青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

井土紀州『ラザロ -LAZARUS-』


井土紀州による「蒼ざめたる馬」「複製の廃墟」「朝日のあたる家」の3本からなる『ラザロ -LAZARUS-』を観た。学生映画祭の制作として始まり、3作ともに異なる団体で撮った映画だそう。『百年の絶唱』の後に見る、井土作品としては映像や役者の演技のクオリティーの正直戸惑いを隠せなかったのだが、物語とそこに流れている魂の強度にすっかり引き込まれてしまった。

金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になる。それがこの社会のカラクリや

好きとか嫌いとか気持ちとか心とか、そんなもんでしか繋がれん関係はとっくの昔に捨てたんや

恋とか愛とか、そんな余計な飾り付け全部剥ぎ取って、それでも最後に残るような絆しか信じれへんの

そう言い放ち、金持ちの息子を殺し、偽札をばら撒き、人間関係、資本主義、グローバリズム、世界の仕組みに復讐するマユミ。全くもって新しいテロリストとしての女性像だ。そんな彼女が何故生まれ、どう動くかを描いた3部作。しかし願わくば、マユミが全てを焼き払い、そしてその後のやけのはらに何が残るのかを見てみたかった。意外と残るのは愛なんじゃんじゃないか。悪意を描き続けていた「ラザロ」は気づいたら愛が描けていた。井土監督もこのような言葉を残している。

愛であろうと、正義であろうと、
映画においてポジティブな主題を打ち出そうとするならば、
その作劇は、常に主題に対して否定的に展開されなければならない。
主題とは、物語の中で逆説的に見出されるはずのものだからだ。
共感よりも戸惑いを、安心よりも衝撃を、
見る者の認識の鋳型にすっぽりと収まるものではなく、
その鋳型をひっくり返すような、
そんな作劇をこの『ラザロ』では目指した。