青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『スイッチ』

f:id:hiko1985:20200628141459j:plain

だんだん不思議な夜が来て あたしは夢の中へ
堕ちていく天使は 炎を見出してく


JUDY AND MARY「LOVER SOUL」

JUDY AND MARYの楽曲の挿話が『最高の離婚』(2013)を彷彿させる・・・などと列挙していたら限がないほどに、これぞまさに坂元裕二の集大成といった質感のドラマであった。社会から零れて堕ちていく人々を天使として描いてきた坂元裕二のドラマを象徴するように、ドラマは高層マンションの吹き抜けを上空から下降していくショットで始まり、天使であるところの主人公のひどく拗らせたナレーションから物語を進行させていく。そして、リーガルサスペンスとしながら、冒頭で真の犯人は星野七美(石橋静河)であると明らかにされ、ドラマのジャンル、そして善/悪の倫理感が混濁していく。善/悪のスイッチのシームレスな切り替えこそが、人間なのだ。『カルテット』(2017)ではそれを、「白黒つけられないグレー」と表現していたが、今作で言うならばカルピス。高濃度なカルピスの原液を水と氷で少しずつ薄めながら飲む様は、人間は誰しも原罪を抱えて生まれ、それと折り合いをつけながら生きていくということのメタファーのよう。もしくは青森名物である味噌カレー牛乳ラーメン。2つの色どころか、あらゆるものが混ざり合っている。


集大成という言葉を持ち出したくなってしまうのは、劇中内に登場する『ラブジャンクション』の存在も大きいだろう。坂元裕二自身の最大のヒット作である『東京ラブストーリー』(1991)をセルフパロディしてみせているのだ。いや、むしろ“書き換えた”と言っていいかもしれない。あのトレンディなラブストーリーの主人公たちに、バッグボーンを書き足してみせる。2人が恋に落ちる背景には、痛ましいトンネル崩落事故があって、そこには政治家の利権が関わった手抜き工事が関わっている・・・といったように。ラブストーリーを綴る際のこの筆さばきの変化を説明するには、是枝裕和との対談において語った以下の言葉の引用がふさわしいだろう。

男女がキスをしている後ろで車が燃えている写真を見たんです。ラブストーリーでも男女だけで成立するわけじゃない。社会で起きている色んなことが作用するし、逆に男女の間で起きていることが社会にも作用している。

テレビドラマの執筆を重ねる中で、ラブストーリーにすら密接に作用する社会というものに目を向けた坂元裕二は、イジメ、幼児虐待、少年犯罪、女性差別、震災、貧困・・・といったこの世界の負の側面をドラマに組み込んでいくこととなる。そして、ある一つの結論に辿り着く。ドラマのみならず朗読劇、演劇といったここ数年の作品群においては、“そのこと”を作劇に繰り返し忍びこませている。『スイッチ』では以下のように。

直「今回だって赤の他人じゃん。赤の他人に共感して、勝手な正義を振りかざして」
円「でもさ、ほっとけないじゃん。
  私自身のことだもん。
  誰かがどこかで嫌な思いするのって全部繋がってて・・・
  Wi-Fiみたいに繋がってててさ
  <中略>彼女がされたことって、わたしたちがされたことじゃない!」

この「彼女がされたことって、わたしたちがされたこと」というのが、坂元裕二がドラマで社会を描き続けた中で辿り着いた真理だ。そんな最も伝えたいであろう言葉が、カラオケボックスの中で、店員に邪魔されながら交わされていくという“抜け感”に、坂元裕二の余裕を感じる。いや、もしかしたらあまりに何度も同じことを書き続けていることに少しの照れがあるのかもしれない。少し列挙してみよう。

誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。


『不帰の初恋、海老名SA』より

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。


『不帰の初恋、海老名SA』より

世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる、と実証されました。メキシコで起きている問題は、日本の食卓にも影響を及ぼすのです。


カラシニコフ不倫海峡』

この世界には理不尽な死があるの。
どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの。


カラシニコフ不倫海峡』より

俺もあいつも同じ道歩いてて、1人だけ穴に落ちたんだ。
どっちが落ちても不思議じゃなかった。
あいつがしたことは、俺がするはずだったことかもしれないんだ。


『anone』より

これほどまでに何度も何度も言葉を変るほどに、坂元裕二は伝えようとしている。「なぜわかろうとしないのだろう。そこで傷ついているのは、すべて“わたしたち”だったかもしれないのに」と、距離のある出来事に黙り込んでしまう無関心に警鐘を鳴らしているのだ。


この“わたしたち”という連帯の響きは、『スイッチ』において、「離れたいけど、離れられない」という不可分な関係性の円(松たか子)と直(阿部サダヲ)というキャラクターを生み出すこととなる。「LOVER SOUL」の歌詞に倣うなら

あなたと2人で このまま消えてしまおう
今 あなたの体に溶けて ひとつに重なろう

というような関係。2人は恋人関係を解消した後も、仕事で顔を合わせ、さらには互いの恋人を紹介し合うという奇妙な会を催してまで繋がり続ける。そんな “離れても、再び戻ってくる”という2人の関係を表すように、ドラマは円環のイメージで彩られている。中華料理店の回転テーブル(人に話す価値のある蘊蓄ではない)、時計(止まってる時計と1分狂ってる時計)、観覧車(入口と出口が同じ)、ピザ(ゴレンのつくものはない)・・・そして、何よりも松たか子の役名が“円(まどか)”なのである。

社会からひどい目に遭わされた人は
死ぬ前にすることがあるでしょ?
怒るんですよ
鮭だって時には熊を襲うでしょ!?

というのは『anone』(2018)の台詞だが、この世界の理不尽さに対しては、反撃の狼煙を上げてよいというのがここ最近の坂元裕二作品の特徴だ。そして、それはたとえどんなにイリーガルなやり方であろうとかまわない。鳩に刑法が適用できないのと同じことだ、というように。『anone』においては”偽札作り””であったそれは、この『スイッチ』では””殺人”である。円は弁護士でありながら、理不尽な死に対して、明確な殺意でもって抗おうとする。哀しみで結びついた“わたしたち”の心が死なないように。

なんで親を殺された彼女が逮捕されて、殺したほうがヘラヘラ笑ってるの?
警察も検察も何もしないんだったら、誰かが代わりにやるしかないでしょ?
わたしがやらなかったら誰がやるの?
誰もやらないことは誰かがやるしかないでしょう

殺人を決意した円が「やるしかないな、ね?」とベランダの鳩に問いかけるシーンは出色。「鳩にふるう暴力はどんなにふるってもふりすぎということにはなりません」とまで言ってのける女が、理不尽な死の前では苦手な鳩とさえ連帯してみせるのだ。


しかし、そんな円の倫理観の歪みに、眉をひそめる者もいるかもしれない。しかし、芸術表現における美しさや素晴らしさと倫理というものは両立しないのだ。直や曽田(井之脇海)が宮崎駿の最高傑作だという『空飛ぶゆうれい船』(1969)のビル破壊シーンはどうだろう。そこにいくつかの死が含まれていようと我々はその破壊にカタルシスを覚えるはず。同じく直と曽田が宮本茂の最高傑作であるとする『ピクミン』は、無数のピクミンの死を積み上げてクリアしていくことに快感を覚えるゲームだ。いや、もっと小さな悪行でもいい。遺族年金を使ったカラオケでのデュエット、自転車を2人乗りしながら警官に「イェーイ」と親指を下に向けてみせる円(出口夏希)のあの表情はどうか。音を立ててカルピスを飲むという行為でもって結び付く直(醍醐虎太郎)と円の交感。あれらの美しさの前に、道路交通法やマナーを持ち出して咎めるのが正しさなのか。いや、むしろあれらの行為は罪の香りがするからこそ、美しさが際立っていると言っていい。余談にはなるが、直の少年時代を演じた醍醐虎太郎が、同じく倫理観の欠如を批判された美しき物語『天気の子』(2019)の主人公の声を担当していた役者、というのはただの偶然ではないように思う。

いい人は天国に行ける
でも、悪い人はどこにも行ける

という台詞まで飛び出すわけだが、何も坂元裕二は犯罪を推奨しているわけではない。人間は愚かで醜く悲しい生き物。そのことに目を背けずに、それでもその欠落を埋めようと他者と結びつこうとする“懸命さ”がこそ、人の愛おしさだ。どんなに大きな迷惑をかけられようとも

君が(あなたが)いる人生で
おもしろくてよかった

と互いの存在を肯定し合い、セックスの代わりに一つの毛布に包まる直と円。

僕はみなさんのちゃんとしていない所が好きなんです
たとえ世界中から責められたとしても
僕は全力でみんなを甘やかしますから

という『カルテット』の台詞を思い出すとともに、今作の言葉を借りるのであれば

アンパンは潰れてるやつの方が美味しいのに

これが、恋と社会を描き続けてきたドラマ脚本家・坂元裕二の、人間に対する認識の現状報告なのである。

ぼる塾チャンネルを観よう

f:id:hiko1985:20200428164547j:plain
自粛疲れなのかSNSが荒ぶっている。たしかに気疲れはしていて、せっかくのあり余った時間に有意義なことができない。あんなに好きだったドラマや映画さえ観る気が起きない。そんな時はぼる塾のYouTubeチャンネルを観よう。ぼる塾というのは、しんぼると猫塾という吉本興業所属の2組の女性コンビが合併して結成されたカルテットである。猫塾の酒寄さん(上記画像右端)が産休に入ったため、劇場やテレビなどには3人で出演している。コンビでの活動停止を余儀なくされたメンバーへの救済という感じで、これぞ新時代の女性の働き方ではないか!と思いきや、合流した理由は「仲が良いから」「4人の方が楽しいから」とのこと。すごく素敵だ。


そんな彼女たちがゲームに興じたり、散歩したり、お弁当やお気に入りのお菓子やコンビニスイーツを食べるだけの他愛のない動画がたまらなく心地いいのです。

ぼる塾結成パーティー:前編
ためしに結成パーティーの動画を観て欲しい。あんり(左から2番目)が漬け込んできた2キロの鶏肉をせっせと揚げ、唐揚げの油で顔がテカテカになっているあんりに小学校からの幼馴染みであるはるか(左端の邪気の抜けた平手友梨奈)がカンチョーとちょっかいを出し、そんな火元でふざける様子を田辺さん(右から2番目)が注意する。そして、時折聞こえて来る酒寄さんの子どもの泣き声。これはもうほとんど日常系アニメではないか。気を衒っていないところがウケていた彼女たちのYouTubeチャンネルだが、こういった親密さを湛えた風景が失われてしまった今、このコンテンツの強度はさらに高まっている。

【お湯入れてから】一緒にカップ麺を食べる動画【再生】
それなりに寂しい毎日。彼女たちがカップラーメンにお湯を注ぎ3分待ち食べるだけの動画を観ながら、一緒に麺でも啜ってみようかなと思う。

余談になるが、わたしがぼる塾を一発で気に入ってしまった理由は、彼女たちのルックスが劇団ナカゴーに客演していそう感100%であるからではないか、と気づきました。
f:id:hiko1985:20200428164600j:plain
こちらが、ナカゴーの出演者紹介の画像。ルックスというよりも、この被写体としての在り方が、ぼる塾と鎌田順也作品を強く結びつけてしまう。

鈴木おさむ『M 愛すべき人がいて』1話

f:id:hiko1985:20200423220512j:plain

あの日も海を見ていたな

というドラマ冒頭での安斉かれんの発話。おそらく浜崎あゆみの鼻にかかった声色のモノマネなのだろうけど、あまりにも特別なヴォイスではないか。その不思議な響きは、

そこは巨大な宇宙船の中のようだった
たくさんの夢を乗せてる宇宙船

といったポエジーなモノローグを見事に乗りこなす。そして、「いつかこの船にダイヤの原石が必ず乗ってくる」というマサの台詞でもって、六本木ベルファインを”船”と捉えているアユとマサの強い結びつきが提示されている。


後に時代を代表する歌姫となるアユのヴォイスの持つ”秘密のヘルツ”は、今はまだ誰もが受信できるわけではない。たとえば、六本木ベルファインのフロアでの「わたしも連れてってください」というアユの声を、流川(北浜亜蓮)はなかなか聞き取ることができない。そこで登場するのが、時代の声に耳を澄ませ、巨大な成功を掴む男・マサ専務(三浦翔平)だ。

俺は神様なんかじゃねぇ
でもなぁ、神様からのメッセージは届く

という台詞にもあるように、彼はおそろしく優れた耳を持っている。そんな聴覚の長けたマサに、

わたしの目の代わりになるって言ってくれたよね

と眼帯をして視覚を要求する秘書(田中みな実)の恋は、どうしても分が悪い。マサは「思った通りだ 声質は悪くない」とアユのヴォイスの素質をかぎわけ、ダイヤの原石として彼女のプロデュースを決意する。このマサの聴覚を巡る1話において、なんと言っても感動的なのがラストシーンだろう。眼帯秘書の策略によって、マサとの待ち合わせ場所への入店を拒まれたアユ。店前で途方に暮れながらも歌い出す。壁の向こうにいるはずのたった1人に、想いを伝えるために。そして、おそろしく優れた聴覚でもって、マサはさまざまな障壁越しの歌声をしっかりとキャッチしてしまう。アユはマサからの「元気か?」という電話を神様からのメッセージと捉え、マサはアユの遠くから響く歌声を神様のメッセージとして受信する。互いを神聖化していく破滅型の恋物語の始まりだ!


大映ドラマへのオマージュはさんざん言及されているが、『半沢直樹』をはじめとする池井戸潤ドラマのグルーヴもあるし、安斉かれんは往年の浅野温子のエキセントリックさとトレンディを香わせ、三浦翔平の演技はところどころに木村(拓哉)の影響を濃厚に感じさせる。とにかくもうテレビドラマの記憶のごった煮。お腹を壊すこと必至だ。とくに、マサの木村っぷりはもう枚挙に暇がないので、ぜひ皆さんで探してみてください。わたしのお気に入りは、輝楽天明に「僕の時代を見抜くセンス、インスピレーション、舐めてる人?」と聞かれて、「いや、そういうわけじゃなくて」と言いながら目をつむってコメ噛みをかく木村なマサです。

森下佳子『義母と娘のブルース』

f:id:hiko1985:20200109232800j:plain
これは、亜希子(綾瀬はるか)がすべての孤児の母であらんとする物語だ。かつて孤児であった亜希子は、これからひとりぼっちになってしまうかもしれない少女みゆき(横澤菜帆、上白石萌歌)の義母となるべく、良一(竹野内豊)との契約結婚を決意する。亜希子はみゆきの母となることで、みゆきだけでなく、孤児であった自分自身も救おうとしている。そして、「2020年謹賀新年スペシャル」*1が、店先に捨てられた赤ん坊から物語が始まっていくことからも、このドラマが“孤児”を、いやすべての“孤独な魂”を救おうとしていることが伺えるだろう。


孤児であった亜希子は、一人で生きていくためにキャリアウーマンとして武装してきた。仕事一筋で過ごしてきたために常識に疎く、世界からズレた人間として描かれている。その“ズレ”を単なるコメディに落とし込むのでなく、そのズレが故に愛が芽生えていく様を映し出している点が非常に感動的だ。余命宣告を受け生きる意志を失っていたはずの良一が、亜希子の作ったどこまでもズレきったキャラ弁当を見て、「生きたい」と願ってしまうシーン。

このまま生きていれば
信じられないような楽しいことが
きっとたくさんあるんだろうなと思うと
死にたくないです
亜希子さんと出会ってそう思いました

亜希子は物語の中で、そのズレを矯正されることなく、ズレきったままにその魂を世界から祝福されてしまう。たとえそれがどんなに歪でも、わたしたちの固有性は美しい。だからこそ、“愛”は赤の他人との間にもいとも簡単に芽生える。その愛は、血の繋がりなんてものを容易く超える強さがあるのだ。


良一の死から10年後、亜希子は別の人物から再び愛の告白を受けることとなる。物語の序盤からバイク便、花屋、タクシー運転手、廃品回収、霊柩車ドライバーと姿を変えながら何度も物語に映り込みながらも、一切介入してこなかった麦田佐藤健)である。素晴らしいのは、麦田はたまたまそこに“居た”だけなのだ、というこのドラマの話法である。ありきたりなドラマであれば、麦田には何かしらの意図や目的があり亜希子の周りをうろついており、その伏線が後半に向けて怒涛の回収をされていくというような話法になるはずなのだが、麦田は本当にただ居合わせていただけなのだ。意図から解放された麦田というキャラクターの生々しい質感(そして、佐藤健の絶妙な軽さ)。そして、亜希子は居酒屋の客席を見合わせて言う。

“奇跡”だと思いまして
ひょっとしたらわたしはあの方から何か物を買ったかもしれません
あの方とは同じ郵便局でボールペンを譲り合ったかもしれません
そんな風に
わたしたちは知らないうちに知り合っているものなのでしょうが
でも、実際それがお互いにわかるなんて
何万分の一の確率なのかと
つまり店長はわたしにとって小さな“奇跡”ということです

この対話が、船を模したデザインの釣り堀居酒屋で為されたことに注目したい。
f:id:hiko1985:20200109233049j:plain
ひとりぼっちの“わたしたち”は、それでも同じ船に乗っているのだ、ということ。孤児の物語である『義母と娘のブルース』は、親と子の無償の愛を描くだけでなく、出会わなかった人のことすら愛おしいと想わせてくれるドラマだ。

もし私の人生を歌にしたとすれば
それはきっとブルースだ
お別ればかりのブルース
別れなんて来ないほうがいいに決まってる だけど…
別れたからこそ巡り会える人もいる
曲がらなかったはずの曲がり角を曲がると
歩かなったはずの道がある
そこにはなかったはずの明日がある
その先には出会わなかったはずの小さな奇跡が

まさに、「さよならだけが人生だ」である。突飛な設定、漫画的キャラクター、コミカルな演技、心情と過剰なまでに動機したサウンドトラック・・・一見すると視聴者に媚びた安っぽいドラマなのだが、『逃げるは恥だが役に立つ』(2016)、『カルテット』(2017)に続く「TBS火曜ドラマ」というブランドを底上げする傑作*2。リアルタイムで鑑賞できなかったことをおおいに悔やみます。そして、陽だまりのような竹野内豊と横澤菜帆と上白石萌歌のしかめっ面に100%の賛辞を。

*1:本編に比べるといまいち

*2:2019年はここに『G線上のあなたと私』が連なる