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Panpanya『足摺り水族館』『蟹に誘われて』

足摺り水族館

足摺り水族館

蟹に誘われて

蟹に誘われて

昨年の『足摺り水族館』フィーバーに出遅れてソワソワしていた矢先、『蟹に誘われて』が刊行されたので、まとめて読んでみたわけですが、ちょっとこれは心酔してしまうレベルの素晴らしさだ。


あちら側とこちら側を隔てる"ドア"を簡単に、いとも簡単に開けていく感覚がある。いや、"開ける"という動作すら感じさせない淡白さで、スルリと異世界を、街に立ち上げる。"白昼夢"という言葉がふさわしいか。フェディリコ・フェリーニ8 1/2』や北野武『TAKESI’S』のようなまどろみと混濁を、”おつかい”だとか”バイト”といった日常の延長の果てに描き切り、更にしれっと元の世界に戻してしまうそのやり口。また、異世界の質感が、作者の"街"へのフェティシズムにトレースされているのもいい。作画の巧みで多彩な技法も作品の世界感に奉仕している。


panpanyaが紡ぐ物語は"標識"(それは文字どおりに標識であったり、看板、買い物メモ、チケット、順路案内、或いは”蟹”であったりする)に導かれ進行している事に気づく。

”まあ案内にはしたがうべきだろうな”


つまり物語は表面上スムースに、決められた道筋をよどみなく進む。故に物足りなさを感じる人も少なくないだろう。しかし、その道程における細部、もしくは道筋から外れた部分にこそ豊かなものが潜んでいるのだ。ここで、『蟹に誘われて』に収録されているエッセイの興味深い2編を抜粋したい。

ものごとを考えていると理由や由来のよくわからない変なものがぽかっと突然浮かんでくるときある
寝ている間に、とりとめのない夢を見たりもする
良い意味の場合だと、ひらめきなどと呼んだりもするが 大抵はとくに意味のないことばかりで
なんにせよそれらはあまり実生活に直接関わるものではないことが多いから(自分に直接関わるものは、大概理由が判明するから)
腑に落ちないままなんとなく消えていってしまうが、それがなにか勿体無いように思えてきて、どうにか忘れず腑に落とそうと、謎なものに出会うたびそれらの正体を考えているが、余計によくわからなくなってよくわからない考えが発生してしまうばかりだが、それでもそんないい加減な思考をどこか楽しんでいるような気もしている

ほとんどなんでも、この世にある実物には細部がある
つるつるしていると思っても、細かい傷や質感はあるし
顕微鏡でみれば分子や原子で構成されている


街角に出ても、こまかく観て行けばいくらでも細部はある
設置物にもひとつひとつネジがある、板には木目がありひとつひとつ
目で追うこともなぞることもできる、電気あるところには電線がある
そのスイッチもどこにあるのか、ケーブルを伝えばわかる
雨粒の大きさも一粒一粒微妙にちがってるかもしれない


それらは用がないものはほとんどスルーされているが
ぱっと目をむけると無限に目で追うことが出来る
あるけど無視されてる、自然と無視することができる
自分に用があるレベルで解釈して把握してればよいだけだ

<中略>
私は細部にはなにかあると思う
細部は、なにか違和感を感じたり用のあるものでなければ
スルーされているが、そのことを考えてしまう
とんでもないものをスルーしている可能性もある
得体が知れないものでも、違和感がなければスルーしてる
幽霊がいても、人間と区別がつかなければ街角でスルーしているだろう


しかしすべてのあらゆる細部を追求しながら生活することはできないから
部屋に入ってきた羽虫が新種かもしれないことや
机に落ちているほこりの粒の数の合計がゾロ目であるかもしれないことも

不思議な文章だが、panpanyaが描きたいものが垣間見られる2編のように思える。確かに、この世界では、見逃してしまうもの、零れ落ちてしまうものが無数にある。しかし、自身の手で構築した世界の中でなら、完璧に保存できてしまうはずだ。panpanyaの作品にはあまりに豊かな「無意識」や「細部」で埋め尽くされた箱庭である。



このマンガがすごい!WEB)でのインタビューもまた実に興味深い。Panpanyaのカメラの動きや、無意識を描く技法が垣間見れる素晴らしいテキストなので(こっそり)抜粋しておきたい。

panpanya:たとえば……この、主人公がよそ見をして「コメントしづらい味…」といっているシーン(『足摺り水族館』P.120)ですね。

なんというか、てきとうに口に入れてみたら、コメントしづらいな……という、味に主人公の気持ちが入っていない場面なので、心がよそに向いてしまっています。その「よその部分」が描かれたコマになります。


――よそ見した視線の先にあるものが描かれていないと、このコマは“もたない”んですね。


panpanya:このコマ(『足摺り水族館』P.41)もそう。

「おっ 絶版車」といっているんですが、主人公と絶版車しか描かれていなかったら、絶版車に興味があって注目した人、ということになってしまう気がするので。


――主人公は、その車に特別興味があるわけではない、と。


panpanya:適当によそ見をしているシーンであれば、よそ見の対象となる周囲もしっかり描かれていなければ「よそ見をしていること」が描けない。たとえば、校長先生がつまらない話をしていたら、上の空で壁のシミをひたすら数えたりしませんか? もしその状況を場面描写だけで描くとしたら、校長先生の話と同時に壁のディテールを描かないと、話を集中して聞いている、という感が出てしまうというか。背景を克明に描く、イコール、注意が散漫という表現になる、というわけでもないとは思いますが、どこかにそういう意識があります。