青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』

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黒沢清の待望のサイコスリラー『クリーピー 偽りの隣人』が凄まじい。尋常ならざる建物の画力。線路沿いにしがみつくようにして建っていた『トウキョウソナタ』(2008)の佐々木家のルックも強烈であったが、今作に登場する建物の気配、立地や空間の歪みは、この映画の主役と言っていい。思わずカメラが上昇し(ドローンによる撮影らしい)、その全容を俯瞰で捉えてしまうほどである。中でも最も不穏な質感を放つのが西野家だ。その前に広がる空き地は砂利が敷かれ、用途不明の給水塔がそびえ立っている。「安全第一」のフェンスで囲われ、そこには「立入禁止」のボードも貼られている。ご丁寧に「立ち入るべからず」と警告されているのにも関わらず、その不思議に歪んだ空間が放つ魅力に抗えない人間達が集まってくる。



黒沢清と言えば「揺れるカーテン」というほどに象徴的なその”風”は今作においてもあらゆる空間に吹いている。高倉夫妻の済む新居の窓は常に開け放たれ、カーテンが艶めかしく揺れている。”風通りの良さ”というのが高倉夫妻がこの家を購入した理由の1つなのかもしれない。偽りの隣人である西野(香川照之)の家もまた風が吹いている。入口では濁ったビニールのカーテンが怪しく揺れ、庭先では生い茂った植物が不気味に揺れる。どう考えても歪なはずのその風の誘惑(それは西野の巧みな人心掌握術と同義だ)に、康子は耐える事ができない。西野との接触後には、より強力な風を、と部屋で扇風機を回し出す康子。そんな彼女が、より大きなプロペラを有する換気扇が設置されたあの西野の秘密の地下室に導かれるのは当然の成り行きなのだ。



西野というキャラクターが凄い。園子温冷たい熱帯魚』(2011)の「埼玉愛犬家連続殺人事件」をはるか飛び越え、報道規制まで引き起こした近代犯罪史随一のおぞましさを誇る「北九州監禁殺人事件」さえも彷彿させる人物造詣だ。リアルとファンタジーが同居した映画史を見渡してもなかなかに類を見ない強烈なサイコパス。しかし、この映画は彼の独壇場とはならず、登場人物誰もがみな一様にして狂っている。”現代の生んだ亡霊”という感じの東出昌大が傑作『寄生獣』(2014)
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での快演を彷彿とさせる見事な無生物ぶり*1、2つの事件を結びつける共鳴のアクション(早紀は澪の未来そのもののようである)を見事に表現する川口春奈藤野涼子も素晴らしいのだが、ここでは高倉夫妻にまつわる不思議さに的を絞りたい。


それがさ、学生と話してみると意外と面白いんだ
オレ、案外向いてるのかもな

という台詞を空しく搔き消すようなキャンパスで見せる高倉(西島秀俊)の欠伸。教授の部屋とは思えぬほど開け放たれたスペースで退屈そうにしているにも関わらず、彼の元に集まってくる学生は1人として現れない。しかし、彼の講義は階段机の教室に1つの空きもないほど学生が詰め込まれている。犯罪心理学の講義が、(春先ならまだしも)夏場においてこれほどに学生の出席率を集めるというのは異常事態と言っていいだろう。とにもかくにも、その光景は異様としか言いようがない。ガラス張りの空間で高倉によって行われる早紀(川口春奈)の取り調べは更に異様だ。早紀の記憶の階層に比例するように明暗がコントロールされる照明、縦横無尽に歩き回る動線がまずもっておかしいのだが、それ以上にガラス外の中庭の様子が気になってしかたない。まるで共通の意思を持った襲撃者のようにして集まる学生たち。その数と動きもさることながら、ドラマは取り調べで起きているにも関わらず、そのガラス外の様子にまでクッキリとピントを合わせるカメラが何よりおかしい。こういった常識とのズレを表出する歪みが、この映画のグルーヴの根底だ。サイコパスの症例を恍惚とした表情で眺め、陰惨な事件の実例を嬉々として学生に語る高倉。学者としての性なのかもしれないが、その吐息はどこか生臭い。彼自身もまたサイコパスなのではないか、という疑念が観る者を捉えて離さない。挙句には事件の調査を、被害者本人を前にして「趣味です」と言い放ち、捜査にのめり込むあまりに相手を暴力的に抑えつけるなどの暴挙に出る。彼は単なる”巻き込まれ型”の主人公ではない、と言えるだろう。



対して高倉の妻である康子(竹内結子)はどうだろう。一見、料理好きの良妻のようだが、その”料理”がどうにも変だ。どうやら凝った料理を作っているようなのだけども、食卓に並ぶそれらは何故だかはっきりとはカメラには映らない。あの夫婦はあの4人掛けのテーブルに2人で座る、どこかもの哀しい食卓で、一体何を食べているのだろう。西野の娘に料理を教える、と招いた客に並べる料理もその全容はさっぱり不明だ。
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西野が大袈裟に「んまぁい」と言って口にする料理も、汁にまみれた卵にしか見えない。卵を飲み込む香川照之、まさに蛇(『蛇の道』!)のようである。康子が料理を指して「クスクスっていうんですよ」とその具体名を明かす台詞が登場するのだが、中学生に最初に教える料理がクスクスというのはどう考えても普通ではないように思える。康子はピンとのズレた女性なのだろうか。その極めつけは、「昨日のシチューが余ったので、差し上げようかと」と透明なボウルに入った茶色い液体を西野家におすそわけしようとするシーンだろう。鍋という概念が存在しない世界なのだろうか。そのボウルの透明性が故に可視化された”茶色”から連想されるのは、彼女の心の”濁りのようなものであるし、もしくは引越の挨拶において、康子から西野に手渡されたチョコレートだろう。そもそも隣人への引越の挨拶に”手作り”のチョコレート(しかも日向の窓に放置しておいた)を渡そうとする時点で、彼女は狂っているし、その異常さに何ら感づかない夫の高倉もまたおかしい。


もうとっくに、いろんなことを諦めちゃったのよ

という康子の台詞にて、高倉夫婦は何かが決定的に損なわれてしまったという事がわかる。金に苦労している様子もないし、高倉は彼なりに愛情を妻に向けているように見える。何が不満なのだろう。前述の料理にもっと関心を寄せて欲しいのだろうか。しかし、新聞やテレビに目を向けて食事するでもなく、「おっ、凝ってるな」だとか「美味い」くらいの事は口にしてくれる高倉はまだましな夫に映る。この夫婦にはそういった些細な事象ではなく、もっと大きな、決定的な欠落があるはずなのだ。すると、思い当たるのは、画面に決して映る事のない高倉家の二階だ。

私、その人を見下ろしていました

と、6年前の事件当時、本多早紀(川口春奈)の部屋が二階にあったという何てことはない事実が、ことさら重要であるかのように強調されていたのを思い出す。西野家においても澪(藤野涼子)が階段から降りてくるシーンが存在する事から、彼女の部屋もまた二階にあるのだろうと推測される。つまり、この映画における”二階”というのは、子どもの為の部屋がある空間だ。しかし、高倉夫婦には子どもがいない。いるのは、とびきり大型な犬のマックスだ。この犬のもたらすルックと運動性がこの『クリーピー 偽りの隣人』という映画を殊更魅力的なものにしている事は否めないが、あのまるで幼児ほどの大きさの犬が”人間の子ども”に置き換わったとしても、物語は何ら破綻をきたさないという事に気づきやしないか。あの家は2人で暮らすには身に余るように思えるし、前述の通り食卓のテーブルも広すぎる。マックスが少年ではなく、”犬”である事。それが決して語られる事のない高倉家の欠落であるように思える。誤解しないで頂きたいのは、子どものいない夫婦が不幸だ、と言いたいわけではない。あたかも”消失”してしまったかのような質感が、まさに黒沢清の映画を貫くもの哀しさそのものだ、と感じるのだ。映画ラストに見せる、康子のあの尋常ならざる号泣。その泣き叫びは徐々に「オギャー」という赤子の産声のようにも響いてくる。あの時、彼女は夫婦に横たわる埋めようのない欠落を埋める”何か”を産み落としたのではないだろうか。

*1:事実、黒沢清は『寄生獣』を観て、東出昌大にオファーをかけたらしい