青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

チョ・クァンジン『梨泰院クラス』

f:id:hiko1985:20200829225403j:plain
『愛の不時着』から『梨泰院クラス』という実にありきたりなルートを歩んだわたしは今、あのイガグリ頭が目に焼き付いて離れないのである。『梨泰院クラス』というドラマを駆動させているのは“土下座”であるからして、”頭”というのは重要なモチーフとなっている。パク・セロイというキャラクターを象徴するあのイガグリ頭。2年後、7年後、4年後・・・というように鮮やかに時間軸を飛ばしていくドラマメイクの中で、登場人物たちのルックスやファッションもまた変容していくのだが、セロイの髪型だけは不変である。そして、セロイの頭を触る癖。照れ、気まずさ、悲しみ、怒りといった感情が込み上げた時、セロイはまず自らの頭を撫でる。また、他者への愛情表現を行う際も、相手の頭を撫でてあげる。

すごいな

と言ってイソの頭を撫でるシーンはこのドラマのアイキャッチとしてあまりに優秀で、世界中の人々がパク・ソジュンにハートを奪われたことは想像に難くない。このドラマにおけるもっとも素晴らしい”頭“を巡るシークエンスは7話だろう。セロイが自らの生い立ちに隠された真実、そして復讐の計画をイソに打ち明ける。セロイの膝に”頭を“置いて横たわったイソは、セロイの身体に刻まれた無数の傷に気づき、涙する。それがセロイの抱える悲しみの象徴であるかのように。

イソ「1人でつらかったでしょ」
セロイ「少しね」

そんな風にして2人の交感が果たされた帰りのバスの中でもまた、イソの”頭“はセロイの肩に置かれることになる。睡魔に負けてグラグラと揺れるイソの頭を愛おしそうに自らの肩に導くセロイ。『梨泰院クラス』において、心というのは”頭“にあるのかもしれない。であるから、セロイは頑なに土下座を拒み、ジッと前を見据える。


土下座を巡る物語である『梨泰院クラス』は、青春版『半沢直樹』というような紹介のされ方をしているようだ。しかし、このドラマを「痛快な復讐劇×青春群像劇」という風にレジュメしてしまうことに戸惑いを覚える。もちろんドラマの軸となっているのは、パク・セロイの長家への復讐、そしてセロイ、イソ、スアを巡る恋の三角関係だ。しかし、復讐の対象となる長家の会長チャン・デヒという存在がどうしても、前述のまとめを拒む。どういうことかというと、このドラマは「セロイとチャン・デヒの15年に及ぶ壮大なラブストーリー」であるように思えてしかたないのである。「俺が気になるんですね?」「信じていました」「ゴールはあんただ」「すごい男でした」「価値観は違えどもリスペクトしていました」「この闘いには価値があった」といったセロイがチャン会長に向ける言葉の瑞々しさ。なによりも、セロイは父を亡くして空っぽになった心にチャン会長への“復讐”の2文字を刻むことで、生きる気力を取り戻すのである。チャン会長もまた、病魔に犯され弱り切ったところ、セロイからの挑発によって生命力が湧き出していく。13話における電話でのそのやりとりが2人のハイライトと言えるだろう。

チャン「なんの用だ」
セロイ「聞きました_ガンを患ったと
    死ぬんですか?」
チャン「君は…」
セロイ「そんなにあっけなく死ぬなんて卑怯です
    天罰?冗談じゃない、罰は僕が下す
    まだ死ぬな」
チャン「(俺の生存を望む唯一の人が君とは…)面白い
    ああ…俺の最後の楽しみは君だ」
セロイ「近々 伺います」
チャン「長くは待てない 急ぐんだな」


ここに横たわっているのは“憎しみ”という感情かもしれない。しかし、互いの存在が生きることの意味となっていることは否定できないだろう。穂村弘という歌人の一首を想い出す。

こんなめにきみをあわせる人間は
ぼくのほかにはありはしないよ

この短歌は江戸川乱歩『人間彪』において、明智探偵が宿敵に向けて放った言葉からインスパイアされて作られたものだそうで、まさにセロイとチャン・デヒの関係性である。愛憎を超越した圧倒的な結びつき。ドラマを貫くこの感触が、『梨泰院クラス』を韓国映画やドラマの伝統ともいえる復讐劇や恋の三角関係というフォーマットに収まることを許さない。もちろん、セロイの長家への復讐はしっかりと果たされるのだけども、ドラマに流れるのは復讐というよりも”許し“のフィーリングだ。「人間は誰しも悪(弱いもの)である」という劇中でも登場する性悪説。そんな人間の”弱さ“や”ずるさ“を、「いいんだよ」「お前は悪くない」「理由があるんだろ」「俺に何をしてもいい」「お前が何をしようが俺は揺るがない」「逃げていい」というようにセロイはひたすらに許していく。そんなセロイの“許し”の積み重ねが、このドラマのメッセージの強度を高めていく。

自分は自分だから
お前はお前だから
他人を納得させなくていい

自分が人生の主体であり
信念を貫き通せる人生
それが目的です

セロイの経営する「タンバム」のメンバーは様々な“生きづらさ”を抱えた人々だ。ほぼすべての登場人物は孤児であり、またソシオパス、トランスジェンダー、元ヤクザ、婚外子、アフリカ系韓国人といったマイノリティである点が、ポリティカル・コレクトネスの観点からも称賛されている。そういった登場人物たちが、「誰からも阻害されることなく、自分の人生を生きる」ことを目指して社会と闘う様が、ドラマを観る者の胸を撃つ。


しかし、マイノリティであるから生きづらいのでなく、「生きるということは、誰しもおしなべてつらいものである」というのもこのドラマの主張だ。人生は往々にして苦い。しかし、誰にも時には”甘い夜”というのが訪れる。それは悲しみや寂しさから解放された、完璧で愛おしい時間。たとえば、セロイやスアと過ごしたハロウィンの梨泰院の夜。あんな時間をいつかもう1度過ごせますように。そして、みんなのに苦い夜が甘くなりますように、という祈りを込めて、セロイは自らの経営する飲食店を“タンバム「甘い夜」”と名付ける。


ドラマの中で最初に放たれる言葉というのはとても重要で、作品の方向性を指し示していることが多い。『梨泰院クラス』ではイソのカウセリングシーンから始まる。

カウンセラー「寝る前によく考えることは?
イソ「ちょっとヤバくて 変に思われるかも
   地球が…滅びればいいのにって」
カウンセラー「何か悪いことでもあったの?」
イソ「別にないけど、何か生きるのが面倒っていうか」
<中略>
カウンセラー「主にどういう時に思うの?」
イソ「いつもです。人生って同じことの繰り返しでしょ?」

そんなイソの人生観を変えるのがセロイである。「退屈な毎日でもいつかはときめくことが起きるかもしれないぞ」とセロイは説く。辛くて、悲しい日々の繰り返しの中でも、ときには甘い夜が訪れる。だからこそ、人は生きることを諦めないでいられるのだろう。


ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を手にしたイソが呟く。

イソ「分かる」
セロイ「何が?」
イソ「もし来世があるなら私は生まれてきたくなかった」
セロイ「どういう意味だ?」
イソ「生きるのってつらいでしょ
   すごくつらいのに
   会長(セロイ)に会ってからこの一節がすごくしみる」


“何度でもいい むごい人生よ もう一度”

『Nizi Project』の素晴らしさに寄せて

f:id:hiko1985:20200727233512j:plain
まさに一世風靡という感じの『Nizi Project』の素晴らしさに遅ればせながら打ちひしがれている。もしあなたが(数日前のわたしのように)まだこの番組に触れていないというのであれば、YouTubeで公式にアップされている#1をクリックすることをオススメする。これは単なるアイドルオーディション番組の域を超えた力のあるコンテンツだ。もし、#1を観終えたのであれば、そこに少しだけ余計な解説を添えることをお許しいただきたい。


この番組の主役と言ってしまっていいJ.Y.Park(TWICEや2PMを手掛けるなど韓国を代表するプロデューサー)がオーディションのはじまりに、自らの芸術観を語り出す。

人の見えないところを見えるようにするのが芸術です

これはスイスの画家パウル・クレーの「芸術とは見えるものを再現するのではなく、見えないものを見えるようにするものである」からの引用であろうし、もっとわかりやすく噛み砕くのであれば、サン=テグジュペリ星の王子さま』における「いちばん大切なものは、目には見えない」というキツネの言葉に呼応している。このJ.Y.Parkの信念は番組全体に貫かれており、たとえば、典型的な元気なアイドル像を演じてパフォーマンスをした練習生をこんな風にして諭すのだ。

自分自身がしっかりと感じて表現しているように感じません
僕たちはみんな一人ひとりの顔が違うように、一人ひとりの心、精神も違います。
見えない精神、心を見えるようにすることが芸術です

J.Y.Parkは「人の見えるところではなく、見えないところがはるかに大事だ」と語る。自分はこのオーディションを通じて、その人の持つ想い、心、性格といったものを歌やダンスで表現できる人材を探しているのだ、と。そんな挿話の後、「トン トン トン」という扉を叩く3回のノックと共に、ヒルマン・ニナという天使性を湛えた日米ハーフの美しい少女が現れるシーンはあまりに感動的だ。「扉をノックして入ってきたのはあなたがはじめて」とJ.Y.Parkが少しの戸惑いと共に賛辞を贈った後、少女は圧倒的な歌唱を披露する。あぁ、この少女が物語の主人公なのだと誰もが即座に理解してしまうだろう。当然のように、J.Y.Parkは彼女のパフォーマンスを称賛する。

あなたは完全にスターだと思う
あなたは、自分に対しての表現がはっきりしていると思う
芸術は自分自身を表現することだけど
大体の参加者たちはオーディションを自分の実力に対する評価だと思っている
そうじゃない!そんなコンテストではない
僕はただ、あなた自身の表現力が見たい

ニナは自分自身の表現をすでに会得している。であるから、J.Y.Parkは彼女自身のキャラクターがそのままパフォーマンスに現れていることを褒め称えるのだ。「誰かの真似をせず、自分の声で、表情で歌うこと」というのもこのオーディションを通じて何度もJ.Y.Parkが練習生に伝えるアドバイスの一つ。そして、彼は「わたしたちは誰もが特別な存在なんだ」と訴え続ける。そして、このオーディションに落ちたからといって、その特別性は一切損なわれないと。


さらにJ.Y.Parkは、歌手・アイドルというのは、“世界に自らを真似させるような”存在であるが故に、「常に嘘がなく、誠実で、謙虚でありなさい」と未来ある少女たちに説いていく。その目には見えない美しい精神性がパフォーマンスとして現れ、世界中に伝染していくのだと。まさに!それこそがポップミュージックの力だ。オーディションを勝ち抜いて結成されたNiziUのデビュー曲「make you happy」を聞くたびにわたしは涙ぐんでしまう。

youtu.be

Nothing ヒミツならNothing
Something 特別なモノあげるのに
どんなのがいい? 笑顔にしたいのに
That thing 探し出す キミのために

もう ねぇねぇ 何見て
何聴いて 幸せ?
話してみて すべてね

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

Gave me きれいな恋 Gave me
Held me 小さなこの手繋いで
大切よ ひとりきりにはさせないよ
Take me この私 全部あげたいの

バレバレのハート
私だけのカード
忘れずに そばに来て

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

Tell me Like OOH-AHH
FANCY me do not
be ICY I'm So Hot
no Good-bye Baby good-bye

Tell me Like OOH-AHH
FANCY me do not
be ICY I'm So Hot
no Good-bye Baby good-bye

キミがくれる安心
寄り添って 休めるための場所
光が満ちて Feel いつだって
夢見てるの一緒

完全Sweetなメロディー
本当に癒してくるセオリー
Put it on repeat 聴いて ずっと ずっと
You're my favorite song

Ooh I just wanna make you happy
あ~もう! 笑ってほしい
忘れちゃった笑顔も 大丈夫 ちゃんと取り戻して
その笑顔見てるとき ほんと幸せ
What do you want?
What do you need?
Anything
Everything
You, Tell me

拙いティーン・エイジャーの恋模様を隠蓑にしながら、ここで歌われているのは「ポップミュージックとわたしたち」の関係性そのものではにか。崇高な精神から放たれる音楽はいつだって、「ひとりきりにはさせないよ」と寄り添ってくれる。この行き先の見えない混沌とした2020年に、わたしたちの気持ちを軽やかかにリフトアップしてくれるヒットソングの誕生だ。*1



J.Y.Parkが共鳴するパウル・クレーが連作で描き続けてきた天使について。それは宗教性を帯びたものではなく、人間の“自己の変容”を表したものだと言われている。どこか未完成な様相のクレーの描く天使たちは、「より良い自分でありたい」というわたしたちの祈りのようだ。クレー自身もこんな言葉を残している。

私が表したいと思っている人間は、現にあるがままの姿では全然なくて、
“ありうるでもあろう”姿だけです

クレーの描く天使のイマージュ、それはまさにオーデイションを通じて絶え間ない努力で「もっといい自分へ」と成長を遂げていく彼女たちにピッタリとはてはまる。J.Y.Parkが「新人の瞳はこの世で最も美しいものの1つ」というように、より良くあろうする人間の懸命さは、なによりも観る者の胸を捉えるのだ。


最後に余談になるが、谷川俊太郎がクレーの描く天使たちに詩を添えた『クレーの天使』という本があるのだけども、クレーの描く天使の中で最も有名な「忘れっぽい天使」にはこんな詩が添えられている。

すぐそよかぜにまぎれてしまううたでなぐさめる

<余談>
『NIziProject』の細部の素晴らしさに言及できていないことに後悔がある。たとえば、オーディションにおけるベストパフォーマンスである若干15歳の天才ミイヒのWonder Girls「NOBODY」カバー。
youtu.be
これはもうデビュー当時の宇多田ヒカルの表現力に匹敵するではないか。


そして、もうひとつ。J.Y.Parkが口だけではなく、優れたアーティストであることのなによりの証左。Twiceに提供した「Feel Special」のセルフカバーパフォーマンス。これぞ、Asian Soulだ。
youtu.be

*1:今年度の新入社員と同行したときに車内で流れたこの曲に、「聞いていると元気になれますよね」と言った新入社員の衒いのない笑顔が忘れられない

パク・ジウン『愛の不時着』

f:id:hiko1985:20200724181311j:plain

<Intro>

アロマキャンドルやジャガイモを見かけるたびに、ヒョンビンのあの涙の滲むようなやさしさを思い出し、胸がいっぱいになってしまうのです。これが世に言う『愛の不時着』ロスというやつなのか。世界中で大ヒットを飛ばし、日本においてもNetflix視聴ランキング1位を独占し続けている『愛の不時着』にご多分に漏れずハマってしまった。テレビドラマの登場人物に想いを馳せるというこの感覚はいつ以来のことだろうか。主演陣はもちろんのこと脇役(あの愛すべき第5中隊と舎宅村の人々!)まで、誰もが好きにならずにはいられない人物造形の妙。全編を貫く“結ばれてはいけない2人”という哀しみのトーンを、絶妙に和らげる機知とユーモア。「帰りたい/帰りたくない」という二律背反の感情をベースにしたシンプルなドラマメイクで人間の複雑な感情を描き切る手腕にも脱帽だ。このドラマにおいては稀代の詐欺師すらやさしい気遣いを見せる。


韓国ドラマの純愛ラブストーリーと聞いて少し古臭いな敬遠する気持ちはわからなくもない。しかし、この『愛の不時着』は、その少し古びれたフォーマットの中で、王道のドラマメイクを研ぎ澄まし、細部をアップデートすることで、現代に“観るべき”テレビドラマに仕上がっている。もし未見の方がいるのならば、どうか重い腰を上げてみて欲しい。以下はネタバレになりますので、約80分×全16話という果てしなく長い道のりの果てに再会できることを祈りたい。

<間違えてもいい、ということ>

主人公であるユン・セリが経営するファッションブランドの名が「セリズチョイス」であることが示すように、『愛の不時着』というのは“選択”の物語だ。いや、選択の“誤り”についての物語といっていいかもしれない。韓国の財閥令嬢であるユン・セリがパラグライダーでの飛行中に竜巻に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまうところから物語は始まる。その第一発見者となるのが北朝鮮の軍人リ・ジョンヒョク。彼はユン・セリに韓国への帰り道を伝える。

まっすぐ行くと分かれ道が現れる
そこで右に行け

しかし、ユン・セリは自分の直感を信じて左の道を選び、韓国への帰路をどんどん外れていくことになる。こんな風にして、ユン・セリは何度も選択を誤り、北朝鮮から韓国に戻ることを困難にしていくのだけども、物語はそんな選択の誤りを「運命の人との出会い」として書き換えることで、優しく肯定していくのだ。5話においてユン・セリは”乗り間違い“だらけの自らの人生を

間違った電車が時には目的地に運ぶ

というインドの諺に擬え、自らとリ・ジョンヒクを鼓舞する。このやり取りが最終話において「乗る電車を間違えたんだ」というリ・ジョンヒョクの台詞としてリフレインし、2人の再会の呼び水となるという筆致の鮮やかさ!この『愛の不時着』というドラマをエモーショナルに駆動させるのは、いつでも“間違える“ということなのだ。


たとえば4話でのリ・ジョンヒクがアロマキャンドルと間違えて買ってきたロウソクのエピソード。間違えて購入したロウソクが停電時の灯りとして機能し、さらには今度こそ間違えずに買えたアロマキャンドルは、本来の機能を離れ、市場ではぐれてしまったユン・セリをリ・ジョンヒクのもとへ、まるで灯台のようにして導く光源となる。そして、以下のやりとりだ。

今回は香りすがするロウソクだ。合ってる?
合ってるわ

合ってないけど、合ってる。この台詞だけ抜き出してしまえばなんでもない言葉のやりとりの中に、複雑な感情が編み込まれ、”アイラブユー“と同義の響きさえもたらしてしまう巧みな脚本術は、今作のハイライトの一つに数えたい。


そして、“間違い”を肯定する物語は、様々な誤配と循環を生み出していく。ク・スンジュンがユン・セリへのプロポーズとして渡した指輪がソ・ダンへ。リ・ジョンヒクが兄へとプレゼントした腕時計がユン・セリからリ・ジョンヒクへ、と思いきやチョン・マンボクの元に。指輪を巡るエピソードにおいては、愛情の矢印がスライドしていくこと(別の誰かのために買った指輪で愛を誓うこと)すら許してしまっている。これらの誤配と循環を支えているのは、物語の中に何度も登場する質屋の存在と言っていいだろう。質屋が引き起こす巡り巡る運動は、ひとたび誰かに向けて放った気持ちは、周り回ってまったく別の誰かに届いてしまうかもしれないという、この残酷な世界に潜むささやかな希望を導き出している。たとえば、リ・ジョンヒクが兄のために、そして少女のために弾いたはずのピアノの音色が、自殺しようとしていたユン・セリに生きることを諦めない強さを与えてしまったように。こんな風に、間違えながらも、人と人は結ばれていく。だからこそこ世の中は、生きるに値するおもしろさを秘めているのだ。


<断ち切られてしまうものが一つもないように>

『愛の不時着』というドラマが世界中の人を魅了しているのは、劇中でもその名が挙げられるように『ロミオとジュリエット』、『織姫と彦星』といった“結ばれてはいけない2人”という古典的でありながらも、誰もが共感できるラブストーリーを踏襲しているからと言っていいだろう。いや、『ロミオとジュリエット』や『織姫と彦星』のみならず、『愛の不時着』はこの世のすべてのラブストーリーを焼き増ししていく。どこかで見たことがあるようなシーンの継ぎ接ぎ(=サンプリング)なのだ。

愛する人たちは再会できる
どんなに遠くにいても
最後には戻ってくる
愛は戻ってくる

大胆にもチェ・ジゥをサプライズ召喚し、韓国ドラマを代表するラブストーリー『天国の階段』(2003)の台詞を引用し、ストーリーの主題として響かせる態度からもそれが窺えるだろう。リ・ジョンヒョクとユン・セリの恋は、38度線という巨大な現実の前に何度も断ち切られそうにななる。しかし、断ち切ろうとする強い力に逆らい、何度でも結ばれていく。その2人の懸命さはまるで、この世の中に存在した「もう会えなくなってしまったすべての恋人たち」に捧げるかのようである。もうこの世界に断ち切られてしまうものが一つも存在しないように、2人は結ばれよう結ばれようと戦うのだ。


<“正しさ”を世界に伝染させる>

2人のラブストーリーは世界に影響を与えていく。韓国と北朝鮮という舞台ゆえに、2人の恋の行末に”統一“を重ねさせてしまうからというのは勿論なのだけども、『愛の不時着』のすばらしさは、そんな大きな物語に回収されることなく、小さな人間の営みが世界を変えていくというような感触が豊かに描かれている点にある。


リ・ジョンヒョクとユン・セリの営みの”正しさ“は、世界に伝染していく。たとえば、5話において寒空の下のユン・セリに自らのコートを掛けてあげるリ・ジョンヒク。その姿を遠方からたまたま見ていた、ク・スンジュンがそれまで邪険に扱っていたチョン社長と毛布を分け合うというあの何気ないシーンはどうだ。そして、「世界の音を聞く人」としての耳野郎の存在だ。恋路を盗聴する耳野郎ことチョンマンボクは、どんな苦境に立たされるようとも正しくあろうとする2人の態度に感化されていく。そして、耳野郎の存在は、2人の恋の行末を見守るわれわれドラマの視聴者と同義。このドラマを愛する者は後を絶たないだろう。リ・ジョンヒョクとユン・セリののやさしい眼差しのイメージは、いつまでも留まることなく広がっていくのだ。

シャムキャッツは”忘れていたのさ”

f:id:hiko1985:20200706204944j:plain

そうだよ 僕は忘れていたのさ

シャムキャッツの記念すべき全国流通盤『はしけ』の1曲目を飾っている楽曲は、執拗なまでに「忘れていたのさ」と連呼するのである。一体何を忘れてしまったのかは明言されないのだけど、彼らは、いや、“わたしたち”はたしかに何かを忘れている。わたしはなぜ生まれてきたのか、わたしはなぜ生きているのか、わたしはこれから何をすべきなのか・・・さっぱりわからない。この得体の知れない“欠落感”のようなものは、この世界に生きる人々の共通の切迫感だろう。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

とデビュー作である詩集『二十億光年の孤独』に収められたこの詩に若き谷川俊太郎は「かなしみ」と名付けている。しかし、シャムキャッツの「忘れていたのさ」という楽曲には切実さが微塵もない。曲調も構成もとにかくファニーで、ウォーミ―でオリジナル。あっけらかんとその欠落感を歌い上げる。

引き出しを
1つ 2つ 3つ 4つ目の奥と
5つ目の奥にも 6つ目は飛ばして
7つ目と8つ目の引き出しの奥に
大事なものを
入れておきたい気持ちを見つけたけれど
僕は忘れたふりして街に出た

あまつさえ、彼らはその忘れものを見つけても、また“忘れたふり”をしてどこかに出かけてしまうのだ。シャムキャッツのメインソングライター夏目知幸がインタビュー(https://www.cinra.net/report/201910-natsumetomoyuki_kawrk)にて

誰かが仕込んだことには加担したくない

というのが一貫したメッセージだ、という言葉を残している。まるで全人類にプログラミングされたかのような欠落の切実さにも、唾を吐くのだ。これがわたしにとってのロックバンド、シャムキャッツ


甘い気持ちで言うんだよ
ああ渚、これから何をしようが勝手だよ

という代表曲「渚」の一節のように、シャムキャッツが突然解散してしまった。1985年生まれの彼らとは同い年で、その時々に届けられる音源を同世代の現状報告のようにして受け取っきた節がある。“落ち着かないのさ”、 “うまくいってる?”、“GET BACK”、”なんだかやれそう”、”AFTER HOURS”、“Friends Again”、“このままがいいね”、“完熟宣言”・・・楽曲やアルバムのタイトルをこうして並べるだけで、この10年間の試行錯誤がありありと思い浮かぶと同時に、どれほどまでにシャムキャッツに勇気づけられてきたことかを思い知らされる。とてもとても寂しくて、言いたいことは山ほどあるけど言葉になっていきません。なのでただ「お疲れ様でした」という言葉を残したい。またいつか、中年の現状報告を聞かせて欲しいなって思います。

坂元裕二『スイッチ』

f:id:hiko1985:20200628141459j:plain

だんだん不思議な夜が来て あたしは夢の中へ
堕ちていく天使は 炎を見出してく


JUDY AND MARY「LOVER SOUL」

JUDY AND MARYの楽曲の挿話が『最高の離婚』(2013)を彷彿させる・・・などと列挙していたら限がないほどに、これぞまさに坂元裕二の集大成といった質感のドラマであった。社会から零れて堕ちていく人々を天使として描いてきた坂元裕二のドラマを象徴するように、ドラマは高層マンションの吹き抜けを上空から下降していくショットで始まり、天使であるところの主人公のひどく拗らせたナレーションから物語を進行させていく。そして、リーガルサスペンスとしながら、冒頭で真の犯人は星野七美(石橋静河)であると明らかにされ、ドラマのジャンル、そして善/悪の倫理感が混濁していく。善/悪のスイッチのシームレスな切り替えこそが、人間なのだ。『カルテット』(2017)ではそれを、「白黒つけられないグレー」と表現していたが、今作で言うならばカルピス。高濃度なカルピスの原液を水と氷で少しずつ薄めながら飲む様は、人間は誰しも原罪を抱えて生まれ、それと折り合いをつけながら生きていくということのメタファーのよう。もしくは青森名物である味噌カレー牛乳ラーメン。2つの色どころか、あらゆるものが混ざり合っている。


集大成という言葉を持ち出したくなってしまうのは、劇中内に登場する『ラブジャンクション』の存在も大きいだろう。坂元裕二自身の最大のヒット作である『東京ラブストーリー』(1991)をセルフパロディしてみせているのだ。いや、むしろ“書き換えた”と言っていいかもしれない。あのトレンディなラブストーリーの主人公たちに、バッグボーンを書き足してみせる。2人が恋に落ちる背景には、痛ましいトンネル崩落事故があって、そこには政治家の利権が関わった手抜き工事が関わっている・・・といったように。ラブストーリーを綴る際のこの筆さばきの変化を説明するには、是枝裕和との対談において語った以下の言葉の引用がふさわしいだろう。

男女がキスをしている後ろで車が燃えている写真を見たんです。ラブストーリーでも男女だけで成立するわけじゃない。社会で起きている色んなことが作用するし、逆に男女の間で起きていることが社会にも作用している。

テレビドラマの執筆を重ねる中で、ラブストーリーにすら密接に作用する社会というものに目を向けた坂元裕二は、イジメ、幼児虐待、少年犯罪、女性差別、震災、貧困・・・といったこの世界の負の側面をドラマに組み込んでいくこととなる。そして、ある一つの結論に辿り着く。ドラマのみならず朗読劇、演劇といったここ数年の作品群においては、“そのこと”を作劇に繰り返し忍びこませている。『スイッチ』では以下のように。

直「今回だって赤の他人じゃん。赤の他人に共感して、勝手な正義を振りかざして」
円「でもさ、ほっとけないじゃん。
  私自身のことだもん。
  誰かがどこかで嫌な思いするのって全部繋がってて・・・
  Wi-Fiみたいに繋がってててさ
  <中略>彼女がされたことって、わたしたちがされたことじゃない!」

この「彼女がされたことって、わたしたちがされたこと」というのが、坂元裕二がドラマで社会を描き続けた中で辿り着いた真理だ。そんな最も伝えたいであろう言葉が、カラオケボックスの中で、店員に邪魔されながら交わされていくという“抜け感”に、坂元裕二の余裕を感じる。いや、もしかしたらあまりに何度も同じことを書き続けていることに少しの照れがあるのかもしれない。少し列挙してみよう。

誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。


『不帰の初恋、海老名SA』より

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。


『不帰の初恋、海老名SA』より

世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる、と実証されました。メキシコで起きている問題は、日本の食卓にも影響を及ぼすのです。


カラシニコフ不倫海峡』

この世界には理不尽な死があるの。
どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの。


カラシニコフ不倫海峡』より

俺もあいつも同じ道歩いてて、1人だけ穴に落ちたんだ。
どっちが落ちても不思議じゃなかった。
あいつがしたことは、俺がするはずだったことかもしれないんだ。


『anone』より

これほどまでに何度も何度も言葉を変えてまで、坂元裕二は伝えようとしている。「なぜわかろうとしないのだろう。そこで傷ついているのは、すべて“わたしたち”だったかもしれないのに」と、距離のある出来事に黙り込んでしまう無関心に警鐘を鳴らしているのだ。


この“わたしたち”という連帯の響きは、『スイッチ』において、「離れたいけど、離れられない」という不可分な関係性の円(松たか子)と直(阿部サダヲ)というキャラクターを生み出すこととなる。「LOVER SOUL」の歌詞に倣うなら

あなたと2人で このまま消えてしまおう
今 あなたの体に溶けて ひとつに重なろう

というような関係。2人は恋人関係を解消した後も、仕事で顔を合わせ、さらには互いの恋人を紹介し合うという奇妙な会を催してまで繋がり続ける。そんな “離れても、再び戻ってくる”という2人の関係を表すように、ドラマは円環のイメージで彩られている。中華料理店の回転テーブル(人に話す価値のある蘊蓄ではない)、時計(止まってる時計と1分狂ってる時計)、観覧車(入口と出口が同じ)、ピザ(ゴレンのつくものはない)・・・そして、何よりも松たか子の役名が“円(まどか)”なのである。

社会からひどい目に遭わされた人は
死ぬ前にすることがあるでしょ?
怒るんですよ
鮭だって時には熊を襲うでしょ!?

というのは『anone』(2018)の台詞だが、この世界の理不尽さに対しては、反撃の狼煙を上げてよいというのがここ最近の坂元裕二作品の特徴だ。そして、それはたとえどんなにイリーガルなやり方であろうとかまわない。鳩に刑法が適用できないのと同じことだ、というように。『anone』においては”偽札作り””であったそれは、この『スイッチ』では””殺人”である。円は弁護士でありながら、理不尽な死に対して、明確な殺意でもって抗おうとする。哀しみで結びついた“わたしたち”の心が死なないように。

なんで親を殺された彼女が逮捕されて、殺したほうがヘラヘラ笑ってるの?
警察も検察も何もしないんだったら、誰かが代わりにやるしかないでしょ?
わたしがやらなかったら誰がやるの?
誰もやらないことは誰かがやるしかないでしょう

殺人を決意した円が「やるしかないな、ね?」とベランダの鳩に問いかけるシーンは出色。「鳩にふるう暴力はどんなにふるってもふりすぎということにはなりません」とまで言ってのける女が、理不尽な死の前では苦手な鳩とさえ連帯してみせるのだ。


しかし、そんな円の倫理観の歪みに、眉をひそめる者もいるかもしれない。しかし、芸術表現における美しさや素晴らしさと倫理というものは両立しないのだ。直や曽田(井之脇海)が宮崎駿の最高傑作だという『空飛ぶゆうれい船』(1969)のビル破壊シーンはどうだろう。そこにいくつかの死が含まれていようと我々はその破壊にカタルシスを覚えるはず。同じく直と曽田が宮本茂の最高傑作であるとする『ピクミン』は、無数のピクミンの死を積み上げてクリアしていくことに快感を覚えるゲームだ。いや、もっと小さな悪行でもいい。遺族年金を使ったカラオケでのデュエット、自転車を2人乗りしながら警官に「イェーイ」と親指を下に向けてみせる円(出口夏希)のあの表情はどうか。音を立ててカルピスを飲むという行為でもって結び付く直(醍醐虎太郎)と円の交感。あれらの美しさの前に、道路交通法やマナーを持ち出して咎めるのが正しさなのか。いや、むしろあれらの行為は罪の香りがするからこそ、美しさが際立っていると言っていい。余談にはなるが、直の少年時代を演じた醍醐虎太郎が、同じく倫理観の欠如を批判された美しき物語『天気の子』(2019)の主人公の声を担当していた役者、というのはただの偶然ではないように思う。

いい人は天国に行ける
でも、悪い人はどこにも行ける

という台詞まで飛び出すわけだが、何も坂元裕二は犯罪を推奨しているわけではない。人間は愚かで醜く悲しい生き物。そのことに目を背けずに、それでもその欠落を埋めようと他者と結びつこうとする“懸命さ”がこそ、人の愛おしさだ。どんなに大きな迷惑をかけられようとも

君が(あなたが)いる人生で
おもしろくてよかった

と互いの存在を肯定し合い、セックスの代わりに一つの毛布に包まる直と円。

僕はみなさんのちゃんとしていない所が好きなんです
たとえ世界中から責められたとしても
僕は全力でみんなを甘やかしますから

という『カルテット』の台詞を思い出すとともに、今作の言葉を借りるのであれば

アンパンは潰れてるやつの方が美味しいのに

これが、恋と社会を描き続けてきたドラマ脚本家・坂元裕二の、人間に対する認識の現状報告なのである。