青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

サンプル『自慢の息子』

人間を疑うこと、これが出発点でした。人間には統一された「自我」などなく、あるとしてもそれは多様でころころ変わるような一時的なものではないかという疑いです。言語活動を行う「自我」のない動物として人間を捉えたいと考えて作品を作ろうと思いました。つまり私たち人間は能動的に何かを選択し行動しているわけではなく受動的に何かを選択させられて動かされているという状態を演技の基本として作品を作るのです。俳優と同じ空間にある全ての物(テーブル、イス、人間、エアコン、棚、観客等)が俳優を誘惑します。また、俳優の外側だけでなく、俳優自身の記憶に誘惑されることもあるでしょう。私は受動的で信用ならない人間を肯定するために作品を作っています。

受動的で流動的な人間の肯定。これは、「人は絶対的でなく、代替可能な存在である」という恐怖を肯定しようという試みでもあるように思うし、違和感、異物感の受け入れでもあるようだ。男を女にしてみたり、性を無くしてみたり、むやみに近親相姦させたりする松井周の試みは「変態」というワードで語られるが、これは彼の優しさの変奏でもあるように感じる。とは言え「今作のテーマの着想がは母乳を飲む赤子の性器が母親の性器に挿入され中で射精している、という白の循環だった」という話を聞くとやはりただの変態なような気もしてくる。しかし、「変態」の「性的倒錯があって、性行動が普通とは変わっている状態」と「形や状態を変える事」というダブルミーニングを思うと、後者は上記した演劇のプリミティブな表現の喜びとも深く結びつくわけで、あえてそこに前者の変態性を組み込んでいるのかなぁ、という気もしてきますね。下世話なシークエンスが神話性を帯びていく変容も痛快。