青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

生方美久『silent』1~5話

言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたくても
夢中になればなるほどに 
形は崩れ落ちて溶けていって 消えてしまうけど
でも僕が選ぶ言葉が そこに託された“想い”が
君の胸を震わすのを諦められない
愛してるよりも“愛”が届くまで


Official髭男dism「Subtitle」

佐倉想(目黒連)が読み上げる作文の冒頭の「言葉はなんのためにあるのか?」に導かれるように、このドラマは“言葉”を巡る物語である。しかし、その脚本の筆さばきは、言葉というものの力をむやみやたらに祭り上げるというのではなく、どこか言葉の“不確かさ”、“信用ならなさ“に重きを置いているように思う。たとえば、想がひた隠しにしていた秘密の漏洩は、萌(桜田ひより)が湊斗(鈴鹿央士)に問いかけた「湊斗くんってさぁ、知ってるんだっけ?」というやりとりの言葉の不確かさが生み出してしまったものだ。また、特に重要であるのは1話冒頭の紬(川口春奈)と想のやりとり。青空に降りしきる雪を見て、紬が小さく叫ぶ。

雪降ると静かだよね
ねっ?静かだよねっ?

それを聞いて、想が笑顔で返す。

うるさい
青葉の声うるさい

「静寂を伝える言葉がうるさい」という矛盾めいたこのやり取り。そして、“うるさいと返した想も、紬のことを“うるさい”とは微塵も思ってはおらず、“うるさい”の響きにありったけの愛情を込めている。つまり、人と人のコミュニケーションというものは言葉だけで成立しているのでなく、言葉と、そこに込められた“想い”を感じる取ることで、はじめて成し遂げられる。これがこのドラマの信念のようなものだ。


教室で「なに聞いてるの?」と想に尋ねて、渡されたイヤフォンで想のiPodから流れる音楽を聴く紬。

紬「あぁ、はいはい、うんうん」
想「え、なにそれ」
紬「うん、いいよね、これすごくいい、うん」
想「知ってる?」
紬「知ってる」
想「本当に?」
紬「知ってる!」

紬は当然この音楽を知らないし、“知らない”ことを想は知っている。であるから、言葉は上滑りしているけども、このやりとりには“もっと近づきたい”という2人の想いが駆け巡っていて、だからこそ美しい。言葉の不確かさを巡る挿話として、もっとも顕著なのが、想から紬に送られた別れを告げるメール文だろう。

好きな人がいる。別れたい。

紬は「想には別に好きな人ができてしまったのだ」と解釈するのだけど、これはのちに、想の“好きな人”とは紬のことで、「その好きな人を傷つけたくないから別れたい」という意であったことが明かされる。言葉のマジック、その信用ならなさ。それゆえに、このドラマでは言葉を介さないコミュニケーションというものが何度も成立してしまう。1話のラストにおいては耳の聞こえない想と手話を理解できない紬の間において感情と表情だけで、4話では想と光(板垣李光人)の間でコンビに買った缶ビールの受け渡しだけで、想いの交感が見事に成し遂げられている。同じく4話では、部活のメンバーがサッカーとハイタッチという身体性を通じて、あの時と同じように想いをわかりあえてしまう。その様子を見ていた周囲は思わず漏らす。

言葉なんていらないんだね


生方美久という作家は、圧倒的な才能で言葉を駆使して物語を紡いでいきながらも、明らかに“想い”というものに肩入れしている。それは、冒頭に置いたofficial髭音dismの主題歌になぞらえるならば、言葉が溶けて消えて形をなくしても、そこに込められた“想い”は残り続けると信じているからだ。そして、そんな“想い”の痕跡こそが、人々をこの世に生かし続けているのだと確信している作家である。彼女がフジテレビヤングシナリオ大賞を受賞した『踊り場にて』は、恋や夢を諦めるということについて描いたドラマだった。

舞子「実ったら好きじゃなくなっちゃうってこと?」
優子「消しゴムで消されちゃうってこと」
舞子「なにそれ?」
優子「でもね、大丈夫なの
   消しゴムだから ちゃんと消しカスが残るから
   筆圧が強ければ鉛筆の跡もちゃんと紙に残るから
   なくなっちゃうわけじゃないの」


生方美久『踊り場にて』(2021)

諦めがついた時に
気持ちはどこにもいかなくて済むんですね
自分の中に落とし込めるっていうか


生方美久『踊り場にて』(2021)

夢を追ったことがある人だけの特権ってのがあってね
それは「夢を追いかけた」って事実です
挑戦したことだけは褒めてあげられます
次に新しい何かをやろうと思った時
過去の自分が ちょっとだけ ほんのちょっとだけ
やさしく肩を抱いてくれます
背中を押すってほどではないです
そんな大それたことはしてくれないけど
でも肩にポンって手を置いてくれます
それで生きていけるってこともあるから


生方美久『踊り場にて』(2021)

この彼女の作家としての感性を作り上げたのは、坂元裕二スピッツ、『ハチミツとクローバー』といった彼女が敬愛して止まないであろう作家や作品の影響が大きいに違いない。*1坂元裕二からの影響は言葉のリズム、指定代名詞などを駆使したセリフ廻し、ファミレスやイヤフォンといったモチーフなどからも顕著だが、それだけでなく、坂元裕二作品が繰り返し訴え続けているテーマを生方美久もまた継承している。

人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ
それだけが生きてく勇気になる
暗い夜道を照らす懐中電灯になるんだよ


坂元裕二東京ラブストーリー』(1991)

ずっとね 思ってたんです
いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまうって
私 私たち 今 かけがえのない時間の中にいる
二度と戻らない時間の中にいるって
それぐらい眩しかった
こんなこともうないから 後から思い出して
眩しくて眩しくて泣いてしまうんだろうなぁって


坂元裕二いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)

私の好きはその辺にゴロゴロしてるっていうか・・・
ふふっ、寝っ転がってて
で、ちょっと ちょっとだけがんばる時ってあるでしょ?
住所をまっすぐ書かなきゃいけない時とか
エスカレーターの下りに乗る時とか
バスを乗り間違えないようにする時とか
白い服着てナポリタン食べる時
そういうね 時にね その人が いつもちょっといるの
いて エプロンかけてくれるの


坂元裕二『カルテット』(2017)

これらはすべて、叶わなかった恋が人生にどんな意味をもたらすのかを書き記したものだ。そして、それは劇中に何度か登場する『ハチミツとクローバー』とも共鳴するテーマである。

ずっと考えてたんだ
うまく行かなかった恋に意味はあるのかって
消えて行ってしまうものは
無かったものと同じなのかって・・・
今ならわかる 意味はある
あったんだよこここに
ボクがいて 君がいて みんながいて
たったひとつのものを探した
あの奇跡のような日々は
いつまでも甘い痛みとともに
胸の中の遠い場所で ずっと
なつかしく まわりつづけるんだ


羽海野チカハチミツとクローバー

叶わなかった恋、想いを告げることのなかった恋、うまくいかなかった恋・・・そのどれにも意味があって、それにまつわる“想い”は消えることなく、そこかしこに漂い、まわりつづけ、貴方の人生の航路を温める。この作家たちが想いを受け継いだ生方美久は、『silent』においてこんなセリフを書いている。

春尾「凄く好きな人と両想いになれなかったり、別れたり
   そういうとき思いません?
   この人と出会わなければ良かったって」
紬「好きになれて良かったって思います、思いたいです」

紬「始めちゃうと終わっちゃうって話
いつか別れること考えちゃうから女の子と付き合うの勇気いるって
付き合い始めた彼女に言うなよって思ったけど」
湊斗「もし別れても 別れたとしても
別れるまでに楽しいことがいっぱいあったら
   それでいいのにね」

実にストレート。それでいて、生方美久の筆致の優れているのは、雑談めいたものに落とし込めてしまう点にある。他にも、何気ない雑談の中に、“想い”の痕跡を表現するようなモチーフを忍ばせている。

紬「雪の中でサッカーしたらあれだね。どんどんボール大きくなるね。」
想「ん?」
紬「えっ、だって雪だるまってさぁ 転がして大きくして 2つ作って もう一個のっけて、ねっ?」
想「ボールに雪付いて、大きくなるってこと?」
紬「なるでしょ 雪だるま的に」
想「なんないよ」
紬「えっなるよ、絶対なるよ」

想「紙を42回折ると、月に届くんだって」
紬「なにが?」
想「紙が 紙の厚さが、こう折ってくとだんだん分厚くなるじゃん?
その厚みが月に」

痕跡が積み重なっていって、何かを成し遂げてしまう、届いてしまうというようなイメージが通底している。そして、「どうでもいい話ばかりしてた」と振り返るこういった会話そのものもまた、想の生きていく糧になっていることが、スピッツ「魔法のコトバ」や「楓」のリリックから伺うことができる。

君と語り合った 下らないアレコレ
抱きしめて どうにか生きてるけど


スピッツ「魔法のコトバ」

忘れはしないよ 時が流れても
いたずらなやりとりや
心のトゲさえも 君が笑えばもう
小さく丸くなっていたこと


スピッツ「楓」

誰かを好きになった “想い”の痕跡こそが、これからの人生を支えていく。であるから、『silent』は“出会わなければよかった”を否定し、すべての“出会えたこと”を肯定していく。

5話*2の段階では劇中の3人がどんな恋の決断を下していくのかはまだわからない。しかし、どんな結末を迎えようとも、生方美久の作劇の信念の元では、この世に存在するどんなラブストーリーもバッドエンドにはなりえない。そう確信する。

<余談>

生方美久…これが連ドラデビュー作だなんて信じられない。わたしが脚本家であったら嫉妬の感情でぐちゃぐちゃになっていたに違いない。最初の数話は坂元裕二への憧れがさく裂した文体だなあと思って観ていただのけども、どんどん生方美久固有の筆致みたいなものを形成していっている。状況設定の巧みさや恋愛感情の機微、そして何と言っても、誰にでも響く大衆性に物語を落とし込む手腕。電車で隣に座った初老の男性がタブレットでこの『silent』を熱心に視聴していて、その姿にどうにも心を撃たれてしまい、ひさしぶりにドラマの批評?感想?のようなものを書いてみようと思ったのだ。どうか、あのおじさんのもとにこの文章が届きますように。

役者の演技、カメラワーク、色調、衣装、音楽(『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の得田真裕!)・・・どれもが作品の格を底上げしている。演出が実に素晴らしい。想と紬のカットは駅の連絡通路から始まり、学生時代の告白、再開後の気持ちの交感、どれもが“橋”で撮られている。湊斗の目撃や決断も踏切や横断歩道にて撮られ、“橋”というモチーフが、別の段階への移行や離れたふたつの事象を繋げるものとして機能している。これらを統括しているプロデューサー村瀬健の手腕、そして『踊り場にて』1本で青田買いを決断するその眼識。

役者陣のすばらしさ。川口春奈鈴鹿央士、桜田ひより、板垣李光人、夏帆風間俊介篠原涼子、藤間爽子、山崎樹範、内田慈・・と出演者全員をほ誉めたたえていきたいのだけども、やはり主演級の3人だろう。川口春奈のあまりにも大きな瞳の情報量、そして零れる涙の美しさ。鈴鹿央士の体現する善良さと発声のテンポの大胆さ。そして、 “忘れられない人”を体現する目黒連*3。彼自身に内包されている“切なさ”のようなものが絶妙に役柄にマッチしている。


生方美久がツイートしている通り、このドラマがスピッツ「楓」みたいなお話であるとするならば、

さよなら君の声を抱いて歩いていく
ああ 僕のままでどこまで届くだろ

僕のままでどこまで届くだろう。「ほんと全然変わんないね」と湊斗に言われた時、想はどれほどうれしかったことだろう。そして、想があの頃の想のままで居続けるために、どれほどの覚悟と苦しみあったのかを思う。それはこのドラマを難病の悲恋モノに落とし込まないという脚本家の努力とイコールである。

*1:最初の作品なんてこれまでの自分の全部を詰め込めばいいから、好きなもの溢れちゃいますよね

*2:5話と言えば、湊斗の夢と紬の回想が混濁している凄まじさ!そして、湊斗がスピッツの「みなと」であり、すなわち“港”であることが示唆され、“見送る人”としての人物造詣が完成されてしまうという。しかし、“迎え入れる人”であるのかもしれない

*3:ちなみにわたしはSnow Manだと、目黒くん、向井くん、深澤さん、舘様が好き

さくらももこ『ちびまる子ちゃん わたしの好きなうた』

まる子が万歳している瞬間にも
宇宙全体のそれぞれの生命が平行して
それぞれの世界をくり広げています
ちびまる子ちゃん』では まる子の世界をクローズアップして描いていますが
平行して動いているあらゆる世界のことを
私は忘れないでいようと思います

これは映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きなうた』の原作として書き下ろされた漫画版のおまけに何気なく記されていた言葉。しかし、ここにさくらももこという作家の魂の根幹が示されているように思う。「平行して動いているあらゆる世界のことを私は忘れないでいようと思います」という宣言のとおり、フィルムは静岡県清水市の町並みを俯瞰で捉えるところから始まり、町の中に点在するモブキャラクターの何気ない仕草を切り取ったいくつかのショットが連なっていく。町で一瞬すれ違い、また別れていく人々。彼らの中にもそれぞれの人生の物語が、つまりは“うた”があり、それぞれのうたの響き合う場所が町であり、宇宙であるということ。

「“うた”とは物語であり、人生そのものである」といったやや大袈裟な導入となってしまったので、 “うた”を単純に音楽だとしてみても、それはやはり生きる上で重要な意味を持つ。特に、さくらももこにとっては。筒美京平*1大瀧詠一細野晴臣、たま、小山田圭吾電気グルーヴホフディラン忌野清志郎桑田佳祐・・・彼女が作詞などで関わった音楽作品のクレジットを列挙するだけでも、その音楽に対する想いがひしひしと伝わってくるだろう。音楽映画である今作においても、大瀧詠一「1969年のドラッグ・レース」、久保田麻琴によるアレンジのインドネシア歌謡「ダンドゥット・レゲエ」、細野晴臣「はらいそ」、たま「星を食べる」、笠置シヅ子「買い物ブギ」、杉真里のペンによるビートルズ風のロックンロール「B級ダンシング」と、そのセンスをいかんなく発揮している。

さて今回の映画の見どころの大きなポイントは音楽シーンにあります
私はディズニーのファンタジアやビートルズイエローサブマリンなど
アニメと音楽の合体した作品に深く感動していたので
そういう音楽シーンの見せ場を盛りこみたいとつねづね考えていました


「すごい!!アニメーション映画をみんなでつくろう!!・・・・・・というたいへんな日々」より

漫画版のあとがきにもあるように、『ファンタジア』や『イエローサブマリン』のような、音楽とアニメーションの幸福な融合が今作の最大の見どころだ。芝山努(『ドラえもん』映画作品)や湯浅政明(『マインドゲーム』『四畳半神話大系』など)らが演出を手掛け、揺れる精神世界を描いたサイケデリックなアニメーションパートはこの映画が熱狂的に支持される大きな要因といえるだろう。音楽パートによるアニメーション演出は、劇中では主にまる子が“うた”や絵といった芸術に触れた時に立ち上がっていく(もしくは、花輪くんのロールスロイスでのドライブによる高揚感、お風呂に漬かる極楽のような心地よさ)。つまり、豪華絢爛なめくるめくアニメーションは、芸術と触れ合った時に人々の脳内に沸き起こる高揚感・イマジネーションの豊かさを描いているのだ。さくらももこは芸術の力、そしてそれを感受する人間の可能性を信じ切っている。その事実がまずもって胸を打つ。


楽曲の権利の問題なのか2022年現在もDVD化しておらず、その視聴機会の少なさもあり、一部でカルト的人気を巻き起こしている今作。しかし、ストーリーとしては実にシンプルだ。町で偶然出会った絵描きのお姉さんとまる子の心の交流、その“出会いと別れ”を描いたメロドラマである。音楽の時間に習った童謡「めんこい仔馬」を気に入ったまる子は、“わたしの好きなうた”を絵にするという図工の課題に「めんこい仔馬」を選ぶ。なかなか絵を上手く仕上げられないまる子はお姉さんに相談を持ち掛ける。すると、この歌が実はのどかな童謡ではなく、かわいがっていた仔馬を、涙を堪えながら軍馬として戦地に送り出す気持ちを歌ったものだということを教わるのだった。

まるちゃん・・・この絵
・・・この子はいつか仔馬とお別れする日が来るけれど・・・
この仔馬のことを大好きな今のこの子の気持ちは
永遠に変わらない・・・・・・っていうイメージにしたらどうかな

生きていると、必ず“お別れ”というものがやってくる。そのことに幼いまる子は少しずつ気づき、受け入れていく。なぜなら、たとえ別れてしまったとしても、かつて交わし合った想いというのは永遠に残り続けるからだ。芸術家は、その想いを歌や絵や小説といった作品に変えていく。さくらももこもそんな芸術家の一人だが、その才能の凄まじさは、その“かつての想い”を、思い出というトーンで語るのではなく、“今この瞬間”として描くことのできる筆致の解像度にある。さくらももこがいたおかげで、わたしたちは、かつての実家や教室のあの雰囲気や、遠足や運動会や駄菓子屋にもたしかに社会のルールのようなものが存在して、子どもなりに頭を捻らせ、喜んだり泣いたりしていたことを今でも鮮明に覚えていられる。エッセイ漫画家として、何気ない、それでいてとてつもなく眩いエピソードを拾い上げてきた恐るべき観察眼と記憶力は、“美しい時”というものへの貪欲さに下支えされているのだという。またしても、原作漫画のあとがきからの圧倒的な名文を引用することで、このエントリーを締めようと思う。

まる子は幼くて、まだ“今この瞬間”のひとつひとつがいつか思い出になってゆくことに気がついていません。お姉さんと出会った瞬間も、水族館へ行っている瞬間も、それがそのまま全部思い出になってゆくという実感がないまま時がすぎてゆきます。それはある意味では子供時代のひとつの哀しさであり、そのような透明な切ないトーンをこの物語ではうまく表現できればいいなあと思って描いてゆきました。


生きてゆく中では「あとからになって思い出として美しくよみがえってくるのに、その瞬間には気がついていない美しい時」が山ほどあります。私はそういう瞬間をリアルタイムで見逃さずに生きてゆきたいと切に投げっています。その瞬間ごとが、どんな思い出よりも一番充実していると実感できる人生を送りたいと思うのです。だから、普通に街を歩いている時も、陽のあたる道にじぶんの影が落ちている様子でだけでも「うんうん」と確認しながらうれしいと感じて生きている“その時”をいちいちかみしめるようにしています。まる子の舞台は日常ですから、あの子が時々ふっとそういうことを感じる場面が私は大切だと思って描いています。<中略>まる子は少しずつ”今“が思い出なってゆくことに気がついて成長してゆくのです。

*1:この映画のエンディング曲は筒美京平が作曲、さくらももこが作詞を手掛けた高橋由美子「だいすき」だ。この楽曲の「今日がある日思い出になるの ほんとよ いつかきっとあえる わすれないでいてね 遠くふたり はなれても ひびいてる 同じメロディ」という歌詞は本作のフィーリングが表出されている

藤子・F・不二雄『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』

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反乱軍によるクーデターにより追い詰められた大統領がロケットで宇宙空間に脱出・・・そんな遠い星でのできごとが、地球の少年たちが部屋の一室で撮影に興じるミニチュア特撮「宇宙大戦争」と同期していく。このマクロとミクロの交錯、そのことで生じる奇跡のようなワンダーこそが、映画ドラえもんの本質である。武田鉄矢が『藤子・F・不二雄大全集』に寄せた文章の中にこんな一節がある。

たとえば、巻き貝と銀河系は、うずの巻き方が同じだということをご存知でしょうか。そこには、ものすごく小さなものとものすごく巨大なものが、なぜか同期している不思議さを感じます。自然界で単独に存在しているものは何ひとつなく、すべてのものが何かと同期したりシンクロしたりしながら宇宙の一部であり続けているのです。そうした自然観や宇宙観がドラえもんの世界にはふさわしいと、いつの頃からか私は考えるようになりました。

まったく痺れてしまう。武田鉄矢*1はあまりにも偉大な藤子・F・不二雄の理解者である。映画1作目『ドラえもん のび太の恐竜』の主題歌であり、テレビシリーズでも頻繁に使用された名曲「ポケットの中に」*2の作詞も武田鉄矢によるものだ。そこにはこんなラインがある。

ボクはここにいる 君の目の前に
君がおとなに なるまでは
あそびつづけよう ボクといっしょに


原作の短編やテレビシリーズにおいてはひた隠しにされている、いつかは訪れるはずのドラえもんのび太の”別れ”。『ドラえもん のび太の恐竜』の中で描かれるピー助との別離によって、その予感がボンヤリと浮かび上がっていく様を見事に詩の中に落とし込んでいる。『ドラえもんのび太の宇宙小戦争』におけるメインテーマである「少年期」もまた、実に的確に「映画ドラえもん」の核を捉えてしまっている。

悲しい時には 町のはずれで
電信柱の明り見てた
七つの僕には 不思議だった
涙うかべて 見上げたら
虹のかけらが キラキラ光る

この叙情性こそが、テレビシリーズと映画版の差異と言っていいだろう。幼き頃の、日常の何気ない風景が星空瞬く宇宙空間と繋がってしまう不思議。

あぁ 僕はどうして大人になるんだろう
あぁ 僕はいつ頃 大人になるんだろう

そして、何よりこのサビのラインである。短編の『ドラえもん』がのび太達の変わらない日常を描き続けていくものだとしたら、のび太の勇敢さやジャイアンの優しさが顔を覗かせる「映画ドラえもん」というのは “成長していくこと”を捉えた、“変化”の物語である。映画の中でのび太達は、いつもの町を抜け出し、太古の時代、宇宙、魔界といった異世界の友人たちとのいくつものハローグッバイを重ねながら成長していく。少年たちは、少し不思議な想像力の世界の中で、そのイマジネーションを“誰かのことを想う”力に置き換えながら大人になっていく。


この『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』における少年たちの成長は、戦争の凄惨さを肌で実感していくことでなされる。中でのもスネ夫は、戦争の恐怖に飲み込まれ、身動きがとれなくなってしまう(普通の少年であれば、当然のことだ)。

そりゃあわたしだってこわいわよ。
でも…、このまま独裁者に負けちゃうなんて、あんまりみじめじゃない
やれるだけのことを、やるしかないんだわ。

と、戦車に乗り込み立ち向かう静香の姿は感動を呼ぶが、それよりも重要なのはスネ夫がしっかりと戦争に怯えていることだろう。ミニチュア特撮「宇宙大戦争」においてあまりに無邪気に爆発させていたシャトルの一つ一つにパイロットがいて、その爆発は、戦争は、彼らのささやかな営みを奪ってしまうことなのだと少年たちが肌で感じていく。想像力とは、他者を思いやるためのものだ。コロナウィルスの蔓延によって公開が遅れたことにより、奇妙にも現在の国際情勢とリンクしてしまったリメイク版『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』もまた、まさに今観るべき1本に仕上がっていると言えるだろう。


余談にはなるが、『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』において、静香によるリリカちゃんとウサギちゃんの映画撮影シーンが抜け落ちているのは少し残念。あの”ウサギの失踪”というモチーフが、日常への異世界の浸食が見事に表現されていた。そして、ウサギに導かれて異星人パピが現れ、のび太たちも姿を小さくしていくというストーリーテリングには、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が重ねられていることに気づくだろう。『ドラえもんのび太の宇宙小戦争』というのは、藤子・F・不二雄による『スター・ウォーズ』×『ガリバー旅行記』×『不思議の国のアリス』という想像力のタペストリーであったのだ。

*1:本人に潜む邪悪性はさておき

*2:大山のぶ代の名歌唱!

『劇場版まーごめドキュメンタリーまーごめ180キロ』


『劇場版まーごめドキュメンタリーまーごめ180キロ』は傑作だ。不条理を支える研ぎ澄まされた言語センス、そして引用の多様さ的確さに、お笑いが新しい世代に突入していることを痛感させられる。2022/2/20(日)まで配信が延長されているとのことなので、ぜひとも視聴をオススメいたします。ここには間違いなく1500円以上の価値があるのです。


ここでは、“お笑い”であることを一旦無視して、ネタバレ全開で『劇場版まーごめドキュメンタリーまーごめ180キロ』を語ってみたい。原宿の喧騒の中に構えるワタナベエンターテイメント本社前、大きな身体で所在なさげに佇む大鶴肥満から映画は始まる。大鶴肥満はワタナベの所属タレントであるマルシアの出待ちをしている。なんでも、彼はマルシアに“謝りたい”のだという。ここで、大鶴肥満の存在を知らない方のために記しておくと、大鶴肥満というのはママタルトというコンビのお笑い芸人であり、大鶴義丹に顔が似ていて太っているから“大鶴肥満”と名乗っている(ちなみに学生時代には『笑っていいとも』に大鶴義丹のそっくりさんとして出演したこともある)。そして、彼が出待ちをしているマルシアというのは大鶴義丹の元嫁である。大鶴義丹の不倫が原因で離婚することになったのだが、その際に大鶴義丹が放った「まーちゃん(=マルシア)ごめんね」という言葉を、大鶴肥満は「まーごめ」と略し、ある種のギャクとして使っている。そんな大鶴肥満は、なぜマルシアに謝りたいのだろうか?大鶴肥満は言う。

私のその、もう一人の私である大鶴義丹さんがお粗末なことをしてしまったので
一応、大鶴義丹さんが謝ったんですけども
まだ全然足りてないんじゃないかなって
ひどく傷ついたと思うんですよ、まーは
だからちゃんと謝りたいなって思いましてね すいません

大鶴肥満とマルシアの間には本来なんの関係性もないはずだが、大鶴肥満はもう一人の大鶴義丹であるからしマルシアに謝罪し、傷ついた彼女を癒す、ということなのだ。

大鶴肥満は別のユニバースの大鶴義丹?傷を癒すために時空を超えてやってきた?ここで思わず、映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を想起してしまったのだが、おおいに横道に逸れてしまうので止めておこう。重要なのは、大鶴肥満の「まーごめ」は、”傷をケアするためのもの“ということだ。この映画は、「まーごめとは何なのかというのをお伝えするドキュメンタリーである」ということなのだが、すでに冒頭でその答えは提示されている。であるから、ドキュメンタリーはこの冒頭以降、「まーごめ」についてはほぼ触れられず、大鶴肥満の口から「まーごめ」が発されることも稀である。この映画のカメラが収めるのは傷を癒す「まーごめ」ではなく、大鶴肥満の”傷“そのものだ。大学の野球サークルでの傷、マッチングアプリでの傷(ロシア版 mixi Badooで裸の写真をばら撒かれたエピソードは出色)、祖母との関係性による傷、小学校時代の給食での傷(きゅうりリベンジ)、中学時代の告白で受けた傷、高校時代のイジメの傷、学生お笑いで抱くコンプレックスでの傷・・・そして、実家に赴いたことで露わになる父親との確執という傷。

ごめんな そんな子どもに育てちゃって
もうちょっと才能がある子どもに育ててあげればよかったのに

という父親の言葉が強烈だ。ここでの父親からの「ごめんな」と、「まーごめ」における“ごめん”は一線を画す。「まーごめ」が傷をケアするものであるのに対して、この父親の「ごめん」はむしろ謝罪に擬態した暴力だ。このドキュメンタリーのもう1つの核である大鶴肥満の恋物語のエンディングでMちゃんから発される

ごめんなさい本当にごめんなさいお友達です
ごめんなさい異性としては見られないです

この「ごめんなさい」もまた、謝罪のふりをして大鶴肥満を傷つける。大鶴肥満を癒せるのは「まーごめ」だけなのだ。傷ついたマルシアを癒すための「まーごめ」は、実は大鶴肥満の傷を癒すための呪文であるのかもしれない。であるから、前述のように傷だらけの大鶴肥満はお笑い芸人として「まーごめ」を唱え続ける。規則性を無視して乱発するのだ。


大鶴肥満が恋するMちゃんへの想いは実に純粋だ。余談になるが、大鶴肥満が愛を向けるものはすべてMである(Mちゃん、マルシアマクドナルド、漫才、松井秀喜名探偵コナン、Mother”お母さんやったよ!“、そしてママタルト)。

今 自分が嬉しいと思うことが全部取り上げられても
その子と付き合えるんだったら嬉しいってなりますね
僕はやっぱりね その子と付き合うことによって
今までその・・・
ずっともう凝り固まったもうなんか
あるんですよたぶん
奥の方に根付いてるこの青春という名の耳垢・・・
<中略>
スッキリすると思うんですよ 僕はやっぱり付き合えたら
本来の普通の人だったら
ずっと感じてた“青春”っていうものを
今29歳ですけども
僕は取り戻せると思ってるんですよ

傷ついた大鶴肥満の最大の欠落が語られるこのシーンには涙を禁じ得ない。「私は空っぽなんですよ」と言う、大鶴肥満の最大の欠落は“青春”であった。彼自身はそれを恋愛で補おうとしているのだけども、大鶴肥満が語る恋愛の定義はこうだ。

喜びを一緒に共有するっていう経験

それはつまり青春そのものであって、であるならば、大鶴肥満は今、まさに青春を謳歌している。その事実がこの映画には刻まれているではないか。真空ジェシカ、さすらいラビー、ストレッチーズ、ひつじねいり、オズワルド伊藤、蛙亭イワクラ、森本サイダー、そして相方の檜原。

気づけば一緒に売れようっていう仲間になっていることが
僕は嬉しい

大鶴肥満にとって檜原は本当に
光 光ですね
檜原がいるから俺は突き進むことができるんだって思っています
時々眩しくてね
見ることができない時もあるけども
ずっと俺の前で輝き続けてほしいなって思ってます
ごめんなさい俺キルアみたいなこと言っちゃいましたね
キルアがゴンに対してみたいな
まぁけど本当にそうですね
なんかその「ありがとう」としか言えないですね

HUNTER×HUNTER』のパロディに忍ばせて照れてみせるが、「まーごめ」というギャグを手にした大鶴肥満に恋人はいなくても、『少年ジャンプ』的な喜びを分かち合う仲間がいる。とりあえずはそれで充分ではないか。しかし、大鶴肥満は今日もまた零す。まーちゃんごめんね、まーごめ。それはいつかまた別の誰かを癒す言葉になるのかもしれない。大鶴義丹がマルシアに向けた“ごめんね”がその矢印を変え、大鶴肥満の傷を癒したように。

『キングオブコント2021』&『空気階段の踊り場』

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「これが“寂しい”って感情かなぁ?」
「どうしよう…愛おしい」


蛙亭

「やぁ…好きだなぁ」
「ちょっとぉ、愛が止まらないなぁ」


男性ブランコ

「ここになんかある…胸が温かい」
「この気持ちはなんだろう?」


ザ・マミィ

初出場のコント師たちが揃って、“心”についてのコントで人間愛を叫び、その果てに「生まれてきた意味がありますね」と漏らした空気階段が優勝を飾る。その美しい連なりに、『キングオブコント2021』という大会を通して1つの作品なのだという感触を抱かせた(そういうのを抜きにしてもシンプルにネタが粒揃いで史上最高の大会でした)。彼らがコントで表現してみせた愛というは、 “異質さ”を受け入れるという態度だろう。酒焼けダミ声の関西弁からホムンクルス・・・とその異質さに幅はあるものの、コントの登場人物たちはその“変なところ”に愛おしさを見出していく。優れたエンターテインメントというのは時代や社会と密接に結びつくものだが、まさに多様性が声高に叫ばれる時代が要請したコントという趣である。男性ブランコの一本目の構成と演出の見事さに1番笑いました。あと、蛙亭の「オムライスを食べたいから」という脱走劇に宿る、“この世の理から逸脱した詩情”に痺れてしまったのだけど、そこは来年のこの時期に書くことができたらうれしいなと思う。


今大会の主役はもちろん空気階段。異質さ(多様性)と愛のコント大会の中で、空気階段が突出していたのは、時代とか社会がどうこうではなく、「世界とははなからそういうものでしょう?」というような態度ではないだろうか。SMクラブで変態プレイに勤しむ公務員はいる。いや、“いて”いいのだ。だから、空気階段のコントでは当たり前のように“いる”。彼らはブリーフ一丁の姿でもって、当然のように正義感に駆られ、人命救助に勤しむ。その状況に対するツッコミはなく、まさに活劇としか呼びようのない肉体の躍動でもって、ただただ人間が持ち合わせる多面性を舞台上に刻みこんでいく。笑いと感動を同時に引き起こす、まさに歴代最高得点にふさわしいコントであった。


空気階段はいつだって、この歪で複雑な世界をまるごと描こうとしている。本当に美しいものは、ノイズの中から浮かび上がる、というのが彼らの一貫した態度だ。であるから、感動的な人命救助物語の舞台設定はSM風俗であるし、甘酸っぱいような恋に落ちる喜びを描く際も、社会から見捨てられたようなアウトサイダー達の蠢きが必ずや同時に描写される。優勝報告のラジオ『空気階段の踊り場』の生放送では、これまでの苦労や喜びを分かち合う感動的な演出の中に、鈴木もぐらが舞台上でウンコを漏らした話を混ぜ込んでみせるのだ。


昨年の『キングオブコント』直後の放送と同様に、もぐらによる

僕たちはひとりじゃないよ!
ひとりじゃない
俺とお前はひとりじゃない

という口上によって登場するのがサプライズゲストである銀杏BOYZ峯田和伸。耳をつんざくような轟音の中で、恋と退屈を美しいメロディで歌い、世界をまるごと鳴らそうとしてきたミュージシャンだ。空気階段には、銀杏BOYZの音楽が息づいている。峯田が弾き語りで「エンジェルベイビー」を歌いだす。

Hello my friend
君と僕なら永遠に無敵さ
さようなら 美しき傷だらけの青春に


銀杏BOYZ「エンジェルベイビー」

まさにドキュメンタリーラジオと呼ばれる『空気階段の踊り場』青春篇の完璧なピリオドだ。さようなら、空気階段の美しき傷だらけの青春。そして、2人はこれからも永遠に無敵さ。