青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

沖田修一『横道世之介』


オープニングのCGで再現された80年代の新宿駅を俯瞰で見下ろすショットから、何となく”天使”のようなものの存在を画面に感じる。次にカメラは駅の出入口に固定され、そこから街に行き交う無数の人々を捉える。その中に1人、とりわけフラフラとせわしなく動く男がいる。それが高良健吾演じる、この映画の主人公であり、飄々とした天使だ。どうやら大学入学に合わせて、上京してきたらしい彼が電車に乗り込み、車窓に映る流れ行く街並みをバックにして現れるタイトルが

横道世之介

その実に印象的な名前は、劇中において何度も何度も、あらゆる人の口から発される。思い返してみれば、沖田修一の商業デビュー作である『南極料理人』においても堺雅人が、一体何度「西村くん」とその役名を呼ばれていた事だろう。そして、『横道世之介』におけるオープニングの群衆から始まるショットから考えても、沖田修一は映画でもってして、匿名の市井の人々に固有の名前を与え、その日常を、生命を祝福している。故にどうしようもなく泣ける病室での「世之介」「祥子」と呼び合う切り返しショット。


160分という長尺の、しかし、1秒たりとも退屈な瞬間が存在しないこの作品は、絶えず運動がフィルムに収められている。緩やかにカーブを曲がるバス、という贅沢なショットが2度も挿入される。35mmフィルムという、今となって希少な、そして愛おしい質感でもって収められるその運動は、記憶であり、”生“そのものだ。カメラは山下敦弘作品でお馴染みの、そして昨年『桐嶋、部活やめるってよ』で躍進した近藤龍人。多用される長回しの中で、人物は絶え間なく動き続ける。頻出する魅力的なウォークキングショット、サンバで躍動しながら見つめ合う世之介と祥子(吉高由里子)の切り返し、枚挙にいとわないその愛しきシークエンスの数々ときたら。何よりハイライトと言える、クレーンで上昇していくカメラで、吹きさらしアパートという空間を見事に処理した、完璧な、それでいてせわしないキスシーンの長回し。どれもフィルムに”生”を伴った運動が刻まれている。ラスト、世之介がカメラのシャッターを押しながら道を駆け抜ける長回しはどうだ。そこで世之介がフィルムに収める被写体は、走る犬、自転車に乗る女性、あくびする警官、下校中の女子中学生、遊び回る子供たち、ヒラヒラと舞い落ちる桜、どれも運動を伴うもののみなのだ。そこに気づいた時、『横道世之介』という作品と世之介が走る画面が完全にシンクロし、圧倒的な幸福感をもたらし、涙を誘う。


世之介と祥子というやや浮世離れしたキャラクターを圧倒的なチャームさでもって演じ切った高良健吾吉高由里子の素晴らしさはどんなに称えても限がない。スイカを割って分けてやる、カロリーメイトをボソボソ食べる、ハンバーガーに大口でかぶりつく、カーテンに絡み付く、という彼らの振る舞いが確かに愛や時間を匂わせている事に痺れてしまう。それを支えた脚本の充実。会話劇としての面白味もこの映画の大きな見どころだ。沖田修一の学生時代からの盟友であるという劇団「五反田団」主催の前田司郎が脚本を担当し、原作を大胆にリライトしている。ホモソーシャル感やディスコミュニケーションなど、お馴染の前田ワールドが展開されているのだけども、原作で描かれる肝は全く薄れていない。この素晴らしい台詞の書き起こしも、役者と共に大きく賞賛されるべきだろう。

1つだけ例を挙げるならば、春合宿お風呂場での世之介と倉持(池松壮亮)の長回しに耐えうる会話劇をぜひ目撃して欲しい。あれが前田司郎である。そうそう、池松壮亮綾野剛も素晴らしいのだ。見事に前田ワールドを咀嚼していた。


前述通り、この作品は160分。どう考えても長い、と思われるだろうが、あえて使い古されたクリシェを、これは人生のような映画だ。いや、正直、沖田修一にエドワード・ヤン相米慎二を見たのですよ。余談だが、主題歌であるASIAN KUNG-FU GENERATION「今を生きて」は、しっかり映画を観て書いたのではないか、と思われるリリックがよいのだ。

酔ってまた君の名を呼んで
空っぽになって転げ回る 目が覚めて

夢のような この日々よ
消えるまで駆け出そう世界へ Say yeah!!!
肉体の躍動だ Baby
永遠を このフィーリングをずっと忘れないでいて

「このフィーリングを」を「このフィルムをずっと忘れないでいて」に聞き間違えて、グッときてしまった。