青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

岩本ナオ『町でうわさの天狗の子』9~11巻

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11巻ではバトル漫画のような展開(どこかジャンプコミックの『ジョジョの奇妙な冒険』『NARUTO -ナルト-』チックだ)まで見せ、物語はいよいよ佳境を迎えている。主人公の秋姫は天狗と父と人間の母のハーフで、食いしん坊で力持ちだけども、田舎町で暮らす普通の高校生。この町(いや、世界)では、天狗であったり、喋る狐や狸であったり、奇想天外な物を平然と受け入れている。ちょっと驚く人もいるが、すぐに受け入れてしまう。まず、ここにグッときてしまう。この違和感の受容と肯定。これは藤子・F・不二雄大島優子の作品が特別なものである最大の要因であって、この『町でうわさの天狗の子』はその系譜の最新版である。


主要キャラクターは全員容姿端麗。しかし、モブキャラクターたちのルックスは冴えない。いや、モブのみならず、わりと重要なサブキャラクターさえも不細工に描かれている点が興味深い。岩本ナオはそんな彼女らを平然と恋愛のステージに上げ、その恋をアクロバティックに実らせてしまう。「全ての事は報われてなくてはいけない」、そんな神様のような手さばきを、岩本ナオに強く感じる。ここに救われてしまう年頃の読書はたくさんいるに違いないと推測されるのです。救われる、という意味で言えばこの『町でうわさの天狗の子』は、思春期から青春期にかけてのヒリヒリとした心情世界を、素敵な物語に書き換えてしまう試みに他ならない。

セミとかホタルって殻抜いで飛んでっちゃうでしょ
なんかね…そんなふうにいつか
いつかじゃなくて近い将来
あたしも今の自分じゃない何かになってどっか行っちゃう気がするの

怖いでしょ
自分が「何」で「いつ」「どうなる」のかまったくわからないのって

天狗と人間のハーフである秋姫は自分の中の得体の知れない力に怯えている。いつか自分が自分でなくなり、化物になってしまうのではないか、と。このモチーフ、突拍子もない作り話だろうか?そんなことはない。あなたにも覚えがあるはず。0代の頃感じていた得体の知れない不安。妬みや僻み、ヘドロのような性欲や異常な食欲、発散しようがなく、持て余した力・・・・自分でも理解しがたいそれらに、自分は”怪物”なのではないか、と思ってしまう感覚を。この物語は、あの時期の”ヒリヒリを”余す所なく掬い取り、物語として浄化してくれている。


この漫画の最重要キャラクターは何といっても秋姫の幼馴染の瞬ちゃんだろう。10巻では

どこへ行きたい秋姫
どこにでも連れてってやるぞ

と、まとわり付く重力から解放されるように空を舞う。秋姫も「その一言で あたしの心はどこかに飛んだどこまでも どこまでも」と来たものだ。そして、秋姫がホタルの光に包まれ、瞬に抱擁される9巻の屈指の名シーン。

いいからしがみついとけ
少しでもお前の気が晴れるなら

ポーンと時空を超えて、10代の自分が救われるような感覚に陥るで。「修学旅行編」ではとうとう怪物がいよいよ姿を表わし始め、異様な緊張感の筆致の中、物語は進んでいく。面白過ぎる、の一言。決めコマも連発で、作家として幅の広さを見せつけられた。更に、修学旅行の「10月15日」がループするという『ビューティフルドリーマー』『涼宮ハルヒの憂鬱』に連なる青春学園物のお約束的展開まで取り入れつつも、「ずっと今日だったらいいのに」という祈りと共に「本当に明日は来るのだろうか」という不安も描き切った。61話では携帯メールにて、前述の作者が誰一人として見捨てる事のなかったモブ、サブキャラクター達が一斉に輝き出すという奇跡のような演出が。この61話のタイトルが「月の夜にほつれからまる線たちよ」だ。大島弓子のマスターピース『バナナブレッドのプディング』

バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

だれか もつれた糸 をヒュッと引き 奇妙でかみあわない 人物たちを すべらかで 自然な位置に たたせては くれぬものだろうか

を想起せずにはいられないだろう。そして、物語はいよいよ佳境へ。作品を貫く「違和感への許容」という優しさが更なる強度を放って新たなる境地へ誘ってくれる予感に満ちております。しかも、この漫画、単純に恋愛青春漫画として読んでも秀逸だし、会話のセンスも抜群。瞬ちゃんに、武くんに、福山様に、わちゃわちゃいる眷属まで全部かわいく萌えてしまうというどこまでも抜かりなし。全てのボーイズ&ガールズ(もしくはかつての)、完結前にこの物語に追いつこう。完結したらノイタミナ枠あたりでアニメ化お願い致します。