青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

是枝裕和『そして父になる』


「子どもの取り違え事件」という、おもしろいと言ったら語弊のある、強過ぎる題材に、映画が物語に喰われてしまうのではないか、という不安はあった。しかし、見事な演出力でもって堂々と物語に立ち向かっている。手触りとして、想起したのはエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』だ。後ろから少年がカメラを通して視線を向けているという類似点は強烈だ。ピアノの音色や風船の浮力に託された不協和音の調律などはホウ・シャオシェンの『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』なども想わせる。アジアの巨匠の崇高な2本の名を挙げるのはいささか怯んでしまうが、是枝裕和の演出力はそこにかなり迫っている。


福山雅治演じる野々宮良多は挫折知らずのエリートであり、一流の建設会社に勤め、高層タワーを中心とした都市計画に心血を注ぎ、超高層マンションで優雅に暮らす。カメラは、良多がエレベーターや階段などにおける”上昇”の運動に励む姿を捉える。しかし、斎木雄大(リリー・フランキー)が良多の住む高層マンションに足を踏み入れる挿話が象徴的だが、ドラマが進むにつれその優位性は薄れていく。それに呼応するように画面の運動も、上昇から”下降”に切り替わっていく。ベランダから釣り竿を下げる、流れ星、オフィス→雑木林、見事にエピソードと画面の運動が合致していく。ハイライトと言える、良多の慶多(二宮慶多)への語りかけのシーンでは、対面上の道で、徐々に良多の歩く道が下降していき、息子を見上げる形で語りかけるという画が作られている。


良多が腕時計を外すカットが何回か挿入されているのも見逃せないだろう。そのような凝り固まった価値観からの解放は、”凧”や”風船”といったモチーフに託されている。慶多は冒頭の小学校受験のテストの中で風船を自らの手で作りフワフワと幸福感に包まれながら上げる。もう1人の息子、斎木琉晴(黄升荽)は良多の支配から「凧を上げたくなった」と言って逃げ出す。劇中で数回に渡って話題にのぼる”凧”を、良多はついぞ上げる事ができない。エンディング、並の作家であれば、良多は息子と共に凧を上げてしまうことだろう。しかし、是枝はその代わりに、カメラをフワフワと上昇させる。もし、この作品に小津を重ねるのであれば、”家族”というタームではなく、こういった手さばきにではないだろうか。カメラが上昇しながら流れるのはグレン・グールドによるJ・S・バッハの『ゴルトベルク変奏曲』のアリア。グルードの呻き声のような、しかしながら旋律と調和した鼻歌が、解放の上昇の運動と同調するようである。


メロドラマとしても楽しめてしまう点も見逃せない。はっきり言って泣ける。ドラマを成立させている俳優陣も素晴らしい。『最高の離婚』コンビである尾野真千子真木よう子は言わずもがな。福山雅治は本年度、西谷弘『真夏の方程式』に続いての傑作との巡り合わせとなり、どうやら映画に愛されているようだ。リリー・フランキーと彼の子どもを演じた子役達の演技という重力を感じさせない不思議な空気は、この作品を「映画」という枠だけに抑え込まない豊かさをもたらしているように思う。