣れ親しんだ東武東上線と似たヴァイブスを感じてむちゃ落ち着く。車窓から風景や駅の佇まいも似ている。この沿線なら住める、むしろ住みたいと思った。途中で、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の舞台である雪が谷大塚駅を通過した。練くんと音ちゃん。池上駅で下車し、「桜館」という銭湯へ。
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いやー痺れた。今のところ都内ベスト銭湯だ。佇まいもいいし、サウナも水風呂も天然温泉も抜群。本格フィンランド式、を謳うサウナは高温かつ高湿の最高仕様で、入ってすぐさま汗ダクダク。水風呂は15℃を下回る本格派で、手足を浮かせないと長くは入っていられないほどだ。キンキンに冷やしてサウナで温める。そいつを繰り返せば、嫌なとこなんて全部吹き飛ぶような多幸感に襲われます。サウナのテレビで横綱になった稀勢の里の初勝利を見届ける。そういえば、優勝の瞬間も銭湯のサウナで観た。白鵬が格下相手に負けてしまい、サウナ内にどよめきが巻き起こっていた。テレビが映す会場の空気も異様だった。この日はWBCの日本VSオランダ戦もあって、帰宅してテレビに齧りついた。いやはや、大変な熱戦で名勝負だった。日本の4番中田翔の勝負強さときたら痺れてしまうな。そして、オランダの4番に座るバレンティンも絶好調だ。バレンティンは本当に愛らしい助っ人外国人だ。試合前の柔軟運動に日本側に混じっているバレンティンもかわいいし(山田と秋吉の間にいるのがまたいい)、かつてのチームメイトである青木に抱きつく姿もかわいいし、ホーラムンを打った後の外野守備で日本のファンにお辞儀するバレンティンもかわいかった。とりわけ最高だったのは、スワローズでチームメイトである秋吉との対決だろう。三振という結果にお互いに見つめ合ったのちに笑う感じが、最高にマンガだった。そして、その様子に興奮してTwitterを更新する元スワローズで今やバリバリのメジャーリーガーとなったバーネット。オランダ代表の監督も元スワローズのミューレン。ネットスラングで言うところの、(お腹に)やさしい世界(←ヤクルト)だ。



月曜日。花粉と眠気で絶不調である。朝、電車の中で隣に立ったおじさんが、ニーチェを読むくらいの優雅さで華麗な音を立てながらページを捲っていて、気になったので覗いてみるとカバーを外した少年マガジンコミックスだったので、なぜか無性に腹が立った。到着駅までに2冊目に突入し、そちらもカバーは外されていた。マガジンの何だよ、と確認したかったのだが、少し視線を送ると、すぐにマンガから顔を上げて警戒心を出してくるやば目の人だったので、無理でした。何事へのやる気も巻き起こらなかった。デパートでホワイトデーのチョコを買って、スーパーで夕飯の買い物をして帰宅。月曜日はお決まりの豚バラ肉鍋だ。不思議とまったく飽きが来ない。猛烈な不調を覆す為に、森永のカップアイス「MOW」のあずき味も買ってしまった。私はこのアイスをこよなく愛している。2015年にリニューアルしてから「MOW」の印象は大きく変わった。名称の”モー”という響きがそうさせるのか、それまではミルク臭さが際立っていたのだけども、バニラ香料を見直すことでバランスが改善。そして、なんといってもパッケージが良くなったし、木村文乃を起用したプチプラ感を演出した広告も冴えていた。
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新CMは高橋一生がスーパーの店長。これまた冴えている。バニラもチョコもいいけども、期間限定(?)のあずきがとりわけ傑作。130円という価格からかけ離れた満足感を抱けます。ご飯を食べながら、溜まっていた録画の消化に勤しむ。『アメトーーク』のガラケー芸人はおもしろかったが、一人旅芸人は、庶民と芸能人の金銭感覚の違いを見せつけられるだけだったな。この国の何割の人があんな気ままに海外旅行に行けるというのか。『乃木坂工事中』はドッキリ企画という鉄板のはずが、言及すべき点がまったく見当たらない。この日の深夜に放送された『KEYABINGO』もドッキリ企画であったが、こちらは大変練られていたし、グループのいいヴァイブスを汲み取れていた。『欅って書けない?』もここのところまた一段と面白い。斎藤京子さんは素晴らしい。「日高屋」のチゲ味噌ラーメン、絶対食べに行こうと思う。『A LIFE~愛しき人~』は木村と浅野がバチバチで俄然盛り上がってきたのだけども、もう来週が最終回か。ビックリするくらい話が進まなかった印象だ。

祝福 (河出文庫)

祝福 (河出文庫)

お風呂で長嶋有『祝福』を読み終えた。1篇とびきり好きな短編が入っていた。



火曜日。WBCと『カルテット』の日。まっすぐ家に帰って、応援した。今大会不調であった山田哲人が初回先頭打者ホームラン。更にツーベースに、ダメ押しのホームラン。山田哲人という男は本当に打ち出すと止まらない、ミスター固め打ちである。しかし、やはり筒香が凄い。筒香が三冠王、山田が3年連続トリプルスリー、という偉業を今年は期待できるのでは。乃木坂46のキャプテン桜井玲香さんのファースト写真集『自由ということ』を購入したので眺める。

桜井玲香ファースト写真集 自由ということ

桜井玲香ファースト写真集 自由ということ

むちゃ元気が出る。50分遅れの『カルテット』9話、泣く。4人全員よい。でも、やっぱりほとばしる、いや零れ落ちる、坂元裕二満島ひかり愛。宮藤官九郎VS大倉孝二もよかった。最後のシーンは「朝ご飯なんじゃないか?」というご指摘をいくつか頂いたので、観直してみたのだけど、やっぱり夜だと思った。3人ともその前の楽屋シーンの服のままだし、そもそもあのシーンはスタジオ撮影のはずだから、眠れずに早く起きてしまった朝だとしたいならば、もう少し照明で早朝感を演出できるはずなのだ。でも、まぁそういうわかりづらい演出する監督の回だからな。あと、Twitterで教えてもらった、夜説を有力に後押しするものとして、今作に携わっているフードスタイリスト飯島奈美のエッセイに、”朝ごはんみたいな夕食”に関する文章があるらしいです。やっぱりあのシーンは夜なのに朝食みたいなメニュー、というズレに良さがあると思うな。朝食にあのメニューを作っていたら(ましてやこれまで1回も料理をしなかったすずめちゃんが)、ただただ完璧すぎて、ドーナッツホールでも何でもなくないだろうか。




水曜日。サウナに行こうと思ったが、WBCが観たくて帰宅。千賀が素晴らしいピッチングを披露していた。こういう強気なピッチャーがスワローズにも欲しい。

我が名は阿厳 其方を屠る者の名だ

ってこれ、井上雄彦の『バガボンド』に出てくる阿厳というキャラクターの台詞です。一時期凄く阿厳に凝っている時期があって、mixiでも阿厳のコミュニティの副管理人をしていたし、人を屠ったりする時なんかよく真似していたりしたなぁ。武田鉄矢が肛門様としてTBSドラマ『水戸黄門』が復活するらしい。これは必見だ。全然イメージにはまってないけども、説教もできるし、アクションもできる(名作『刑事物語』を観よう)のが武田鉄矢だ。適任だ。武田鉄矢は肛門という感じもなくはないので、ミスタイプはそのままにしておいた。お風呂で音楽が聞きたくて、を浴室に持ち込んでいたのだけども、湯船に沈没した。私は慌てない。まず、よく振って機内から水を出し、すぐさまドライヤーで水分を飛ばすのだ。ネットで調べてみると、それこそがiPhoneが水没した時にやってはいけない3箇条の内の2つで、当然のように完全に壊れました。携帯にドライヤーで思い出してしまうのが大学1年生の時のサークル旅行だ。初日の夜、3年生女子の先輩がトイレに携帯を落としてしまったと大泣きし、男の先輩達が5~6人がかりで彼女の携帯を一生懸命ドライヤーで乾かしていたのだ。マドンナ的存在だったのだろう。なんだか大学も思っていたほどおもしろくなさそうだぞ、と思った。



木曜日。携帯が無くても生きていけるが、携帯が無いと不便だ。急いで退社して、自宅から最寄りのソフトバンクショップに駆け込んだら、本日の業務を予約でいっぱいだ、と門前払いされてしまった。携帯が全く動かない、と伝えても、否応なしに門前払いされてしまうのは哀しいな。ペッパー君のほうがよっぽど人間味溢れる対応をしてくれているではないか。しかたがないので自転車に乗って、”確かあったような気がする”くらいの朧気な記憶を頼りに、隣駅へ。携帯がないので、その場では何も調べられないのだ。これは不便ですねぇ。行ってみたら、記憶は正しく、ソフトバンクショップは何やら朧気な場所に確かにあった。しかも空いている。店員が近寄ってきたので、「水没して全く動かないので、機種変したい」と伝えると、すぐに席に通され料金の見積もりやプランの変更の相談に乗ってくれた。あぁここはいいソフトバンクだ、と喜んでいたのだけど、2~30分かけて見積もりがいざ終わると、「えーでは、当店にはiPhone7のすべてのカラー、在庫ありませんので、2週間お待ち頂く形になります」と言うではないか。椅子から転げ落ちそうになってしまった。「いやいや、そういうのは、最初に言ってくださいよ」と怒りを抑えて伝えるも、「申し訳ございません、まずは”見積もり”という段取りになってまして」と返すので、バカらしくなってしまう。まじでソフトバンクの店員全部ペッパー君にしてくれ。これが単なる機種変を要望しているならまだわかる。しかし、このケースは最初に水没して壊れた旨も伝えているし、なんなら壊れたiPhoneを目の前に置きながらの見積もりの相談だったのだ。お前が同じ立場で「2週間お待ち頂く形になります」と言われて、「わかりました!」と言うのか。携帯屋が1番携帯をなめているではないか。しかし、発売間近でもないのにソフトバンクショップにiPhoneの在庫ないなんて。「今、iphone7ってどこも在庫そんな感じなんですか?」と尋ねたら、「いや、他店の在庫のことはちょっとわかりません」と返ってきた。いや、そういうことじゃなくて。別に各店の在庫を詳細に教えてくれと言っているわけじゃなくて。叫びだしたくなったが、アホらしくなったので、店を後にした。帰宅してソフトバンクのショップサイトにアクセスしてみると、事前来店予約や購入フォームもあるようだ。職場の最寄りの店舗で、iPhoone7の購入と来店予約を送信すると、「折り返し、マイソフトバンクに登録されている番号に電話もしくはメール差し上げます」と書いてあった。ダメじゃん。食材がもやししかなかったが、再び出掛ける気力もわかないので、ゴマ油で炒めて食らった、全然美味しくなかったが(ソフトバンクへの怒り→ホークス→福岡→向井秀徳、という思考かと思われます)。お風呂で長嶋有『電化文学列伝』を読んで、その豊かさに打ちのめされる。

電化文学列伝 (講談社文庫)

電化文学列伝 (講談社文庫)

卓越した書評の数々に思わず声が漏れた。昨夜iPhoneを落としたというのに、お風呂への持ち込みはやめられない。Amazonプライム鶴巻和哉龍の歯医者』を遅ればせながら鑑賞。
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むちゃくちゃおもしろい。千眼美子さんの声もよい。舞城王太郎(脚本)に黒田硫黄の活劇が混ざったような快作だった。死なずのブランコの声優さん、(いい意味で)異物感あるなと思ったら、松尾スズキだったのですね。音響監督が庵野秀明なのか。キャラクターデザインと作画監督した井関修一は素晴らしい才能だ。同い年らしい。同い年と言えば、最近、かっこよすぎるセルフプロデュース曲で話題のw-inds.だ。
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アルバム気になるな。そういえば、昔ブログをはじめたての頃、「1985年生まれとお見受けしますが、同い年生まれには宮崎あおい蒼井優上戸彩綾瀬はるかなどたくさんのスターが活躍されていますが、同世代としてどう思われますか?」という超謎のコメントがきた。「元モーニング娘。石川梨華さんわい!(ご結婚おめでとうございます)」と思いつつも「私は女優じゃないのでわかりません」と答えた。どう思えば、満足してもらえたのだろう。とにもかくにも、絶対サイコパスの人だ。

坂元裕二『カルテット』9話

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家森:別府くん、この映画いつになったら面白くなるの?
真紀:宇宙・・・出てこないですね
すずめ:幽霊はどこにいるんですか?
別府:だから そういうのを楽しむ映画なんです

『スターシップ 対 ゴースト』という、2話で登場した『人魚 対 半魚人』に劣らぬB級感を醸し出す映画を観ながらの4人の会話。まさにこの『カルテット』という作品についての自己言及のようである。面白くない人には本当にずっと面白くないだろうな。アンチドラマで、登場人物はウダウダと動かず、物語展開はどこまでも不親切で、毎回フェイクな予告で視聴者を惑わしたりもする。8話のラストであんなにも視聴者を揺さぶった「真紀は早乙女真紀ではない」というサスペンスも、開始数分であっという間に処理されてしまう。「誰でもない女ですかね」とまで言われていた真紀の本名も”ヤマモトアキコ”とあっさり明かされ、本物の早乙女真紀はしっかり生きていて、あまつさえ自転車泥棒で捕まるような間の抜けた方だ。戸籍売買へと至った義父とのトラウマや被害者/加害者の葛藤もおそらく詳細に語られることはないだろう。そんなものを語ろうとしようものなら、「いい、いい!もういいよ!」「どうでもいい、すっごくどうでもいい!」と、ものすごい勢いで静止されてしまう。通常のテレビドラマが山場としてフォーカスを定める場所をあえてズラしている。それは社会とか倫理とか呼ばれるものか。『カルテット』は時にそういう場所に向かう素振りを見せるも、すぐにプイっと違う場所へ行ってしまう(まるで猫のように)。社会とか倫理ではなく、本来であればドラマにはなりえないように、日々暮らしていく中で、言葉にならずに零れ落ちてしまうはずの感情の機微を丁寧に拾いとることに注力し、人間そのものを描こうとしている。


『スターシップ 対 ゴースト』に宇宙も幽霊も出てこないように、『カルテット』はミステリーサスペンスでありながらも誰が良い人で、誰が悪い人か釈然としない。真紀は善人か/悪人かというミステリーを、馬の鼻先に人参をぶら下げるようにして、視聴者の関心を引き付けておきながらも、「そんなものはどうでもいい」と人参を放り投げてしまう。我々は何度この手に引っ掛かったことだろうか。坂元裕二は、性善説性悪説というようなものに、はなから興味がないのだろう。確かに坂元裕二の書くドラマは人間の暗部にカメラが向けられている。それは何故か。人間は愚かである、人間は哀しい、人間は醜いetc・・・そこから目を背けずに、それでもなお人間に愛らしさを見出し、繋がろうとするものこそ、この世界を生き抜くことができる、そう考えているからではないだろうか。

僕はみなさんのちゃんとしてない所が好きなんです
たとえ世界中から責められたとしても
僕は全力でみんなを甘やかしますから

であるから、こんなスペシャルな台詞が飛び出す。凡百のドラマからこんな台詞を使えば「何をだらしのないことを言っているのか」と、抗議が殺到である。互いのダメなところをおもしろがって、欠点で繋がる4人。その絆を3ヵ月という時間をかけて描いてきたからこそ許される圧倒的な肯定が、この台詞なのである。


ホッチキスはステープラー、バンドエイドは絆創膏、ドラえもんは猫型ロボット、ニモはカクレクマノミetc・・・

本当の名前で呼んで!

という家森の叫びが、真紀の本当の名前を巡る挿話の伏線になっている、という記事をニュースで見かけた。言いたいことはわかるのだけども、あの言葉を発した時点で家森が”早乙女真紀”の真相を知りえていたという描写はないし、視聴者としても放送序盤で戸籍売買の件を把握しているので、あれは伏線ではない。共鳴と呼びたい。物語のトーンに家森が(本人の知りえぬところで)共鳴してしまったのだ。そういった運動の連鎖が、物語を豊かなものにしていく。今話における最も美しい”共鳴”はこうである。すずめがバイオリンを抱きながら廃船で星を眺める中学時代の真紀を、真紀がパトカーの中でチェロをかついで地下鉄に乗る幼いすずめを、同じ時間に、離れた場所で、互いに想像する。その共鳴は、東京の地下鉄で偶然すれ違うことなんかよりもずっと尊く、美しい。誰もが孤独で、どうにも交わるはずのないようにすら思われる我々の人生は、実は知りえぬところでゆるやかに繋がっている。そんな希望が託された共鳴である。


”伏線”にどうしてもこだわるのであれば、重要なのは、ホッチキスやニモの正式な呼び方なんて「どうでもいい」という態度が、真紀の本当の名前なんて「どうでもいい」という、「どうでもいい」のミクロからマクロへの跳躍を支えている点にあるだろう。あいまいなものはあいまいなままでいい。

咲いても咲かなくても花は花
起きてても寝てても生きてる
辛くても苦しくても心

これまでと同様に対比構造を否定していく。被害者/加害者、祝賀会/残念会、パンツだけ履いてる人/パンツだけ履いてない人、仕事/趣味etc・・・どうでもいい、全部どうでもいいのだ。そんな中、ただ1つだけ、二律から一項を選びぬく問いがあった。人生やり直しスイッチを押す人間/押さない人間、である。

二種類ね、いるんだよね
人生やり直すスイッチがあったら押す人間と押さない人間
僕はね、もう 押しません
ねぇ?なんで押さないと思う?
みんなと出会ったから、ね?ね〜?

高橋一生にしか演じきれないだろうかわいさはさておき、この選択の強さときたら。人生やり直しスイッチ、というドラえもんの秘密道具のようなポップな言葉で包まれているが、それは現実世界においては、ようは自殺するか、しないか、という問いだ。”みんな”と出会った4人は、生きることを諦めない。不可逆な時の流れに、逆らわない。

まきさんは奏者でしょ?
音楽は戻らないよ?
前に進むだけだよ


一緒
心が動いたら前に進む
好きになった時
人って過去から前に進む

レモンをかけた唐揚げというたとえでもって何度も説かれていた、やり直しの効かない時の流れ、この世界の冷酷さが、この9話で見事に反転していく。前に進む、ということは素晴らしいことなのではないだろうか。そのエモーションはやはり不可逆である”ドミノ倒し”に狂喜乱舞する4人の姿に託されている。人を前に進ませるのは”好き”という感情だと言う。

ママのこと愛してるんで

僕は全力でみんなを甘やかしますから

私は、真紀さんが好き

信じて欲しい

みんなと出会ったから

いくつもの美しい”好き”に満ちた9話(対比されるように空寒い、有朱の棒読みの大好き!)は、季節も前に進める。雪積る真冬の軽井沢で繰り広げられたこのドラマだが、アウトレットモールでは春の装いが並び(見るだけ)、4月のすずめの誕生日もやってくる。少しずつ、でも確実に、春を目指している。暖かい場所へ。

泣きながらご飯を食べたことのある人は生きていけます

家森の流した涙を知ってから知らぬか、すずめが晩御飯の支度をする(いつも食べて寝ているばかりだったすずめが!)焼き鮭、きんぴらごぼう、そして炊き立てのご飯。これまでカルテットの夕食に並ぶことのなかった白飯が登場したことにも示唆的だが、これはまるで朝食だ。真紀が姿を消してしまった暗い夜に、朝ごはんを食べる。時の流れを先取るように、“光”のほうに進むのだ。



さてさて、残すところついに最終回1話のみである。あんまり他の作品の事を引用すると、怒られてしまうらしいのだけど、名残惜しむように、余計なことまで語らせて欲しい。おまけのようなものなので、読みたくない人は読まなくていい。この『カルテット』から何やらスタジオジブリへの目配せのようなものを感じないか、という話だ。『かもめ食堂』(2006)でお馴染みの飯島奈美をフードスタイリストに招聘してまで力を入れて描かれるフード理論はジブリお家芸、と言うよりも”フード理論”という言葉自体、ジブリ映画を語る際に生まれたようなものである。魔法少女というモチーフや、白い髭のおじいさんに導きを得たりするなんてのもどこかジブリ的なのだけども、決定的なのは家森の声色物真似だろう。「ワシにもくれ」「ワシを倒してからいけ」は『千と千尋の神隠し』(2001)で我修院達也が演じた青蛙だし、お得意の「アレー?」は『となりのトトロ』(1988)のメイだろう。そう考えると、真紀が名前を消失してしまうくだり『君の名は。』(2016)ではなく『千と千尋の神隠し』だ。こういったオマージュが、どこに結びつくかと言えば、やはり宮崎駿の(撤回された)引退会見でのこの言葉であろう。

子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが
自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきました

これを坂元裕二は自覚的に受け継いでいるのではないか。宮崎駿はファンタジーの世界で、坂元裕二はすれ違う人間模様の中で、やり方は大きく異なるが、伝えたいことは同じ。『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)は私の中で『もののけ姫』(1997)だったりする。前述の引退会見で宮崎はこうも述べている。

自分の好きな英国の児童文学作家でロバート・ウェストールという人がいるが、彼のいくつかの作品の中に、自分の考えなくてはいけないことが充満している。その中にこういうようなセリフがある。「この世はひどいものである。君はこの世に生きていくには気立てがよすぎる」。少しもほめ言葉ではない。それでは生きていけないぞと言っている言葉。本当に胸を打たれた。(「この世は生きるに値する」という言葉は)僕が発信しているのではなく、僕はいろんなものを多くの読み物や昔見た映画などからいっぱい受け取っているのだと思う。(それらを作った人々は)繰り返し「この世は生きるに値する」と言い伝え、ほんとかなと思いつつ死んでいったのではないか。僕もそれを受け継いでいるのだと思っている。

「この世はひどいものである。君はこの世に生きていくには気立てがよすぎる」というロバート・ウェストールの言葉は、何というか坂元裕二のキャラクター達の核心を捉えていやしないか。そして、宮崎駿がウェストールをはじめてとする先人から受け継いだように、坂元裕二もまた、「この世は生きるに値する」ということを、テレビドラマの中で訴え続けている。




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玉田企画『少年期の脳みそ』

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玉田企画の演劇は徹底的にアンチドラマである。この『少年期の脳みそ』のあらすじを述べるにしても、「高校卓球部の合宿の一夜」としか言いようがない。その合宿の一夜で繰り広げられる出来事の細部は、とても”あらすじ”に要約することはできない。要約されることを拒むような“小さなドラマ”が無数に積み重なっているのだ。主催の玉田真也の類まれなる観察力と着眼点で掬い上げられたミクロな感情の揺らぎ。人間の発するその“小さな意味”を、正確に細やかに舞台に立ち上げてこそ、真の人間ドラマというようなものが描き出せるのだ、という信念を感じる。


もちろん、舞台上で役者が放つ台詞と身体にはそんな気負いは一切感じさせない自然な軽やかさがあり、常に笑いに包まれている。とにかく役者が皆、抜群に巧い。とりわけ、もはやスターシステムのような吉田亮と木下崇祥の2人の臭みのある存在感が抜群。悲劇的なまでの人間のすれ違いは、喜劇だ。空気の読めない人々のやりとりは、神の視点を持つ我々観客からすると、あまりにも滑稽であるのだが、そこに愛おしさを覚えさえもする。大学生のOBとこっそり付き合っている2年生女子の先輩に、面前で告白させられ、当然のように玉砕する童貞の津田。そんな彼にそっと寄り添い慰める顧問の先生を、玉田真也その人が演じている。その事に、胸が熱くなってしまった。あの津田のみっともなさに寄り添う、それが玉田企画の演劇の神髄ではないだろうか。そして、ラストの、2年生女子二人のやりとりも白眉であろう。言葉になりきらない想い、”小さなドラマ”が、壮大な花火として打ちあがり、散っていく。儚く美しいエンディングである。


さて、この『少年期の脳みそ』は新作ではなく、2014年公演作の再演とのこと。なるほど、2016年に鑑賞した『怪童がゆく』『あの日々の話』という2本の傑作に通ずる、既視感の強いプロットも数多く見受けられた。『怪童がゆく』が大学のゼミ合宿、『あの日々の話』が大学サークルのカラオケオール、そして『少年期の脳みそ』が卓球部合宿、と基本的にどれも同じような話なのだけども、とにかくそれぞれの舞台設定が秀逸過ぎるので、存分に楽しめた。今作も抜群に面白いが、前述の2作は既にネクストレベルに到達している印象も覚えたので、来る純然たる新作への期待は高まるばかりである。



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ロロ+EMC feat.いわきっ子 in『演劇人の文化祭LIVE』

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パルテノン多摩で開催された『演劇人の文化祭LIVE』で披露されたロロ+EMC feat.いわきっ子のパフォーマンスにとにかくもうガツーンとやられてしまった。なんとかこの感動を書き残しておきたい。しかし、その感想をこのブログに公開したとしても、それは不特定多数の人にシェアする批評としては機能しないような気がする。どうにもこうにもロロとEnjoy Music Club(そして、いわきっ子に)に過度な思い入れを抱いてしまっているからだ。だからこれはただのラブレターのようなものであって、そんなものは読みたくないという人は読まなくていいし、このラブレターがひょんなことで間違えて貴方に届いてしまったのなら、それはそれでとてもうれしいことです。


まず、お揃いの衣装を纏ったロロメンバー5人が登場し、5本のマイクスタンドの前に立つ。背中に”LOLO”と刺繍されたキュートな紺色カンフースーツはメンバーの森本華によるものだ。5本のマイクスタンド=SMAP俺たちに明日はある」であるからして、昨年、一夜限り披露された幻のSMAPトリビュートミュージカル『ひらひらの』のナンバーがかき鳴らされる。EMCの江本祐介(詞はおそらく松本壮史と三浦直之か)によって編まれた2曲のナンバーは、「SHAKE」であったり、「夜空ノムコウ」であったり、「朝日を見に行こうよ」であったりという、国民的アイドルの往年のヒットナンバーのフレーズやコードや質感を点在させた、まさに”失われた新曲”というような趣なのです。まずもってこの楽曲がむちゃんこいい。泣ける。このエントリー内で本当はあと100回くらい書きたいのだけども、くどいので1回で打ち止めにしておくが、江本祐介は紛れもない天才だ。ここ1年における、そのメロディーメイカーとして充実は、すべてのポップミュージック愛好家に発見されるのを待っている。


亀島一徳を欠きながらも、ロロの役者陣5人が集結している。ロロメンバーの横並びの立ち姿の美しさよ。圧倒的にキャッチ―なルックス、個性豊かでバラバラで、でも確かに1つの共同体なのだ、という感じ。これはもう本当にただのファン心理なわけですが、このメンバーが青春時代に偶然出会い、1つのコミュニティ(劇団)を結成し、モラトリアムなんて時期をとっくに過ぎ去った今なお、懸命にサヴァイヴし続けている、その事実だけで私は胸がいっぱいになってしまうのだ。さらに、このパフォーマンスにおけるロロメンバーには、楽曲の力によって2017年現在失われてしまったSMAPの質感がトレースされている。あの”CRAZY FIVE”が勢揃いした時の、あの得も言われぬマジカルで無敵なフィーリング。そんな風に頭の中でSMAPとロロをオーバーラップさせていたら、驚くべきことに、1曲目にして涙腺が崩壊してしまった。まずい、これは恥ずかしいぞ、と終始上向きでの鑑賞が始まります(涙がこぼれないように!)。島田桃子が担当した振り付けも見事にSMAPのグルーヴを踏襲していて、「統制のとれたダンス」というのから少しルーズに逸脱していて、フリーダムってやつを体現している。余談になりますが、ロロ男性陣における、野比のび太(三浦直之)が夢に見る、理想ののび太(亀島一徳)、理想のジャイアン(板橋駿谷)、理想のスネ夫(篠崎大悟)という藤子・F・不二雄感もまた超好きです。


『ひらひらの』においては、元SMAPの5人というのを演じてのステージだったわけだが、今回のステージはロロの板橋駿谷、望月綾乃、篠崎大悟、森本華、島田桃子として登場している。よく考えてみれば、ロロの面々が何かの役を演じるでなく、”本人自身”としてその身体を舞台上に晒すのを目にするのは初めてなのだ。パフォーマンスの途中、ロロメンバーが“あの頃”の思い出をそれぞれ連呼していくシーンが挿入される。それに耳をすませていると、舞台を観ているだけでは知りえないロロ固有の青春の一端に私たちは触れてしまう。たとえば「あぁ、板橋くんと望月さんはみんなより年上だから、他のメンバーからは”さん”づけで呼ばれているんだな」とか。そうすると、

あれから 僕たちは
何かを信じてこれたかなぁ

というフレーズが切実さをもって響いてしまうのだな。


ロロ5人がSMAPトリビュート曲を2曲披露した後、いよいよEnjoy Music Clubの3人が登場だ。自然体に緊張している感じがすごくいいぞ。「EMCのラップ道」ではロロメンバーも加わりラップをかます。森本華は板橋駿谷はラップも上手いのだ。とりわけ素晴らしかったのはEMCの3人とロロ女性陣3人が向かい合い、3組のカップルとなって歌う珠玉のメロウチューン「ナイトランデブー」だろう(個人的に1stアルバム『FOREVER』で1番好きな曲だ)。
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柿ピーみたいになりたい
僕が柿で
君がピー

というリリックは、今聞いてしまうと、思わず坂元裕二『カルテット』6話の松たか子宮藤官九郎をオーバーラップさせてしまうだろう。とりわけ胸を打ったのが、E+島田桃子ペアでして、Eさんの照れというか島田さんとまったく視線を合わせられない感じに、「この人、ホンモノだ!!」と大変興奮いたししました。楽曲が終わると、そのペアだけが残され、島田桃子がEに向けて「がんばってね」と声をかける。ここでの島田さんの発話もリアルと虚構が揺れていてまことに素晴らしい。島田桃子が舞台を去ると、EMCの衣装を脱ぎ、江本祐介が現れる。舞台上の高まりきったエモみを引き継ぐように、あの大名曲「ライトブルー」が披露される。
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このMVさながらに、いわきっ子達が続々と登場し、学校生活での所作をダンスへと変容させていく。その舞いは、直視できぬほどの眩しさを纏った青春の可視化だ。もうここらへんで、上向きに観ていようとも零れる涙。更に、ロロ主催の三浦直之が登場し、ライムをかます。

ベイベー
未来はいつも
100%楽しいから

ついに初披露された「100%未来」は、この度高校生活にピリオドを告げたいわきっ子たちの未来を照らすようだ。ロロ、EMC、いわきっ子、そしてこのパフォーマンスを目撃した観客のこれまでとこれからが交差して、重なり合って、音楽が鳴ることの素晴らしさ。あらゆる分断を乗り越え、混ざり合っていこうという希望の音楽だった。

アイラブユーってゆうかダンスウィズミー
ボーイミーツガールだけじゃもう足りない
ミーツミーツミーツ
出会った 君あなた
僕と私 あの鐘を鳴らそう


ロロ+EMC「ミーツミーツミーツ」


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