青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ロロ『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』


ロロ『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』の再々演を新宿眼科画廊にて観賞。『LOVE02』『父母姉僕弟君』といったロロが本年発表した傑作群のマテリアルと呼んでいい作品だろう。60分という短い作品ながら、ロロのテクニックやエモーションの作法がギューっと凝縮されている。巧みなシーンチェンジ、動線の引き方、視線の誘導、演出力の向上を本作においても痛感。印象的だったのは、ハイライトとも言えるいくつかのシーンで役者があえて拙い発話や意図不明瞭な台詞を用いる演出。例えば、ハチ(篠崎大悟)とトビ(森本華)が台本を用いた劇中劇の中で愛の告白を行うシーン、瀕死の陽炎(崎浜純)が、言語能力を失いながらもウロ(島田桃子)に想いを告げるシーン。特に陽炎のシーンは秀逸で、「ウロにはいつもシーザーサラダばかり大量生産させちゃったんだけど・・・」といったように、その場にそぐわない、脈絡のない言葉の継ぎ接ぎが笑いを誘うのだけども、陽炎の発する言葉の意味でなく、その発声の音のニュアンスだけで、全てを伝え切ってしまう凄み。陽炎の感情が会場を包みこみ、"恋愛"と"生死"は易々とイコールで結ばれてしまう。三浦直之ひいてはロロへの「偏差値低そうなサブカルド直球」みたいなイメージは即刻払拭されるべきだろう。ロロは真っすぐな気持ちをただ真っすぐには描いていない。絶妙に全てズラしてある。そのズレが、速度と距離をグーンと伸ばすのである。


運命に抗おうかな、 どうしようかなって悩んでる、
男の子たちと女の子たちの、物語

こんな風に三浦直之はこの作品を紹介している。ロロの作品は"ボーイ・ミーツ・ガール"を主題としながら、ほぼ全ての作品でその男の子と女の子は"別離"という結末(運命)を迎える。故にとびきりセンチメンタリズムでノスタルジック。ただ、それだけはない。その”別離”における、叶わなかった想い、届かなかった想いを、いや、その恋において発生した気持ち全てを、1秒単位に刻んででも存在を証明し、全て意味のあった事にする。そんな大胆な試みが、舞台上で”本当のこと”のように繰り広げられる。そこが素晴らしい。それはもう”生”の肯定そのものではないか。『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』においても、そこで生まれた全ての気持ちは光り輝き、舞台上で弾け飛ぶ。嘘だと思うなら、ぜひ、ぜひ足を運んで目撃してみて欲しい。



劇中の卒業式で歌われる

人ごみに流されて 変わってゆく私を
あなたはときどき 遠くでしかって


荒井由美「卒業写真」

このラインにロロの、三浦直之の想いが託されている気がする。過去にあった全ての出来事は、”今”を見つめている。そして、やはり引用しておきたいのは

いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ
それだけがただ僕らを悩める時にも 未来の世界へ連れてく


小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」

それだけがただ僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく!



<その他雑記>
亀山一徳はいつだってスターであります/彼が劇中で歌う「好き好き大好き超愛してる」は幼児化した真心ブラザーズみたいで最高だ/ 日替わりゲストという形で登場した板橋駿谷なのだけど、ちょっとあの人がいるといないではこの作品の響きが大きく違ってきちゃうのではないかしら/とにかく声を張った時のオーラが凄い、それだけで泣ける/島田桃子が凄い/手足の先の演技まで凄い/ウロという役の完璧な体現/ロロの作品にグッと深みを与えていると思う/やっぱり、ウロは陽炎と”ろっ骨融合”して神と戦っているのかな/舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』の男女逆版だ/小橋れなのあの感じ、あのおもしろさをやっと理解できてきたような気がする/あんな風に鳴らされるカノンには泣く