青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

『ブルーイ』における「ごっこ遊び」と”演じる”ということ


いま最も夢中になっているコンテンツは何かと聞かれたら、『ブルーイ』と答える。オーストラリアの未就学児向け作品なのだけど、子どもはもちろん、大人も虜にする最高のアニメーションなのだ。2018年から放送開始し、これまでに3本のシーズン、約150エピソードが制作されている。ディズニーと共同で長編映画を製作中で、その公開をもって作品は一旦の幕を閉じる予定とのこと。世界的に大人気で、アメリカで2024年と2025年と、2年連続で最もストリーミング再生されたコンテンツに認定されている。子ども向けコンテンツ内の話ではなく、すべてのジャンルを含めてのトップ再生なのだから凄まじい。国内では現在NHKのEテレで毎週土曜日に放映していて、Disney+では3シーズンすべてを視聴できる。たまたま、Eテレの初回放送がテレビから流れ、鍵盤ハーモニカを中心としたオープニング曲のおおらかなグルーヴとキャラクター達の規則的でも均一でもなく、決して上手とは言えない自由なダンスに一発で心が奪われてしまった。本当の“子どもらしさ”がここには描かれているように思えた。劇中における子どもたちの表情や仕草は、擬人化された犬ではあるのだけど、まさに「これぞ子ども」というような一瞬が見事に捉えられている。ブルーイの両親であるバンディット(オレたちのスーパーヒーロー!)やチリは本当に素晴らしい親達なのだけど、ただ完璧なだけじゃなく、子育てに疲弊している面がしっかり描かれているのも良い。そして、どのエピソードも本当によく練られていて秀逸だ。1エピソード約7分という短い時間の中で、「ここに“すべてのこと”が描かれているのではないか」と思わせられる。もちろん、『ブルーイ』にこの世のすべてのことが描かれているわけはない。しかし、子育て期における家族のあり方が完璧に捉えられていて、そんな小さなドラマが、生きるということの本質、生命の誕生や宇宙空間にまでに跳躍する瞬間があって、やっぱり“すべてのこと”が描かれているのだ、というような気分にさせられる。


『ブルーイ』という作品の最大の特徴は、未就学児特有の“ごっこ遊び”を描いている点にあるだろう。「びょういんごっこ」「おうまさんごっこ」「ホテルごっこ」「おいしゃさんごっこ」「タクシーごっこ」「おみせやさんごっこ」・・・というように、様々な“ごっこ遊び”が行われていく。“ごっこ遊び”には、「これは本当のことじゃない」と互いに想いながらも、同時に「この瞬間だけは本当なんだ」という祈りのような領域のワンダーと切なさがあって、それが『ブルーイ』という作品の魅力を形づくっている。


記念すべき第1話の「まほうのもっきん」というエピソードはこんなお話だ。ブルーイのおもちゃ箱の中には、“魔法の木琴”と呼ばれる楽器があって、これを叩くと聞いた相手の時間を止められるのだ。ブルーイと妹のビンゴは木琴を叩き、父親であるバンディットの動きを止め、鼻に指を入れたり、髭を描いたり、と好き放題にいたずらをしていく。もちろん、この木琴に魔法の効果などはないのだけど、バンディットは子どもたちにどんなことをされようとも、されるがまま止まっている。そして、形勢逆転で木琴がバンディットに手に渡ると、子どもたちもまたしっかりと動きを止め、仕返しを受け入れるのである。つまり、遊びのためにみんなで必死に“嘘”を成立させるのだ。そして、立ち上がる虚構の空間の中で、子どもたちは様々な役割を演じ、相手の立場や感情を理解していく。この“ごっこ遊び”による虚構の空間は、ドナルド・ウィニコットというイギリスの小児科医が唱えた「移行空間」「可能性空間」と呼ばれるものだろう。現実と空想が豊かに交流している場所こそ、人が本当に“生きている”と感じられる場所であり、そんな空間で子どもは安心して他者との関係を育てていくのだという。


ごっご遊びは、嘘という“罪”を共有するからこそ、互いの親密さを高める効果もがあるように思う。そして、その嘘を成立させるためには、演技が必要だ。いや、カナダの社会学者アーヴィング・ゴッフマンが言うように、日常そのものが舞台であり、わたしたちは誰もが常に何かしらの役割を演じているのだ。父、母、子もそれぞれ、家族という舞台の上で役割を演じている。バンディットは子どもたちと“ごっこ遊び”を重ねる中で、「ちゃんと父親らしく」あろうとする。子どもが生まれるやいなや親という存在になるということはない。最初は、“親ごっこ”から始まるのだ。「こうありたい」という願望を演じ、また一人の人間に戻っていく。ごっこ遊びと現実の反復のなかで、いつしか嘘が本当になり、親になっていくのではないだろうか。この“ごっご”には、偽物やまねごとのようなネガティブな響きはない。ただただ、愛と祈りによって支えられている。『ブルーイ』という作品がとびきりのユーモアとチャーミングさでもって、教えてくれるのは、そんな希望だ。



<ボーナス>
入門編としてシーズン1の個人的なSランクエピソードリストを添えておきます。まずはこのあたりを観てみてください。ちなみに、話数を重ねるごとにキャラクターの関係性が成熟していくのでシーズン2と3はさらに良いです。事実、シリーズを通して世界的に最も人気があるのはシーズン2「ネンネのじかん」「あかちゃんレース」、シーズン3「あめ」あたりでしょうか。異論なし。まじでどれも大傑作です。

シーズン1オススメエピソード
「まほうのもっきん」
「かげわたり」
「コウモリごっこ」
「じてんしゃにのろう!」
「ボブとあそぼう!」
「テイクアウト」
「ビーーーチ!」
「かわあそび」
「びょうきなんてこわくない!」
「まねっこ」
「キャンプ」
「かいぞくごっこ」

生方美久『Tシャツが乾くまで』2話


事実や倫理がひたすらに揺らぎながら、ドラマが進んでいく。これが『Tシャツが乾くまで』という作品のグルーヴであり、魅力だ。であるから、「不倫しているのか/いないのか」「充とあずさの本当の関係とは・・・」といった明かされていない真実を推察するのではなく、この揺れに身を任せるのが最も効果的な鑑賞法なのように思う。真実の捜査は、樹生と咲子に任せよう。

一緒に証明しましょ
こっちで証拠集めて すっきりしましょ

彼らは、まるで探偵もののようにコンビを組み、無実(もしくは有罪)の証拠集めの捜査に飛び出す。しかし、調査対象の直人(高橋文哉)や古本屋の主人(リリー・フランキー)には、嘘をつかれ、煙に巻かれ、捜査は難航に乗り出してしまう。いや、そもそも捜査そのものを否定されてしまう。

知らないけど 知ってても教えないよ
だってさ 夫に 言いたくなかったことなわけでしょ
死んだってプライバシーは守られるべきだと思いますよ

そして、不倫調査の果て、“ミイラ取りがミイラになる”かのように、探偵と助手の間に異様な親密さが発生してしまう。煙草というどこか罪悪感をまとった香りを巡っての抱擁、と呼ぶにはあまりにぎこちない接触が、2話のハイライトだろう。愛する者と同じ香りがした、ただそれだけで人は簡単にも惹かれ合ってしまう。中島歩と蒼井優のどこか昭和の名優たちのような佇まいが、触れたい/けど触れてはいけない、という古典的なラブストーリーを盛り立てる。ああいう緊張感こそを、“エッチだ…”と評したい。


2話(と言うよりも今作全体のかもしれない)の主題は、「人の抱く想いや築きあげる関係性に、ふさわしい言葉なんてそうそう見つからない」ということではないだろうか。これは脚本家の生方美久が『silent』から挑んでいるテーマだ。しかし、樹生は“ちょうどいい”が好き。Tシャツはジャストサイズを選ぶ。縮んだり、伸びたりすることを想定していない。であるから、「さくっと説明すると」「ね!」というように、あまりに簡単に言葉でまとめあげようとしてしまう。“羨ましい”と“憎たらしい”が混ざり合った複雑な感情を、簡単に「嫉妬です」と言葉にしてしまう。

言わないって 言えないってことです
言えないような いけないことしてたってことです

と樹生は言う。しかし、決してそんなことはないはずだ。それはあまりに簡単な決めつけだ。「いい人は倫理に反しません」という咲子の言葉も短絡的と言えるだろう。そんなちょうどいい格言みたいなものは疑ってかかるべきだろう。

“ね”・・・ってひと文字で同意 もとめないでください

という咲子の指摘が、この2話の最大のメッセージであるように思う。人の想いは簡単に言葉でまとめられない。

ちょっとずれちゃったり余っちゃったり
そういうのもああだこうだ言いながら楽しみたいんですけどね

とあずさが言うように、この世界には言葉という器から溢れてしまう“想い”や“関係性”というものが確かに存在する。そのことを証明するために、生方美久は物語を紡いでいく。皮肉なことに、“言葉”でもって。

生方美久『Tシャツが乾くまで』1話


これまでフジテレビにて『silent』(2022)や『海のはじまり』(2024)といった話題作を書き上げてきた生方美久が、キャリアにおいてはじめてTBSとタッグを組んで送り出す『Tシャツが乾くまで』、金曜日22時という放送時間を持ち出すまでもなく、山田太一の『岸辺のアルバム』(1977)というテレビドラマの金字塔を想起させる。『岸辺のアルバム』同様に、平凡なはずの家族が一つの事件を契機に決定的に崩壊していき、平穏なはずの日常は実は薄皮一枚のところで繋がっていて、それをめくると様々な感情の濁流が渦巻いている、ということを描こうとしているように思う。乾くまで待つTシャツが濡れているのは、『岸辺のアルバム』において氾濫した多摩川の濁流のせいなのだ、という妄想のように思考が飛躍してしまうほどに、この『Tシャツが乾くまで』に期待を寄せている。ドラマは、主人公である咲子(蒼井優)がロールキャベツを作っているところから始まる。ロールキャベツ・・・肉を野菜で包み込み擬態させるようなこの料理、欲望に薄皮を被せカモフラージュするようなフィーリングが託されているように思う。また、『岸辺のアルバム』は、氾濫する多摩川の実際の映像の後、小田原線の多摩川橋梁を捉えるショットで始まる。『Tシャツが乾くまで』にオープニングも同様に、川の上を走る高速道路、さらにその手前に掛かる2つの橋を捉えた俯瞰ショット。“橋”はこのドラマにおいて重要なモチーフであって、1話において頻出して映し撮られる。2つの家族の日常を決定的に破壊してしまう交通事故は、バスの“橋”からの転落。そして、すべての始まりと言えるコインランドリーは「橋を渡ってまっすぐのところ」と、何度も"橋の先にあること"を強調される。コインランドリーを起点として、樹生(中島歩)と咲子、そして満(松山ケンイチ)とあずさ(夏帆)もその橋を渡っているということ。樹生と咲子は共に橋を渡るショットが撮られている。さらに、長野県の事故現場からの帰りに発される

だから・・・あの・・・助け合いませんか?

という樹生の咲子への提案も、橋を渡りながらなされる。あずさがバイト先の古本屋で立ち読みしている三島由紀夫『愛の渇き』においても、“橋”は重要なモチーフとして登場し、主人公が橋を渡るたびに理性や社会性を剝ぎ取り、欲望に世界に近づいていくような描き方をされている。このドラマにおいて、橋を通過することは、日常の薄皮を剥がしていくことなのだ。そして、この“通過”という感覚は、フィルターという形でドラマに表出する。充が掃除するエアコンや乾燥機のフィルター。さらに、充は喫茶店のマスターとしてコーヒーフィルターにお湯を注ぎ、煙草のフィルターを通して煙を吸う。充は、社会性のようなものを濾過して、人間の本質を剥き出しにしたい人なのだろうか。一方で“好きな人フィルター”というように、ポジティブなバイアスをかけるものとしてフィルターは描かれている。そういった意味でのフィルター効果の偽りこそが、日常をギリギリのところで維持させているということだ。非常に切れ味が鋭い。さらに、撮影においてもソフトフィルターをかけて、画面の奥にいる人物の芝居をあえてボカし、隠蔽するという演出まで見受けられる。筋運びも描かれる感情も一筋縄ではいきそうにない。1話のベストシーンは、夫が行方不明なったことを報じるニュースをホテルの部屋のテレビで眺めながら、服の匂いを気にして洗濯を決意するシーン。涙を流すのは帰路について洗濯物を畳みながら、というのも良い。人間の機微を描こうという決意を感じる。ベスト演技は息子の前で気丈に振る舞う中島歩の表情と発話です。それを察する齋藤飛鳥の演技も良かった。中島歩、蒼井優といった充実の役者陣の高度な演技に支えられ、このドラマがどんな境地に辿り着いていくのか、楽しみでならない。

蛭田直美『銀河の一票』最終回直前レビュー


今期最も熱いドラマ『銀河の一票』がいよいよ最終回ですね。ドラマの放つ志の高さに、何度泣かされたことでしょう。現実世界はこんなにも悪意に満ちているのだから、フィクションの中では、泣きそうになるくらいの”きれいなこと”に触れたい、とわたしは思う。そして、フィクションの力をまだまだ信じたいのです。


カルチャーメディ『NiEW』に最終回直前までのレビューを寄稿しました。ぜひお読みください。
niewmedia.com

弥重早希子『エラー』


テレビ朝日系で放送されている『エラー』がまもなく最終回を迎えるわけだけども、これがなかなかに見応えあるドラマなのだ。脚本は弥重早希子のオリジナル。大枠でまとめるならば、加害者と被害者という本来であれば交わらざる立場の人間が強い友情関係を構築していく、というあらすじで、どうしても想起させられるのは『それでも、生きてゆく』(2011)だろう。決して似た作劇でないのだけども、『エラー』の登場人物の抱える“生きづらさ”には、坂元裕二作品のたしかな息吹を感じる。ミスではなく“エラー”であるから、そこには不注意や不用意といたこと以上に、規則や規範からの”ズレ”が託されていて、劇中では“はみ出してしまう”人々が描かれている。それでいて、いかにも坂元裕二フォロワーといった感じで名言めいたものを喋らせるのではなく、ひたすらに平易な会話の応酬だけで物語を作り上げていく弥重早希子の筆致に好感が持てる。主演の畑芽育と志田未来の体現するわざとらくないズレも良い。生活をしている人の実存がどっしりと携えながらも、社会から疎外されてしまう、という絶妙な感じが見事に演じられている。『不適切にもほどがある!』(2024)や『平場の月』(2025)でも注目の坂元愛登の儚さも良いですね。


畑芽育が演じる主人公のユメは、とにかく間違えてしまう女性だ。たとえば、高校卒業後に就職したラーメン屋では、店内を綺麗にしようと汚い鍋の中身を捨てたら、それが継ぎ足し58年の伝統のタレであって、クビになってしまう(ここらへんのユーモアというかエピソードの癖みたいなところにも坂元裕二の影響を感じる)。悪意は一切ないにも関わらず、あらゆる場面で選択を間違え、窮地に陥り、他人をイラつかせてしまうのがユメという人間。そして、物語はユメの大きな“過ち”から始まる。廃墟ビルの屋上で自殺しようとしていた女性を目撃して、善意から説得を試みる。なんとか自殺を踏み留まらせることに成功した矢先、飛んできた鳩に驚いた弾みで女性の背中を押してしまい、転落死させてしまう。そして、その転落により通行人が負傷し、意識不明の重体。ユメは現場から逃亡し、初動捜査を誤った警察によって事件は自殺として処理され、転落した女性の娘は、重体となった通行人の家族から損害賠償を請求されてしまう。エラーが連鎖していき、どんどん取返しのつかないことになっていく。


そんな息詰まる展開の中で、ユメと転落死した女性の娘である未央(志田未来)の、魂の結びつきとし呼びようのない、“わかりあってしまう“関係が微笑ましく描かれていく。ユメは事件の真相を未央に伏せたまま、罪悪感を抱えながらも、どうしても友情の甘さに抗えず関係を強固にしていってしまう。途中ややダラダラする展開はあるものの、ep5「口がすべる」は傑作回と呼んで差し支えないないだろう。カバンを落とす、塩辛を買い忘れる、前髪を切り過ぎる、カーディガンの裏表を間違える、ゴミ箱につまずく、トイレットペーパーを買い忘れる、変なタイミングで届く宅配寿司、事故停止するエレベーター・・・というように、タイトルの“エラー”になぞらえながら、あらゆる過失をひたすら繋ぎながら、物語を転がせていく筆致が圧巻。そして、エレベーターで居合わせただけの人に、「あっ、裏表逆ですよ」とカーディガンの着間違いを未央が指摘したことを契機に、ユメは突如として「わたしが未央ちゃんのお母さんの背中を突き落とした」と告白を始める。これまで積み上げてきたものが瓦解していく様をエレベーターの故障と未央の絶叫で描くという演出の確かさにも痺れる。


全8話のようで残すところ1話。自分の中の罪に向き合うことでしか他者の罪を許せない。嘘と悪意と過ちに満ちながらも、愚かな人間への愛情深い観察力が貫かれていて、どこかユーモアとキュートさが溢れるこのドラマの結末を見届けたい。