青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

かもめんたる『下品なクチバシ』

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手塚治虫が「ヒューマニスト」と評され怒り狂ったという話があって、それを読んだファンもまた、「手塚治虫ヒューマニズムで片付けてくれるな」の一点張りなわけなのだけど、言葉遊びでしかない、というのが正直な所だ。確かに、彼が描く作品には人間に対する深い絶望と諦念が横たわっている。しかし、同様にして人類の愚行を荒唐無稽な語り口で紡ぐカート・ヴォネガットは「私はヒューマニストだ」とはっきりと公言している。そうだろう、手塚治虫ヴォネガットも厭世感を飲み込んで、人間の哀しさと愛おしさを、その全てを肯定するヒューマニストだ。そして、それを”お笑い”というフィールドで行っているのが、かもめんたるである。言わずと知れた、2013年『キングオブコント』のチャンピオンコンビであり、この『下品なクチバシ』というDVDはコント王者になって初の単独公演を収めたものである。


「下品なクチバシ」とはどういうものだろうか?という1組の夫婦の会話から、”下品”というのは「身分不相応な振る舞いを見せる事ではないか」という結論が導かれる。その結論に沿うように、いくつもの「身分不相応な振る舞い」が詰め込まれたコントが展開されていく。無職なのに子どもを宿してしまった夫婦(「とある夫婦の夜」)、妻が病んでいるというのに部下の相談に乗る男(「相談」)、まともなのに狂人のように振る舞う男(「始まりは電器シェーバー」)、偽った声で声優を目指す青年達(「声。」)、子孫を残したいと願うロボット(「バージンロボット」)、自分を実業家と思いこむ人(「I脳YOU」)、自我が芽生えたアングラ舞台女優(「全ての女優に幸あれ!」)・・・そして、締めのコントでは、冒頭に「下品=身分不相応な振る舞いをする事」と結論づけた夫自身こそ、その「身分不相応な振る舞い」を行う最たる者である事が発覚する。彼は定められたプログラミングから逸脱するロボットであったのだ。


声優や女優といったモチーフが登場する事に示唆的だが、全てのコントに「不相応な振る舞いをする事=偽る事=演技をする事」という構成が見受けられる。全ての人間は、演技をする。常に自分を偽って生きる”下品”な生き物である、という事だろうか。しかし、全てのコントの脚本を手掛ける岩崎う大は、自身の作品のそんなキャラクター達を決して”下品”だとは思っていないように思う。規律から逸脱した人間の、目をそむけたくなるようなエグい感情をほじくり出し、その行為の恥ずかしさ、醜さ、いじらしさ、を笑い飛ばしてはいる。しかし、笑いに転化することで、彼らはその存在を許されてしまっているようにも感じる。全てをさらけ出した上で肯定する。そのフィーリングは、やはり手塚治虫カート・ヴォネガットを彷彿とさせられてしまう。その2人のヒューマニストと同様に、岩崎う大の語り口もまた、前公演の『メマトイとユスリカ』(大傑作)

から作風をよりSFに志向している。”現実”を描くには、それとできるだけ距離のある無茶苦茶なやり方が有効なのだ。それがフィクションの力である。かもめんたるのコントは、単一の感情をさらけ出す凡百のコントとは一線を画し、複層の事象を舞台に浮かびあがれせる事に成功している。


あえて深く言及はしないが、岩崎・槇尾の両者のずば抜けた演技力、シチュエーションの着眼点、会話での言葉の選択のセンス、どれも一級品であり、単発のコントとしても圧倒的に楽しい。「I脳YOU」と「声。」の2本を持ってすれば『キングオブコント』の再優勝もわけないだろう。個人的なベストは「始まりは電器シェーバー」だろうか。家電店の店員と客というありふれた構図のコントで、狂気と正常のどちらか、ではなくその境目に漂う不気味かつ抱腹絶倒の1本。ぜひ目撃して頂きたい。