
地味な映画だ。なんたって舞台は朝霞台である。朝霞台というのはあと数駅で東京という埼玉のベッドタウンで、暮らすためだけの街。その他にも聞こえてくる地名は、池袋に練馬に新座などであって、これは池袋駅を起点とした東武東上線と西武池袋線の映画なのだ。 “銀座”という土地に尻込みし、たまの贅沢には池袋のメトロポリタンで食事をして、プレゼントは西武デパートで買う。そんな慎ましく暮らす市井の人々のフィルムということだ。ユニクロ、ニトリ、チチヤスのミルクコーヒー・・・劇中に登場する固有名詞も、ことさらに“庶民であること”をアピールしてくる。しかし、それ以上に堺雅人と井川遥の身体性に、暮らしている人としての説得力がある。印刷会社に勤め、出勤前に焼いた卵焼きを弁当箱に詰めていく。入りきらなかった卵焼きの残りを、その場で立ったままにパクっと口に頬張る。その頬張りの滑らかさ、速さにグッときてしまった。あの「パクっ」に、“営み”というか“生きていくこと”が表出されているように思う。井川遥の待ち合わせでの「よっ」という2人の心の距離感を表しきつわた手の挙げかた。ラブシーンも抜群に素晴らしく、臭くなってしまったという髪の毛の匂いを「どれどれ」(堺雅人の最高の発話!)と嗅ぐことを口実にして、ぎこちなく身体の距離を縮めようとする。そして、時空を超えてくり返される、キスをする踏ん切りがつかずに、首に鼻を近づけるという所作。あのむず痒くも、切実なアクション。余談になるが、どちらもこの映画の主題歌「いきどまり」を提供した星野源の楽曲「くだらないの中に」の“髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさなってふざかったり”“首筋の匂いがパンのよう すごいなって讃えあったり”を想起せずにはいられないだろう。
丁寧な生活の描写の一方で、物語が内視鏡検査から始まるように、この映画には老年のブルースというやつが色濃い。離婚、介護、DV、アルコール中毒、若い燕飼い、金銭問題・・・生きていくことの過酷さ。しかし、それが前景化しすぎることなく、当たり前のこととして刻まれていている。この前景化しなさは、いつも2人を見つめているかのように空に漂う“月”の存在が大きいだろう。クローズアップすれば当人たちにしてみれば、前述したとおりにそれなりに過酷でドラマチックな人生を送っているのだけども、月からのまなざしのように、あくまでロングショットで、“ありきたりなもの”として描いていて、その距離感がこの映画の心地良さだろう。抜群の存在感を示す居酒屋の大将である塩見三省もまた、“月”として撮られており、独特の距離感で主演の二人を見つめている。
この距離感は主演2人の演技メソッドからも感じられ、「お前、あのとき何考えてたの?」 「夢みたいなことだよ。夢みたいなことをね、ちょっと」というこの映画の象徴的なシーンを思い出してみても、どこか身体や感情から乖離したような独特の発話性がある。観る人によっては、棒読みとか一本調子と評される類のものなのかもしれないが、あそこにこそこの映画のトーンみたいなものが刻まれているように思う。
“月”の映画でありながら、禁欲的なまでに満月は終盤に一度だけしか登場しない。対照的に画面に現れる半月や三日月は、歳を重ね、あらゆるものを失ってきた2人のメタファーだ。“互助会”と名付けた二人の支え合いは、その欠けたピースを埋め合うかのようである。たった一度だけ劇中に登場する満月は、若かりし10代の頃の、切実で甘やかな想い出と共にある。補導されるそうになり警察からの逃走、そして、満月に照らされながら自転車を二人乗りする。この“自転車二人乗り”という、実に些細な罪の香らせ方がいい。時空を越えて二度繰り返されるこの罪の匂いが、“清濁併せ吞んだ大人の恋愛映画”というフィーリングを支えている。

月夜の下で二人乗りした自転車、その車輪の“円形”に満月は息づいている。であるから映画の中で、青砥(堺雅人)はひたすらに自転車を漕ぐ。青砥の人生を前に進めている車輪は、あの時の満月なのだ。もしくは、”生きる希望”としてのカレンダーの12月20日につけた“マル”もまた満月だろう。半年健診の日に須藤(井川遥)が作ったオムライスの卵は、満月のように黄色く真ん丸に焼かれるはずが、盛大に失敗しボロボロになる。ここに満月の崩壊が、その後の2人の運命を予感させる。こういった目には見えない運動が映画にはしっかりと息づいていて、監督である土井裕泰の確かな手腕を感じる。
この中年のラブストーリーを映し出した映画は、歳を重ねて欠けていくことを憂う作品ではない。その失い続ける過程の中で、「これだけは残そう」「それだけを持って死のう」と思えるもの、その眩いばかりの輝きについての、地味ながらも上質なフィルムである。