青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『anone』4話

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私の名前はアオバ 苗字はない
この世に生まれてこなかったからだ
幽霊っていうのとは少し違うけど
まぁ そう思ってもらえるのが一番手っ取り早い

いきなりの”幽霊”の登場である。低視聴率のテコ入れとして、急遽挿入されたであろう「3話までのダイジェスト」という配慮を、台無し *1 にするような突拍子もない導入。「こんな人いるわけない」「こんな職場あるわけない」「こんな展開ありえない」というように、昨今のテレビドラマの視聴者はこれまで以上に、”リアリティ”や「あるある」に近い共感を求める傾向にあるように思う。そんな中において、伏線なしの幽霊は、どう考えてもそっぽを向かれてしまうのは自明。しかも、幽霊は冒頭のように、我々に向かって話かけてくる確固たる存在なのだ。高視聴率は望めないだろう。しかし、そのような語り方でなければ紡げないものというのがあって、それは世界の在り様すら変革させてしまうような力を持っている。ハリカ(広瀬すず)のスケートボートに描かれたイラスト「忘れっぽい天使」の作者であるパウル・クレーはこんな言葉を残している。

芸術とは見えるものの再現ではなく
見えないものを見えるようにすることだ

見えないもの(ex.幽霊)を見えるようにすること。坂元裕二がテレビドラマというフィールドで挑もうとしているのは、詩や短歌、絵画といったような芸術が担っていた領域なのではないだろうか。



<幽霊がいるということ>

るい子(小林聡美)とアオバ(蒔田彩珠)は仲良し親子だ。友達のように気が合い、ときに互いを分身のようにして*2、いつも一緒にいる。ただ普通と違ったのは、アオバはこの世に存在していないということ。彼女は、るい子の”生まれることのなかった”娘なのだという。当然のように、社会(≒わたしたち)はそんな2人のありかたを、真っ向から否定してかかる。「心の病気だ!」「幽霊なんて非科学的」といった風に。


るい子の願いは大抵叶わない。中学に入ると、ロッテオリオンズ村田兆治*3に憧れ、野球部の門を叩く。しかし、「女子だから」という理由でマネージャーに回されてしまう。高校時代は、バンドマンを目指すも、練習中にメンバーに押し倒され妊娠。そして、流産を経験する。会社に勤めてからは、誰よりも懸命に働いた。しかし、ここでもやはり「女性だから」という理由で出世街道を外され、最終的に部下も誰もいない倉庫係に左遷されてしまう。いっそ火で放って抗議してやろうかと思うが、退職して結婚、家庭を持つことにする。そこでも彼女は阻害され、教育に失敗し、夫はおろか息子からの愛情すら望めない状況に陥ってしまう。生まれることのなかった娘、放たれることのなかった火・・・・るい子の願いは大抵叶わない。このるい子という哀しき存在を、男社会の被害者としてアクチャルに語ってしまうことは簡単だ。しかし、性差を超えて、るい子は”わたしたち”であると言える。企業に搾取されて死んだ西海(川瀬陽太)も、種無しとして婚約者に捨てられた持本(阿部サダヲ)もいずれも同じ”哀しいわたしたち”なのではないだろうか。

俺もあいつも同じ道歩いてて、1人だけ穴に落ちたんだ
どっちが落ちても不思議じゃなかった
あいつがしたことは、俺がするはずだったことかもしれないんだ

この持本の西海に向けた言葉は、ここ最近の坂元裕二が繰り返し筆を費やしているテーマのひとつだ。

往復書簡 初恋と不倫

往復書簡 初恋と不倫

昨年刊行された『往復書簡 初恋と不倫』においても、言葉を変え、繰り返し記述されている。たとえば、こう。

誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。

この世界には理不尽な死があるの。
どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの。

この痛ましい世界において、るい子たちに降りかかった悲劇は決して他人事などではない。そこで傷ついているのは、”わたしたち”だったかもしれないのだ。


他の人の目には映らないとしても、アオバは確かにいて、そんな彼女の存在が、るい子に生きることを諦めない強さを与えてきた。であるならば、「幽霊なんていない」としてしまう社会に、わたしたちは抗う必要があるのではないだろうか。それが、たとえどんなに小さな声であろうとも、「幽霊はこの世界に”いる”」と叫び続けねばならないのだ。たとえば、ハリカのように。

なんで幽霊を好きなったらダメなんですか?
なんで死んだら好きになっちゃダメなんですか?
生きてるとか死んでるとかどっちでもよくないですか?
生きてても死んでても好きな方の人と
一緒にいればいいのに

天使性を携えたハリカにとって、「死」という概念は理解しがたいものなのかもしれない。なんで死んだら好きになっちゃダメなんですか、この言葉はるい子のこれまでの生き方を肯定するのみならず、棺桶に片足を突っ込んだ余命半年の持本を揺り動かし、るい子への愛の告白を導き出しさえもする。


生死の境が揺らいだ世界で、幽霊のアオバの存在はどこまでも肯定される。

アオバ:あのね、おかあさん
    わたし、いい子?
るい子:いい子 いい子だよ
    おかあさん、アオバのこと大好きだよ
アオバ:ふーん

このアオバのうれしさに溢れる照れ隠しの素っ気ない「ふーん」がいい。短い音の中に、複雑な感情が詰まっている。そして、この「ふーん」がひどく感動的なのは、るい子の息子の冷淡な「ふーん」を反転させているからでもある。



<幽霊/天使>

「幽霊と思ってくれてかまわない」としながらも、アオバの登場ショットは足元から撮られている。怪談に倣うのであれば、幽霊には足がないはずなのだ。しかし、それもまた偏見で幽霊差別というやつだろう*4。そして、「室内であろうとも革靴を履いたまま」というアオバの世界とのズレが何度も印象的に映されている。幽霊の存在に興奮して「コワいコワいコワい」と足をバタバタさせるハリカを捉えるショットも何やら異質だ。共に足元を映しとることで、アオバとハリカを結びつけてしまうようである。つまり、『anone』における幽霊というのは、これまで述べてきた”天使”とほぼ同義と言えるだろう*5。どちらも足元がおぼつかない。そして、大人になりきれない天使たちはやはり”落下”のイメージを繰り返している。るい子は階段から転げ落ち、家族と別れ、高層タワーマンションから地上に”降り”てくる。持本は(病気の影響だろうか)よろめき倒れることで、るい子の居場所の糸口を発見する。さらにむりくりではあるが、アメリカンドッグのケチャップの”垂れ”も落下と言えなくもない。亜乃音(田中裕子)は、孫と一緒に”落し物”を探す。そして、

普通は嫌だな
だって、落とし物したら
探すことができるでしょ
探し物したらもっと
面白いもの見つかるでしょ

と、落下や喪失のイメージを肯定してみせさえする。



<苺という赤>

ドラマの公式Twitterアカウントが、「イチゴって漢字で書くと、苺。母って字が入ってて、それを思ってもう一度みるとさらに泣けて来ます。」とつぶやいていて、「武田鉄矢かよ」と思いつつも、なるほどと感心した。亜乃音は玲(江口のりこ)に苺を差し出そうとするも拒まれてしまう。その対比として、苺ジャムを丁寧に塗ったトーストをハリカと共に口にしている。しかし、ここで苺が選ばれたのは”母”という漢字が入っているからだけではないだろう。それは苺が”赤い”からである。その赤は、血(=赤)の繋がりのない娘たちとの関係を結ぶためのものだ。であるから、苺を拒まれた亜乃音は、今度は必死に赤い傘を手渡そうとする。血の繋がりで断ち切られてしまった糸をなんとか繋がんとして。

*1:ひび割れた字が小刻みに揺れるというフォントの震えるようなダサさを想えば、痛快ですらある。あのダイジェストを観て、これまでのあらすじが理解できる人がいるのだろうか

*2:アオバが鏡面越しにるい子を見つめる複数のショットが示唆的

*3:マサカリ投法の村田!『それでも、生きてゆく』でのトルネード投法の野茂といい、坂元裕二は変則投法のピッチャーが好きなようだ

*4:坂元裕二と幽霊と言えば、東京藝術大学大学院の学生と作りあげた『水本さん』という短編も重要である

*5:完全に余談になるが、幽霊、天使、生まれなかった子ども、といったモチーフは劇団ロロが昨年再演した代表作『父母姉僕弟君』と一致していて、三浦直之と坂元裕二の共鳴がより強固なものになった