青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

松田沙也『明日ママがいない』最終回


11話、いやせめて10話まであれば、もっと丁寧に演出できたのだろ、という悔しさが募る。しかし、性急ではあったが、そういった歪さを凌駕するエモーションがほとばしってもいて、結果的に「素晴らしいドラマだった」と胸を張って言える作品に仕上がっていた。主要キャラクターをすっかり好きになってしまいましたよ。特にお気に入りなのはツンデレーションな魔王(三上博史)とお局(大後寿々花)です。もちろん、ポストも最高で、芦田愛菜の強烈な個性と違和感を伴なった新しい演技メソッドは、キムタクの正統後継者と言えるのではないだろうか。


1、2話の素晴らしさは以前も書いたのですが、クレームによる内容変更で明らかに精彩と編集のリズム感を欠き始めた3話以降。そこから再び作品が躍動し始めたのはやはり6話での魔王の”語り”からであろう。施設の職員であるロッカー(三浦翔平)が暴力事件で逮捕される。子どもたちは、世間の目を恐れ、魔王にロッカーの辞職を要求する。それに対しての魔王の言葉だ。

持っている枕をその胸に抱きなさい。お前たちは何に怯えている?お前たちは世間から白い目で見られたくない、そういう風に怯えているのか?だからそうなる原因になるかもしれないあいつを排除する、そういうことなんだな?それは表面的な考え方じゃないのか?もう一度、この状況を胸に入れて、考えることをしなさい。お前たち自身が知るあいつは本当にそうなのか?乱暴者でひどい人間か?そんな風にお前たちはあいつから一度でもそういう行為や圧力を受けたことがあるのか?何故かばおうとしない?世の中がそういう目で見るならば、世の中に向けて、あいつはそんな人間じゃないって、なぜ戦おうとしない?あなたたちはあの人のことを知らないんだって、一人一人に伝えようと、そう戦おうと、なぜ思わない?


臭いものにふたをして、自分とは関係ない、それで終わらせるつもりか?大人ならわかる。大人の中には価値観が固定され、自分が受け入れられないものを全て否定し、自分が正しいと、声を荒げて攻撃してくる者もいる。それは胸にクッションを持たないからだ。わかるか?そんな大人になったらおしまいだぞ?話し合いすらできないモンスターになる。だがお前たちは子どもだ、まだ間に合うんだ。一度、心に受けとめるクッションを、情緒を持ちなさい。この世界には、残念だが目を背けたくなるようなひどい事件や、辛い出来事が実際に起こる。だがそれを自分とは関係ない、関わりたくないとシャッターを閉めてはいけない。歯を食いしばって、一度心に受け止め、何がひどいのか、何が悲しいのか、なぜこんなことになってしまうのか、そう考えることが必要なんだ。お前たちはかわいそうか?本当にそうか?

このドラマへの短絡的かつ執拗なクレームに対するカウンター、という構造をもった明瞭で痛快なメタ視線の批判が挿入されながら、物語をエモーショナルに推進させる、この語り。ここからドラマは一気に面白くなっていく。


7話では『家なき子』の安達祐実が登場し、芦田愛菜との新旧子役共演。娘を踏切事故で失った朝倉瞳(安達祐実)は、顔が似ているわけでもないポスト(芦田愛菜)を娘と勘違いする。はじめは困惑するも、次第に瞳に好意を寄せ、彼女の亡くなった娘「アイ」として、養子に引き取られる決意をするポスト。踏切信号、事故、林檎、ポストの髪止めと、徹底的に「赤」の演出をほどこし、物語の軸となる「家族(=血)」を画面に浸透させていく。


最終話。魔王の「本当にこの子(ポスト)はあなたの娘ですか?」という問いかけに瞳が「これはアイではない」と答える。「アイではない=愛ではない」という残酷なダブルミーニングで、養子契約は破棄されてしまう。ポストは魔王に「なんであんな事したんだ!?」と問い詰める。すると、魔王は「お前がいなくなると、俺が寂しい」というストーレートに、それでいてとびきりエモーショナルにそれに応える。この『明日ママがいない』という物語は、自分の居場所を見つけ出すという行為が「名前を取り戻す」という運動と直結している。ポスト、ドンキ、ピア美、ボンビetc・・・クレーム側からそのどぎついニックネームへの変更要請が執拗になされていたにも関わらず、制作側がかたくなに応じなかったのも当然である。ポストが取り戻すのは「アイ」という他人の名前でなく「キララ」という自分自身の本当の名前でなくてはならず、ドラマのラストカットもその名前が刻まれたプリクラだ。台詞で語られるスキャンダラスでエモーショナルな物語の裏側で、無言で同時進行している”名前を取り戻す”という運動。今作のこういった脚本作りこそ、真に評価されるべきではないだろうか。