青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

李相日『怒り』

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この作品が「相手を信じることの困難さ」というのを描きたい、というのは痛いほど伝わってきて、その強烈な”すれ違い”、そして展開される重厚なテーマの数々(沖縄の米軍基地問題セクシャルマイノリティetc・・・)は、それこそ坂元裕二がペンをとるにふさわしいような題材だ。しかし、坂元作品の素晴らしさというのは、社会問題を内包したマクロなわかりあえなさと、何気ない会話の中に潜むミクロなすれ違いを、鮮やかに平行させる事で、テーマを重層的に響かせてしまう手腕にあって、残念ながらこの『怒り』という作品にそういった豊かさは感じられない。であるから、「相手を信じることの困難」の痛切さよりも、「真犯人は誰か」というミステリーに私の関心は強く誘惑されてしまった。とは言え、楽しめなかったかというとそうでもない。



例えば、綾野剛松山ケンイチ森山未来という、全く異なるようでいてどこか似た質感を携える3人の役者が、あたかも同一人物であると観客に誤解されてもかまわない、というような大胆な演出はどうだ。確かに「頬に並ぶ3つのほくろ」という、3人のヴィジュアルの共通点や後半に挿入されるフェイク回想は、ドラマを転がす為とは言え、あまりに強引過ぎるように思えるが、それは「いや、この3人はそもそも1人なのだ」というような李相日の開き直りが感じられる。特に印象的なのはシーンの編集術であろう。3人が散らばる東京、千葉、沖縄のそれぞれのシークエンス、序盤は1つ前のシーンの残響(それは音楽であったり構図であったり衣装であったり様々だ)を受け継ぐように、シームレスに接続しながら切り替わっていく。だが、後半になると、そんな事もおかまいなしに、ガチャンガチャンと乱暴に3つのシークエンスが切り替わり、より混沌としたムードを漂わせる。しかし、それでも観る者は妙な心地よい繫がりを覚える(表層で描かれているのは、あまりに痛切なすれ違いだが)。これは綾野・松山・森山という3人の役者が、誰もが生きる上で切り離す事のできない”せつなさ”のようなものを、見事に体現しているからだろう。その”せつなさ”を無理矢理言葉にするならば、”逃れられなさ”とでも書こうか。どれほど新しい環境に移り、行いを改めようとも、これまで自らが残してきた軌道が、周囲からの判断(評価)を全て覆してしまう。なんというか、こういった”やりきれなさ”みたいなものだ。そんな”やりきれなさ”に直面した時に人が覚えるのは、どこにも向けようのない”怒り”であろう。今作において、泣き叫ぶ妻夫木聡宮崎あおい広瀬すずの演技に大きな評価がくだされるのは自明であるが、静かに”怒り”と”せつなさ”を体現した前述の3人の演技もまた素晴らしいものであった、と書き記しておきたい。褒めてるのか貶しているのかよくわからない歯切れの悪いエントリーになってしまった。好きな映画か?と問われたらば、首を捻らざるを得ないし、李相日×吉田修一フィルモグラフィーにも関心がないのだけども、人気・実力を兼ね備えた俳優陣の重厚なアンサンブルには一目の価値あり!というのだけは確かな事であります。