青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

トーベ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』

新装版 ムーミンパパの思い出 (講談社文庫)

新装版 ムーミンパパの思い出 (講談社文庫)

ある日、風邪をひいて弱ってしまったムーミンパパは言うのです。

わしはつくづく考えてしまったよ。わしがけさ、かぜで死んだとしてごらん。そしたら、おまえたちのうち、だれひとりとしてあの電車の話を知ってるものがないわけだ。それとおなじようなことが、ほかのたいせつなことにもたくさんあるにちがいない。

そうして、ムーミンパパは青春時代の思い出を、”物語”として書物に記す決心をします。誰かに覚えておいてもらう為に。孤独な”みなしご”だった幼き頃。その類い稀なる才能を誰にも阻害されぬ為に旅に出たこと。出会った仲間たちとの血湧き肉踊る冒険の数々。例えば、大きな身体で相手を踏みつけて殺してしまっては泣き暮れる、心優しいき竜のエドワードとのおかしな攻防戦。なんでも食べてしまうモランと鼻を噛み切るニブリングから逃げ切る航海の旅。大たくさんの子どもを生み散らすミムラ夫人。くしゃみをする風邪ひきのオバケとのデタラメな共同生活。船は空を飛び、海底に潜る。海底での恐ろしき「うみいぬ」との戦い。戦いの後に海に灯る光のパレード。それはまるで凱旋パレードのようでした。そして、波にさらわれていたムーミンママを救い出すという「ボーイ・ミーツ・ガール」を経て、パパの青春冒険記は幕を閉じるのです。こうしてザっと書き出してみるだけで、なんてイマジネーションに富んだ素敵な冒険であることでしょう。そして、その中でムーミンパパが獲得していく金言的な人生観の数々にハッと心を奪われる。

それからわたしは、このあたらしい自由をいわって、
ムーミンダンスをおどったのですよ。

わたしはたのしくてたまらなかったので、
そのたのしさがすぎていってしまわないかと心配する気持ちさえおきませんでした。

わたしの見かたからすれば、わたしたちのまわりには、いつも重要で意義ぶかいものごとが、ごろごろしている。それを体験し、そのことについて考え、そうして、それをじぶんのものにしなければならない。あんまりやりたいことが多いので、考えるだけで、ぞくぞくと首すじの毛がおったつ思いがします。そうして、その中心にはわたし自身がいて、もちろん、わたしがいちばん重要なのです。

わたしは思うのですが、ぶきみな状態というものは、できるだけ大げさに受け止めるべきです。一つには、その場の状態をもりあげるのに役だちますが、また、恐怖のあいてを大げさにすれば、それだけ恐怖心が小さくなるからです。

あらしなんて、なんでもありません。そのあとの日の出を、いちだんとうつくしく見せるのが、あらしの意味かもしれません。

ただわたしは知っていたのです。波がくだけている海岸へ、わたしはおりていかなければいかないということを。それは魔法の感覚ともいうべきもので、その後のわたしの一生のうちでも、たびたびそういうことがあって、そのたびにすばらしい結果を生んだものでした。

あぁ、なんて素敵なんでしょうか。冒険の仲間たちの中には、今は姿が見当たらないスナフキンやスニフの両親達もいる。

でもとにかく、わしはきみたちのパパのことを書いてやったよ。これであの人たちも、のちの世にのこるというわけさ

書くことで、その今は亡き彼等の人生を"在った"事にしてあげる。物語というものが存在する、原理的な理由がここにはある。そして、「ムーミンパパの思い出の書」はこう締められる。

これらのことがおこったのは、みんなとんでもなく遠いむかしのことです。けれども、こうしていまあらためて思い出をよみがえらせていると、そんなことがもう一度、まったく別の形でおこるような気がしてきます。

物語とは”祈り”なのだ。そして、驚くべき、「奇跡」のようなエピローグをぜひ目にして欲しい!もう、本当に素敵なことが起きるのだ。ムーミンパパがその思い出の書を家族に読み聞かせ終える。すると・・・

ちょうどそのとき、ほんとうにふしぎなことに、この物語にはぜったい必要な瞬間なのですが、戸をノックしたものがありました。みじかく、つよく、三回のノック。

さて、ドアをノックするのは誰だ?