青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

最近のこと(2022/11/24~11/27)

両親と妹が甥っ子たちを連れて大阪に遊びに来てくれた。大阪城中之島のバラ園を駆け巡るなどして、甥っ子との距離もだいぶ縮めることができた。甥っ子1号は3歳なのだけど、この小さな頭の中にこんなにも複雑な感情の機微が駆け巡っているのかと驚いてしまう。「うれしい!」とか「かなしい!」とかそんな単純なものではなくて、色んなフィーリングが折り重なって、喜んだり、照れたり、機嫌が悪くなったりしている。自分が子どもだった時もきっとそうだったのだろうけど、それをついつい忘れてしまう。

お土産に「鳩サブレー」をいただいた。関西では買うことができない鎌倉は豊島屋の名菓。わたしの両親、センス◎。わたしは素朴ながらバターの風味がたっぷり広がるこのサブレーをこよなく愛している。他の鳥や動物を模した類似品サブレーは多々あるけども、やはり鳩サブレーに特別な思いを持っている。なにか鳩サブレーに不随する思い出があるわけではないし、最近ではラランドの事務所に西田の両親(鎌倉在住)が大量に送ってくるので邪魔」というエピソードが連想されてしまう程度なのだけど。さらに、「萩の調」というお菓子もいただいて、「萩の月」のまがい物かなと思ったら、菓匠三全が製造しているれっきとした「萩の月」の姉妹品だそうだ。全国お土産菓子ランキングの常連と言えば、北海道「白い恋人」、仙台「萩の月」、福岡「博多通りもん」あたりがすぐさま頭に浮かぶと思うが、鎌倉「鳩サブレー」はそこを上回るくらい好き。さらに言えば、わたしのお土産ランキング1位は幼い頃に父が福岡出張の際に必ず買ってきてくれたロイヤルのスイートポテトだ。ロイヤルというのは、ロイヤルホスト・てんや・シズラー・シェーキーズ(なんてウットリする並び)などを展開するあのロイヤルグループで、今ではロイヤルホストでもあのスイートポテトを買うことができるし、なんならセブンイレブンのやたらとうんまいスイートポテトもロイヤル産なのである。ロイヤルホストと言えば、藤井隆『Music Restaurant Royal Host』は今年の愛聴盤であるし、アルバムのリリースに合わせて店舗で配布していた「私とロイヤル」というコラム冊子も素晴らしかった。

Music Restaurant Royal Host (通常盤)(特典:なし)

Music Restaurant Royal Host (通常盤)(特典:なし)

  • アーティスト:藤井隆
  • よしもとミュージック
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藤井隆のフェイバリットメニューの一つ「国産豚ポークロースステーキ~ジンジャーバターソース~」は恥ずかしながらこれまで目に入っていなかったメニューで、さっそく注文してみたのだけど、当然のように美味しい。火加減が難しいそうだし、ソースも複雑なバランスだし、このクオリティを当然のような顔でチェーン展開しているのがかっこいいのだ、ロイヤルホストってやつは。YouTubeにあがっている藤井隆による「Royal Host 50年の歩みと未来を」という動画も迸るロイホ愛に痺れるとともにその歴史をおさらいできる秀逸な出来栄えなのでぜひご覧いただきたい。

11月24日木曜日

健康診断で肝機能が再検査になってしまい、病院で精密検査。精密検査というのが何をするのかどれくらい時間がかかるものなのかわからなかったので、1日有給休暇をとったのだけど、エコー検査と採血の1時間ほどで終わってしまった。お酒も飲まないし、エコー検査の感じだと何も悪くなさそうなので、なんかウィルスでも入り込んでいたのかもねとのこと。ウィルスなんて入り込んでいて本当に大丈夫なのか、肝臓。詳細結果は1週間後である。

せっかくの平日休みとなったので、京阪電車に揺られて(「乗って」ではなく、「揺られて」と言うようにすると有村架純に好かれるらしいということをわたしたちは『花束みたいな恋をした』で学んでしまった)、京都へ。

『POPEYE』の最新号が長谷川昭雄の関わった京都特集であったので、しっかり影響を受けて、まずは三条の「篠田屋」で皿盛りをたいらげる。昼時なので並んでいたけども、回転が速くすぐに席に着けた。皿盛りは米にカレーうどんの餡が乗っている和風餡カレーのような食べ物。熱々の餡で身体がポカポカになり、秋の京都であっても、コートがいらないくらいであった。東山区にある「一澤信三郎帆布」まで歩き、店内を物色。『POPEYE』の長谷川昭雄のディレクションした誌面の中で、2泊3日くらいの旅行にも使えそうな大きな一澤帆布制タグのトートバッグが使われていて、それが気になっていたのだけど、実物を目にしたらあまりの大きさに躊躇してしまった。しかし、布の質感や作りの丈夫さがとても気に入ったので、L.LBeanのMよりはややコンパクトなトートバッグを購入した。自分にレンガ色、妻へのお土産にネズミ色を選んだ。まったく知らなかったのだけど、一澤帆布は2000年から2010年あたりにかけて、泥沼の相続トラブル訴訟合戦が繰り広げられていたらしい。おもしろいと言ったら失礼なのだけど、あまりにおもしろいので、ぜひWikipediaなどをお目通しいただきたい。これまで父とともに会社を支えてきたというのに、第2の遺言状を手にした長男(元・銀行行員)に突如会社を追い出されてしまう三男。しかし、職人たちは三男を支持し、全員が一緒に退社。さらには寺の住職や京都の有力者たちが三男を応援し、募金活動まで始めるという激熱の流れ。そこに、すでに故人である次男や職人気質の四男が絡んでくるなど、あまりにキャラが立った展開。こんなの日曜劇場でドラマ化まったなしだ!と思っていたら、とっくに池井戸潤が『かばん屋の相続』という小説を献上していた。こちらではなく、ドラマ化に選ばれたのが『陸王』ということか。

京都のバスや地下鉄がどうしても乗りこなせないので、最近ずっと聞いているTex Crick 『Live In... New York City』を耳に流しこみながら、秋晴れを全身に浴びて歩いた。

Mac DeMarcoがミックスや軽いプロデュースを担当したナイスなピアノポップ集。紅葉が見たいなと思ったけども、調べるのが面倒になってしまい、銭湯を目的地としてしまういつものコース。「白山湯 高辻店」か「五香湯」で悩み、広い後者を選んだ。軽くサウナを3セットこなし身体をリフレッシュさせ、すぐ近くの「まるき製パン」で買ったコロッケパン(絶品)を頬張りながら帰路に着くための京都駅を目指す。道すがら立ち寄った西本願寺で「逆さ銀杏」を眺める。空に向かって根を張っているように見えるから逆さ銀杏と呼ばれているそう。何度かの大火事でも燃えなかったという逸話が美しさに箔をつけている。

11月25日金曜日

仕事は神戸方面を外回り。車の中で『田中宗一郎-THE SIGN PODCAST』の「お笑い地政学氷と炎の歌~」を2エピソード分聞き終える。お笑い回は炎上の匂いしかしないぞ、と聞くのが怖かったのですがおもしろかった。最近はやっと仕事が落ち着いてきたので、文章を書く余裕が生まれてきた。帰宅するとコートが届いていた。なぜだか急に古いバーバリーの玉虫色のステンカラーが欲しくなってメルカリで調べまくって、イングランド製の80年代くらいのコットン100%の玉虫色を非常にお手頃価格で購入できた。しかも、ライナー付き。内ポケットに知らない人のネームが刺繍で入っているけども、それも受け継がれてきたという感じがして良い。状態も悪くないし、さして調べず買ったわりにサイズもピッタリだった。わたしはメルカリが結構上手いと思う。ご飯を食べながら『有吉&マツコのかりそめ天国』を観る。加賀まりこが若手芸人に詳しいことになぜかうれしくなってしまった。そのまま『ミュージックステーション』も桑田佳祐が出演というので最後まで観てしまった。ソロデビュー曲「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」はユニクロのCMの影響もあって今年はよく聞いた。思わず口ずさんでしまうパワーがある。『M-1グランプリ』の準々決勝動画をチェックし終える。金属バッド、ランジャタイ、チェリー大作戦、さすらいラビー、TCクラクション、滝音、シシガシラ、セルライトスパ、軍艦あたりが個人的には好みでした。しかし、準決勝はすんごいメンバーですね。眠るまでNetflixで『First Love 初恋』を観た。一目見ただけで、お金がかかっているのが伝わってくる。

11月26日土曜日

ひさしぶりに昼前まで眠っていた。コートをクリーニングに出して、谷町四丁目の「カレーショップダール」でお昼ごはん。「はやい・やすい・うまい」を体現した名店。大阪カレーの「欧風カレー部門」ではここが結構上位にランクインするかも。このあたりは会社も多いので平日は大いにサラリーマンの胃袋と気力に貢献していることでしょう。谷町四丁目では「グリルステレオ」という洋食屋さんもオススメ。ここは平日しか営業していないので、なかなか行けないのだけど。食事を済ませて、歩いて南森町の床屋で散髪。もういい歳なのだけど、このお店ではいつも最年少のお客だ。若者向けの床屋も増えてきたけども、ここはそういった時流には乗らずに地元に根付いて営業していて、この店と一緒に歳を重ねたであろう常連さんで賑わっている。「天牛書店」と「矢野書房」を覗き、帰宅。小西康陽 with 矢舟テツロー・トリオのワンマンライヴ『小西康陽小西康陽を歌う』の配信チケットを買って観ようと思ったら、昨日までだった。めちゃくちゃショック。途方に暮れてYouTubeにて柴田聡子が眼鏡の聖地・鯖江に行く動画と赤もみじのドキュメンタリー『道程』をチェック。

Roos Jonker & Dean Tippetのアルバムをスピーカーで流して少しうたた寝。このアルバムは昨年のお気に入りの1枚なのだけど、レコードを購入し損ねたことを非常に後悔している。妻が仕事から帰ってきたので夜ご飯。ブックオフ五味太郎『正しい暮らし方読本』を買ってきたというので読ませてもらったところ、これが実に素晴らしい本であった。タイトルとは裏腹に“正しさ”からの解放が描かれていて、そのユーモアとアナーキーな態度に感銘を受けた。アイスを食べながら『First Love 初恋』の続きを観る。佐藤健が劇中でもハーゲンダッツを食べていた。

11月27日日曜日

『First Lobe 初恋』の影響で無性にナポリタンが食べたくなり、天満橋の喫茶店を目指して散歩。Googleマップでは営業中になっていたけども、お休みだった。どうしてもナポリタンの口になっていたので、意地になって歩いて探し回り、天神橋筋商店街に店頭にナポリタンの食品サンプル掲示している「モーデン」という喫茶店を見つけ歓喜。まさに探していたケッチャッピーな王道のナポリタンでたいへん満足した。梅田まで歩き、「サウナ&スパ大東洋」にショートコース。ひさしぶりに来たら、10度以下に保たれた1人用の水風呂というのが新しく設置されていた。大阪サウナーであるならば、「ニュージャパン派か、大東洋派か」というのをはっきりさせておきたいもの。実に甲乙つけがたいのだけど、少しだけニュージャパン派だ。風呂上りにジュンク堂書店紀伊国屋書店を眺める。梅田駅で妻と合流し、紅葉が色づいている箕面の滝のライトアップを観に行った。箕面駅に降り立った瞬間、ヒンヤリと澄んだ山の空気が鼻を抜ける。滝へと続く道には、大阪で1番お気に入りの古本屋「ひなたブック」がある。絵本、児童書の品揃えが強く、ここで長新太佐々木マキの絵本をコツコツ買い集めている。この日は池波正太郎『銀座日記』、平松洋子『焼き餃子と名画座 わたしの東京味歩き』、沢木耕太郎『旅のつばくろ』などを購入。日記やエッセイ旅行記の書き方を学びたいと思い、目についたものを手当たり次第読んでいっている。紅葉はやや見頃を過ぎていたが、ライトアップされた滝をカメラにおさめるとまるで絵のような写真ができあがった。

帰宅して、『First Love 初恋』を最後まで観終える。後半は文句ばっかり言っていたけど、終わってしまうと少しさびしい。宮藤官九郎の『流星の絆』がTVerで観られるというので1話を観た。めちゃくちゃ画面が古びているのと衣装の安っぽさが気になった。三浦友和は最高。まだ芸能覇王色を放つ前のバナナマン設楽統扮する刑事の「ぜってぇ つかまえっかんな」は当時よく真似した記憶がある。AmazonブラックフライデーセールでiPad用のキーボードを買う。これできっとモリモリとブログを更新していく気力が湧いてくるに違いないのである。結局、文章を書く楽しさはキーボードを打つ快感と同義であるので、いつかはHHKBの高級キーボードが欲しい。あれはたぶんプログラマー用とかなのだろうけど。

寒竹ゆり『First Love 初恋』


どこか憤りを感じながらも一気に視聴してしまった。停止ボタンを押すことができないということは、それなりに楽しんで観ていたことは否定できないのだけど、その求心力は満島ひかりという俳優の魅力に寄るものであって、脚本自体は思いついたことを思いついた順に書き綴ったかような構成の稚拙さがどうしても目につく。このエピソードを視聴者を提示するタイミングは果たしてここで正しいのか?という疑問がひたすらに沸き立っていく不快感。一方で、その荒っぽい筆の乗り方が醸し出す濁流のような勢いが作品の魅力でもあって、視聴しながらああだこうだ感想を述べているうちに全9話約10時間があっという間に過ぎ去っていく怪作だ。劇中に何度も登場するナポリタンが食べたくなったり、ひさしぶりに宇多田ヒカルの1stアルバムを聞き直してみたり、さらには『タイタニック』(これも劇中に登場する)を観直してみたくなったりもしていて、意外と心に残ってもいるのかもしれず、作品への評価の判断がつかないままにこの文章を書き進めている*1


監督と脚本を兼任している寒竹ゆりは岩井俊二の正統な弟子筋であって、仕方ないにせよ「“平成”というのは岩井映画のことである」というような誤った時代認識を持ち合わせていて、彼の代表作の意匠のトレースが作品の骨幹を成している。『Love Letter』や『四月物語』に倣って北海道を舞台に選ぶなんてのはかわいいものだけども、上京した主人公が暮らすアパートが『スワロウテイル』の無国籍な“円都”のようなヴィジュアルであるのにはいささかはてなマークが浮かんでしまうというか、もっと普通に平成の風俗を再現すべきなのでは。それでも、離婚した父親との再会の場に鰻屋を選ぶという『花とアリス』のマニアックな引用にはニヤリとしてしまうし、岩井俊二チルドレンを全うするのであればそれはそれでいいのだけど、どうやら寒竹ゆりは坂元裕二と韓国ドラマへの憧れも持ち合わせているようなのだ。シングルマザー、交通事故、記憶喪失、手話、格差婚、自衛隊、震災・・・と本来一つあれば充分なトピックやモチーフが渋滞している。そうすると、登場人物への心情へ寄り添うのが困難になってくるし、ナポリタンや白桃の缶詰やコーンポタージュといった細部、セリフ廻しや物語展開といった全体までが何かの偽物のような印象を抱いてしまうのだった。


CD、環状交差点、コインランドリー、火星といった“回転”のモチーフを数多に駆動させながら、タクシー(孤独と出会いのメタファー)が走りぬけ、約20年という時の流れを描いていく。今作は宇多田ヒカルが1999年にリリースした「First Love」と、2018年リリース「初恋」という2曲にインスパイアされたものであり、つまりは

You are always gonna be my love
いつか誰かとまた恋に落ちても
I’ll remember to love
You taught me how

という「忘れられない恋」についての物語。しかし、宇多田ヒカルの楽曲は、「その忘れられない恋は次に会う誰かとの恋にも息づいているよ」という歌であって、歌詞に倣うのであれば

今はまだ悲しいLove Song
新しい歌 うたえるまで

となり、次に進んでいくということを勇気づける。今作のように、本当にずっと忘れられず、しっかりと再会しを果たしてしまう話というのはどうにも違うのではないかなという気もする。まぁ、一般的にはラブストーリー(殊更開かれたテレビドラマにおいては特に)は結ばれてなんぼなのかもしれないので、そこは好みの問題だろう。今作においては、「運命の相手」というのがなにより重要で、劇中の言葉を借りるのであれば、最愛の人に出会える確率は60億分の1、その奇跡を称える。であるから、今作では異様に人が密集している画が映し撮られている。晴道の実家の密度からはじまり、タクシー会社、街並み、公園、学校、パーティー、空港、結婚式、自衛隊・・・そのどれにもびっしりと人が配置されいて*2、さらには劇中においてしつこいほどに人と人とがぶつかるシーンをカメラが捉えている。この画面の質感が「無数の人々の中からたった1人の君を見つけ出す」という奇跡をより感動的なもに仕立てあげていると言えよう。


視聴の上でなにより気になってしまったのが、主人公の過去と現在を演じる八木莉可子満島ひかりが同一人物として頭の中で結びつかない点だ。八木莉可子は悪くないどころ好演しているのだけど、どう考えても彼女とタクシードライバー満島ひかりは別人なのだ。そういうホラー展開なのかなと邪推してしまうほどに*3。なにも見た目が似ていないという話ではない。満島ひかりというのはあまりにも個別の存在であり、その魂みたいなものは誰にも似つかないからだ。すべての人々にすべての感情が届きますように、と祈るかのようなあの発声と表情。そして、どにも拠り所がないかのような身体の窮屈さ。それでいて、命が弾けるようなあの躍動を誰が真似ることができようか。あの坂元裕二にして、「“一緒にもういる”って感じなので」と言わしめる存在であって、彼女の発する言葉は坂元裕二が書くそれと限りなくイコールに近い。だからなのか、満島ひかりによって発される台詞はまるで坂元裕二ドラマのように響いてしまう。と考えると、寒竹ゆりが坂元裕二に憧れているのでなく、満島ひかりが呼び起こす磁場がそうさせているのかもしれない。満島ひかりの一般的なイメージは、「薄幸な役柄が似合う人」であるらしい。今作においてもシングルマザーに育てられ、自身も離婚し子どもと離れ離れに暮らすという役柄。満島ひかりはシングルマザー以外の母親役を演じたことがあるのだろうか。「何かを損ない、傷つき、社会と適応しきれない人」というのを演じるのが抜群に上手いのはもちろんなのだけど、そういった苦境の中においても、なお懸命に良き方向へと進んでいこうとする魂の葛藤を表現することができる役者であるから素晴らしいのだ。今作においてもその力はいかんなく発揮されている。

*1:貶すのか褒めるのかよくわからない文章になってしまったので、読んでいて爽快感はないことでしょう

*2:それだけで予算の高さを感じ、リッチさが際立つ

*3:この2人の像が結びつかないというのは、それなりの理由が用意されてもいるのだけど

生方美久『silent』6~7話

<イントロダクション>

ジョン・アーヴィングというアメリカの小説家がいて、彼のデビュー作『熊を放つ』(1968)の中に、

過去の恋人も君たちの親みたいなものだ

と子に語る父親が登場する。さらに、RADWIMPSがアルバム『RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜』(2006)の中で発表した「me me she」という楽曲があって、そこではこんなリリックが野田洋次郎によって歌われる。

僕が例えば他の人と結ばれたとして
二人の間に命が宿ったとして
その中にもきっと 君の遺伝子もそっと
まぎれこんでいるだろう

RADWIMPSme me she

どちらも10代の頃に触れた時は「なんか気持ち悪いな」と思ったものだけど、あれから年月を重ね、人間というのはそういう風にできているような気もしている。坂元裕二のドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(2021)の中では、松たか子演じる主人公が、離婚した元夫にこんな言葉をかける。

別れたけどさ 今でも一緒に生きてると思ってるよ

別れたけど、一緒に生きている。「遺伝子にまぎれこんでいる」とまでするといささか抵抗があるかもしれないが、つまりはそういうことだ。恋をすること、いや、人とコミュニケーションするということは、自分自身の一部を分け渡すということなのだ。互いの一部を交換(交感)し、混ざり合っていく。

<混ざり合うということ>

生方美久の描く『silent』もまた、イントロダクションにおける理念のようなものがドラマ全体に貫かれているように思う。そうであるからこそ、紬(川口春奈)と想(目黒連)という主役の2人の恋以上に、湊斗(鈴鹿央士)や奈々(夏帆)といった一般的には当て馬と呼ばれるようなキャラクターの恋模様や心情をこれ以上ないほどに丁寧に描いていく。それは、主役である紬と想の現在を形作っているのが、湊斗や奈々であるからなのだ。それは6話と7話に登場した以下の2つの台詞に集約されるだろう。

(湊斗と過ごした)この3年あっての姉ちゃん(紬)だから

今の佐倉くんがいるのは奈々さんのおかげなんだなって思って

湊斗と奈々の恋心は結実しない。しかし、2人の魂は確実に紬と想に受け渡され、混ざり、溶け合っている。この“混ざり合う”というイメージを『silent』という作品において駆動させているものは多々ある。まずは、“ハンバーグ”だろう。紬と湊斗の間で何度も話題に上がり、ファミレスで注文されるだけでなく、紬よって手作りされ、挽肉とパン粉を“混ぜる”シーンすらしっかりと画面に映し撮られている。紬と湊斗の恋は、この混ぜることで作られるハンバーグで始まり、ハンバーグで終わる。ハンバーグは紬と湊斗の象徴だ。であるから、湊斗と別れた紬は、想との食事の際に、一度は「何でもいい」としながらも、「やっぱりハンバーグ以外にして」と提案し直す。しかし、そこで想によって選ばれたのは“お好み焼き”だ。ハンバーグ同様にやっぱり混ざり合ったもの。また、ハンバーグよりも先に紬と湊斗の気持ちを交感させたのは、”犬と猫“(異種が混ざり合っている)の仲良し動画であったし、紬が愛する”パンダ“や、想と湊斗を繋ぐ”サッカーボール“も、どちらも白と黒が混ざり合ったものだ。最も印象的なのは、5話において湊斗がベッドで見る夢と、紬がハンバーグをこねながらする回想が”混濁“していた点だろう。さらに、7話では、「互いに耳が聞こえていて、声で話し合う」という奈々の切ない祈りの夢を、想が違う場所・違うタイミングで同じように見ていたという混濁が描かれる。どちらも2組のカップルの別離を描くと同時に、魂のようなものが混ざり溶け合っていく。

<受け渡すということ>

混ざり合うためには“交換”や“受け渡し”が必要で、このドラマにおいて、それらは多岐にわたって描かれている。もっともわかりやすいのが、CDや本の貸し借り、もしくは一緒に観た/聞いた映画や音楽だろう。

今度CD貸すね

高3の時 アルバム全部一気に想に借りてさ スピッツ

紬が教えてくれた音楽とか映画とか いいねって感想しか言えなくて
俺 ホントつまんないから

わたしの好きな音楽とか映画とか 全部いいねってしか言ってくれなくて
教え甲斐ないし

じゃあ萌が(お兄ちゃんのCD)もらう 萌の部屋運ぶね

想くんが勧めてくれる本、正直あんまりおもしろくなかった

愛するカルチャーをオススメすることは自分の魂の一部を交換し合うことのようだ(であるから、想は聞けなくなったCDを捨てないし、萌はそのことを理解している)。想が愛読している作家だからと、奈々がわざわざ図書館で借りてまで手にした峯澤典子の詩集。内容は難しすぎたとしながらも、それは紬と奈々の間でも共有される。想から紬に分け渡されたスピッツの音楽は紬の頭に想だけでなく、湊斗の記憶を呼び起こす。本やCDの貸し借りだけでも複雑に絡み合っていくのだが、その複雑な“受け渡し”の最たる例は手話だろう。奈々が想に教えた手話を、現在は想が紬に教えている。さらに、(おそらくなのだけど)紬が春尾先生(風間俊介)から教わっている手話もまた、奈々から春尾先生に渡されたものなのだ。

プレゼント使い回された気持ち
好きな人にあげたプレゼントを包み直して他人に渡された感じ

この複雑な譲渡を、6話において奈々はこう表現する。しかし、「今の佐倉くんがいるのは奈々さんのおかげなんだなって思って」と懸命に手話で伝えてくる紬を見て、

今はおすそ分けしたって気持ち
あげて良かったって気持ち

と心変わりしていく。想の中に奈々がいて、そんな想を通して紬の中にも奈々がいる(今も一緒に生きてる)。であるならば、奈々の報われなかった恋にも意味があるように思えてくる。これが、主人公2人の恋路を遠回りさせてでも、描きたかった生方美久の肯定の筆致であり、それが

聴者とろう者と中途失調者
みんな違うから
わかり合えない

という劇中の言葉を否定していく。どんなに違うわたしたちでも、言葉や感情を交わしていくことで、混ざり合い、わかり合っていく。


7話におけるハイライトは、図書館で子どもと触れ合う想を見かける奈々のあの表情だろう。「あぁ、この人のことを好きになってよかった」という顔。「わたしの恋は叶わなかった。でも、“この人のことを好きになった”その事実が、これからのわたしの人生を救ってくれる」と確信する顔*1なのだ。この情報量を表情だけで伝えきる夏帆という偉大なる女優に目一杯の賛辞を。

*1:この恋を思い出していつかきっと泣いてしまう

けらえいこ『あたしンち』


あたしンち』は素晴らしい、心から素晴らしい作品だ。心がしんどくなった時に摂取するカルチャーというものがあって、そのラインナップ(他にはアニメ『キテレツ大百科』やQ.B.B.中学生日記』などがある)に常に鎮座しているし、そんなものとは関係なしに、ついつい本棚から手に取ってしまえる“気楽さ”とか“親密さ”のようなものが作品に備わっていて、色んな場所で、それこそお風呂やトイレなんかにも連れ出してはパラパラとページをめくっている。たぶん人生で1番読み返している漫画だと思う。『あたしンち』を読むということはわたしの中で、時には解体されそうにもなる日常を維持していくことと同義なのだ。

「母じょうねつ編」「みかん青春編」「父の愛情編」・・・といったようにテーマごとに編まれた2019年からのベスト版の刊行やTwitterYouTubeを駆使した原作やアニメのプロモーションにより(SNSと『あたしンち』の相性の良さ!)、そのファンの声はだいぶ可視化されるようになってきたが、まだまだ足りないように思う。別の媒体に寄稿した文章の中にも書いたのだけど、この国の三大“家族”漫画と言えば、『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』、そしてこの『あたしンち』で決まりなのであって、けらえいこ(と共同制作者である上田信治*1)の作家としての地位は長谷川町子さくらももこといったレジェンドと同等であってもなんらおかしくないのである。一方で『あたしンち』の凄さを語るのは実に難しいのもまた事実だ。端的に書いてしまえば、作者の日常に向けた観察眼とその瑞々しいスケッチ力。そしてその日常から発展していく生活していくことへの思考の流れのようなものが、小学生にでもわかるように平易に綴られているところ。つまりは“生きる”ということの細部を描いている点にある。この作品がなければ、見過ごされてしまったであろう、生の“シーン”というのが無数に存在するように思う。であるから、その魅力を語るのであれば、あのエピソードでのみかんの心情!とかあのエピソードの父の表情!(パッと思いつくのだと、♯199「明日死ぬって言われたら?」で人生論の本を読み終えた父の表情とか物言い)というように細部を拾い挙げていくのが最も適しているような気もするのだけど、20巻以上に渡る作品に対してそれをやるのも・・・と筆を悩ませる。それを無理にやるのであれば、ユズヒコ(中学2年生の長男)というキャラクターを敬愛しているわたしであれば、ユズヒコの床屋で前髪を短くされたくないという抵抗、鼻をかんだチリ紙を一発でゴミ箱に投げ入れることができれば「明日のテストが上手くいく」という謎の願掛け、ブリーフからトランクスへの移行タイミングの難しさ、真夜中の空腹を癒すハムとチーズとマヨネーズの食パン、好きなアイドルを公表できないもどかしさ、フォーク並びという概念を後ろに並ぶ人に伝えるかの葛藤、深夜に茹でるソーメン、好きでもないアイドルが夢に出てきてドキドキしたこと、父とは母を通してじゃないと会話しづらいとこ、バカなまねすると周りをしらけさせてしまう、サングラスをかけた自分の顔が気になるけど恥ずかしくかけられない・・・などなど有限なくスルスルと出てくる。「ユズヒコ、お前は俺か」とうれくしくなってしまうのだけど、『あたしンち』は“あるある”だけで構成されているわけではなく、母やの奇行をはじめとする”ないない”が絶妙な塩梅でミックスされている点が秀逸なのだと思う。その“ないない”というのは、“存在しない”というのではなく、わたしの人生には“ない”けれども、どこかにたしかにその人のオリジナルとして“ある”のであろうという固有性であり、それは生命の煌めきのようなものである。であるから、『あたしンち』を読んでいると、この一回性の人生の尊さよ・・・といったところにまで思考が辿り着いてしまうのである。

今一度、キンモクセイの名曲「さらば」をバッグにしたアニメ版のオープニングを見返したい。

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フルカラーの『あたしンち』登場人物たちに対して街行くモブキャラクターは灰色に塗られているのだけど、それが中盤に差し掛かると反転し、タチバナ家の面々が灰色となり、モブキャラクターが色づいていく。そして、最後は街の家々の灯りを俯瞰で捉えたショットで終わる。

こんにちは ありがとう さよなら また逢いましょう

まさに、街ですれ違う人々、その一人一人に物語、命の輝きがあるということを表現しているではないか。

また、『あたしンち』が単なる“あるある”漫画の域にないことを証明するエピソードとして、♯202「日曜日のもやもや」を挙げたい。日曜日、わけもなく1日中悶々としているユズヒコ。部屋で暴れてみたり、本屋で立ち読みしてみたりするものの、もやもやは解消するどころか悪化していく。しかし、道端で偶然にクラスメイトと遭遇し、他愛もない会話を交わすと、心が何故だかスッキリしていた。「日曜日のもやもやは寂しさが原因かも」と締めくくられるのだけども、この読後感はもう“あるある”というレベルを超えている。『あたしンち』を読むことで抱く、「同じ想いや感情を抱えた人々が実は無数に存在するのかもしれない」という実感、これは緩やかな連帯のようなものであって、人が生きる上での埋め難い孤独をソッと慰めてくれるのものである。

こんだけ書いても、他にもしみちゃんとか吉岡とか岩木くん(めちゃ素敵、漫画界No.1)とか宮嶋先生(めちゃ駿、宮嶋先生の本棚知りたい)とかひとみ先生(牛鬼)とか藤野とか石田とか須藤ちゃんとか川島とか好きなキャラクターがいっぱいることとかをまったく伝えることができないのがもどかしい。好きなタチバナ家の献立とか、タチバナ家がシリアルをやたら好きなこととか(シャコシャコという擬音、「牛乳のないコンフレークなんて!」)。また、『あたしンち』をこれほど敬愛していながらも、2019年から『AERA』に掲載場所を移して『あたしンちSUPER』として復活していたことを把握していなかったことを恥じます(単行本もすで1巻出ています)。

タチバナ家の面々がマスクをして生活し、UberEatsを注文していたりする。『あたしンち』のキャラクターを現代を生きる同志として暮らしていけるのがうれくしてなりません。

*1:今年刊行された上田さんによる『成分表』も必読。思考の教科書であり、あぁこの人がユズヒコなんだなということがわかる1冊です

最近のこと(2022/11/05~11/07)

有給休暇を取得しての3連休を使って、東京旅行へ。昨年末に東武練馬のマンションを引き払い、住民票も大阪に移した。わたしにとって東京はもう旅先になってしまった。飛行機を使ったので成田空港着。何年かぶりにスカイライナーに乗った。成田空港の野暮ったいイメージはまだ拭えなくて、羽田空港のほうが好き。飛行機の中で、蓮實重彦『監督小津安二郎』をパラパラと読み直す。

ドラマについてのエントリーをひさしぶりに書こうと着手してみたのだけども、どうにも調子が上がらない。「画面を見て、意味や運動を繋げて書く」というのがどういうことであるのかを古典から学び直したい。今年は4回しかブログを更新しておらず、見る力・書く力ともに弱っているのを痛感した。


年末年始に帰省しないので東京の実家に顔を出した。還暦を過ぎた両親と30を超えた中年の子ども達だけの集まりというのはしんどいものがあるのだけども、今回の帰省から妻もいるし*1、妹にはいつの間にやら甥っ子(1号と2号)が誕生していたので、賑やかさが間を埋めてくれるようになった。かく言うわたしも、甥っ子と積極的にコミュニケーションをとっていきたいタイプのおじさんなのだけども、彼らの熱い支持を得ているのは「じいじ(すわなち、わたしの父)」だ。すぐに怒鳴るので子ども(すわなちわたし)からはあまり懐かれなかったあの父が、孫からかくも愛される好々爺になるとは。時の流れなのか、はたまた「なんでこんなにかわいいのかよ」(©大泉逸郎)の“孫”の力か。特に1号のじいじへの愛は強く、じいじが2号をかわいがると如実に拗ねるので、2号は1号がどこかに行っている隙を目ざとく見つけて、じいじにすり寄っていく。実にいじらしい。父に懐いているところを除けば甥っ子1号はわたしの幼い頃の生き写しのようで、見た目もさることながら人見知りなところまでそっくり。恥ずかしくて挨拶ができない。母(すわなちわたしの妹)に、「ほら、“こんにちは”って言いな」と促されても、母に顔を埋めてこっちを見ることもできない。妹夫婦は挨拶をしないことを許さない教育方針なのか、そのまま別部屋に連れていかれ数分の後に戻ってきて、やっとのこと「ゴンチャア」というような破裂音を披露してくれた。もちろん目は背けながら。わたしも幼い頃、親戚の集まりで挨拶するのがともて苦手だった。帰り際にマイク・セイラー『ぼちぼちいこか』(今江祥智訳)という絵本をプレゼントした。

そこでもなかなか「ありがとう」が言えずに、またしても別部屋での特訓を受け、「アジガドッツ」と破裂音をくれました。会うといつも絵本をくれるおじさん(ブックおじさんと呼ばれたい)というポジションを獲得していくつもりだったのだけども、こんなことではトラウマを植え付けることになりそうだ。ちなみに、ばぁあ(すわなち、わたしの母)は相変わらずSnow Manに夢中で、めめ(目黒連)推しに擬態したなべしょ(渡辺翔太)ファンでした。


実家を後にして、有楽町線に乗って豊洲へ。「アーバンドックららぽーと豊洲」を覗いた。昔よくここで映画を観たり、買い物をしたりしていたのでとても懐かしい。このららぽーとが舞台である『東のエデン』(2009)もここで観たはず。内容はまったく覚えていないけど、「ノブレス・オブリージュ」というフランス語が出てきたというのだけは記憶に色濃い。ビルケンシュトックのボストンをはじめて買ったのはここだった気がする。この日の宿泊先は「ラビスタ東京ベイ」、豊洲市場近くに今年の7月オープンしたばかりのドーミーインの豪華版だ。ドーミーイン愛好家としては泊まっていきたい施設だった。どう考えても客数と施設の広さがマッチしておらず、フロントもお風呂もレストランも行列が発生しており、改善の余地しかないなという感じではあるのだけど、設備とロケーションは抜群。部屋も広くて綺麗。館内はどこもいい香りに包まれており、まるで池袋の「タイムズスパレスタ」に来たような感覚。特筆すべきはやはり大浴場で、レインボーブリッジや東京タワーの夜景が望める。サウナは良い香りと程よい蒸気に包まれ、アンビエントミュージックが流れている。窓からは美しい夜景とビルやクレーン重機の航空障害灯の明滅。日々のストレスがすべて毛穴から流れ落ちていくような恍惚感だ。結局のところ東京の田舎出身のわたしは、東京で最もテンションの上がる風景というと豊洲~お台場あたりのゆりかもめ線周辺の海と夜景になる。学生の頃に当てもなくドライブをすれば、たいていこのあたりにたどり着いたものだ。小沢健二をもはや信仰というレベルで敬愛していたので、「いちょう並木のセレナーデ」に出てくる晴海ふ頭にもよく出かけた。晴海ふ頭には本当に何もないのだけど。しかし、もうお台場には観覧車も大江戸温泉物語もないなんて、にわかに信じがたい!どちらにもたいして思い出はないけれども、なくしてはいけないものであるような気がする。


翌日は早起きして朝風呂に入り(朝のサウナは長めに1回だけ入るのが良い)、朝食バイキングへ。会場は大混雑でしたが、豊洲市場付近ということもあり、海鮮が充実。イクラ山盛りの海鮮丼を楽しんだ。豊洲から新木場、そして舞浜と移動して、ディズニーランドへ。大阪にいるとめったに来れるものでもないので2日間かけてディズニーランド&ディズニーシーを遊び尽くすつもりだ。新木場駅有楽町線の改札あたりにある立ち食い蕎麦屋ドトールを見ると、「これからディズニーランドに行くぞ」というあの空気感を思い出す。ちなみにわたしがディズニーランドで1番好きな空間は、「パン・ギャラティック・ピザ・ポート」だ。

ピザと宇宙人という組み合わせが発する強烈な興奮と憧れがあの場所には今もなお色濃く焼き付いている。この日は大好きな「カリブの海賊」と「スペース・マウンテン」がメンテナンス中で残念。2020年にオープンした「美女と野獣“魔法のものがたり”」はルミエールによる「ひとりぼっちの晩餐会」のシーンが出色。「Beauty and Beast」が流れるあの素晴らしきダンスシーンは、アトラクションではなぜか人間に戻った後の王子で描かれていて、少し不満でした。この日に向けてディズニー&ピクサー映画を色々観直してみたのだけども、フェイバリットは『ダンボ』(1941)と『モンスターズ・インク』(2001)であることが決定したので(理由はとてもかわいいから!)、その2作のアトラクションを乗ってフィナーレとした。閉館時間までフルで楽しんでみたところ、ここ数年で1番というくらいに身体が悲鳴を上げた。宿泊先は少しだけ奮発して、「ヒルトン東京ベイ」を選んだ。わたしは幼い頃から、高嶋政伸の「姉さん、事件です」でお馴染みのドラマ『HOTEL』の舞台となったこのホテルに宿泊することを切望していたのだ。古いながらも格式があり、「ホテルに泊まっている」という満足感を覚えた。ディズニーランドでレストランを予約するなんていう高等テクニックを持ち合わせていないので、夜ご飯はホテルに併設のコンビニで適当に済まそうと考えていたのだけど、そういった考えの人が大半のようでコンビニはレジに行くまでに20分待ちの行列。ディズニーランドとしては少ない待ち時間ですが、もう少しで足を休ませることができるぞ、というところでこれは大きなダメージとなりました。


最終日は「東京ディズニーシー」へ。新しいアトラクションである「ソアリン」がとてもよかった。富士急ハイランドに「富士飛行社」という似たようなアトラクション(BGMは久石譲が担当)があって、それにもひどく感動したけど、そのアップグレード版の飛行感で、これはまさに「夢みたいだ」と思った。ジブリパークも似たようなアトラクションを即刻に作るべきだ。ディズニーシーのランドとは異なって、風景の世界観がある程度統一されているところが、大人になってくると心地よい。なんて素敵な場所なんでしょう、と素直に思えた。「ニモ&フレンズ・シーライダー」もはじめて乗ったのだけど、これも夢みたいに楽しかった。次の日から仕事なので、はやめに退園して東京駅へ。東京駅では時間に余裕があったので、猿田彦の珈琲を立ち飲みして、駅弁として新幹線の誕生とともに発売されたという「チキン弁当」を買った。

パッケージがレトロでかわいい。調子に乗って、「メルヘン」のサンドイッチも買ってしまったのだけど、「チキン弁当」が想像以上のボリューム感で食べられず。新幹線を降りると、疲労感がさらに増しており、ドラッグストアで高めのユンケルと休足シートを買った。ディズニーランドの足の疲弊を思うに、ミッキーやドナルドの靴を模した包み込むタイプの休足シートを園内で発売すれば、1000円以上出してもみんな買うと思う。家に着いて、すぐ寝ればよかったのだけど、なぜか『CDTV ライブ! ライブ!』の録画を観てしまった。この番組はフルサイズで曲を聞かせてくれるが最高。あの番組の江藤アナはなんでいつも変なジーンズを履かされているのだろう。なにわ男子の「ハッピーサプライズ」、良い。みっちーのパフォーマンスがキムタク感みたいなものを体現しようとしているのを感じて、グッときた。Travis JapanKing & Princeも良かったので、キンプリなぜ…という悲しさが。高橋海人を囲むパフォーマンス中に永瀬廉くんが平野くんに微笑みかけている時の表情がなんともいえない良さだった。平野くんの表情が見えないというカメラワークがまた妄想を掻き立てますよね。

*1:Twitterにしか書いていませんでしたが、今年結婚しました