青春ゾンビ

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田島列島『水は海に向かって流れる』

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『水は海に向かって流れる』が3巻をもってして、堂々たる完結。2020年を代表する傑作というありきたりな言葉を冒頭に置いておきたい。ときに、今作の血の繋がらない共同体のイメージソースとしてあるのは『めぞん一刻』というよりも、『すいか』ではないだろうか。なにせ、直達の暮らす広い一軒家にはOLと教授と漫画家がいるのだから。そう考えると、言葉の飛距離と会話劇の妙、そして、スローペースな寡作ぶりといい、田島列島は漫画界に現れた木皿泉のようである。


『水は海に向かって流れる』の素晴らしさは、”運命“というような大きな容量の言葉に収まらない感情の機微の丹念な編み込みや、「もっとラノベに出てくる妹にみたいに起こしてくれーっ」とか「何の変哲もないガールズトークですよ」のようなウィットに富んだユーモアを撒き散らすことで、盛大に照れてみせる細部にある。それを承知の上で、物語の構造を因数分解してみたい。


田島列島という作家が繰り返し描くモチーフとして、「家族」という共同体の脆さというのがある。そこには昼ドラ的もしくはハードボイルド的事象が介入し、その維持を困難なものにしてしまう。まるで血の繋がりというものにあまり信頼を置いていないかのように。しかし、田島作品で描かれるのは「人と人の結びつき」だ。それらは“贈与”によって構築されていく。『水は海に向かって流れる』1話のタイトルが、「雨と彼女と“贈与”と憎悪」であり、「ポトラッチ(北米の先住民の間で行われていたお返しをする義務を伴った贈り物をし合う儀式)」というワードが登場することからも明らかだが、田島列島の筆致の根源には文化人類学の教養がある。教授がレヴィ=ストロース親族の基本構造』の名を出したり、『子供はわかってあげない』において善さんが『うすら悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』のパロディ)を、『ごあいさつ』において地歴部の顧問の先生が前田速夫『白の民俗学へ』を読んでいるなど、枚挙に暇がない。


マルセル・モースやレヴィ=ストロースと手を繋いだ田島列島が立つ地平から見れば、『水は海に向かって流れる』は、「牛丼を振る舞ってもらったお礼に、カボチャをお返しする」という物語だ。牛丼やカボチャといった意味のないようなモノの交換が、ささやかな連帯を生み出していく。であるから、この物語においては、誰もが何かを与えていく。5人が共同生活を営むあの一軒家に訪れる際には、誰もが必ずや手土産のようなものを持っていることに気づくだろう。うどん、モチモチのお菓子、卵、エッチな大根、ナン・・・その他にも榊さんは「もう着ない服」を泉谷さんに与え、直達がカップ焼きそばの捨てるお湯を教授のカップ麺に注ぎ、榊さんはやたらと直達に「うで卵いる?」とを与えようとする(直達が父からカツアゲしたお金で卵を買って帰ってきたことへの返礼のように)。牛丼やカボチャや卵といったモノ自体に意味はない。しかし、「何かを誰かに受け渡す」というのは、“親密さ”や“うしろめたさ”を混濁させながら、「自分の一部を、魂を受け渡すこと」ということなのである。であるから、贈与・交換といったモノの受け渡しは、“交感”(=心が通じ合うこと)を呼び起こすのだ。田島列島の短編集『ごあいさつ』に収録されたデビュー作においても、姉の不倫相手の妻から霧吹き(もしくはドーナツ)という他愛のないモノを贈与された主人公が、血の繋がった姉ではなく他人であるはずのその妻に「情がうつって」しまうお話である。『水は海に向かって流れる』において、ファミレスごはんの食べ残しを榊さんのために持ち帰った直達が、

本当はお腹いっぱいになんか なってなかったの

という榊さんの本音を引き出して交感を果たすシーンなどは、そのさり気なさも含めて、本作のハイライトの一つに数えたい。


贈与、交換、交感といった動的な流れこそが、生命や社会を形作っている、という論理で編まれた田島作品においては、一箇所に踏みとどまってはいけないのだ。短編集『ごあいさつ』に収録されている「おっぱいありがとう」の中に、“求める人には与え、与える者からは奪いつくす人”(これおもポトラッチ的思想だろう)が登場する。

世の中をくるくる回すってコトなのよ
いろんなものが均等になるように

と彼女は言う。みんなが幸せになるために、水は海に向かって流れなければいけない。そんなタイトルの言霊に沿うようにして、物語は水のモチーフで推進していく。1人で傘を差していた榊さんは、直達が現れたことで1つの傘を分け合うことで肩が雨に濡れる。海に飛び込み、堪えていた涙を流す。そして、ラスト直前の突然の天気雨を段ボールでの雨を避け、本音を語り合うシーンの鮮やかさ!出会うことで、水の”流れ“が生まれ、堰き止められていた時間もまた流れていく。


感情が流れ、人が人に影響を与えていくということ。すなわち“循環”と“継承”を田島列島は描き続けている。『子供はわかってあげない』の終盤などは、そこへの言及が溢れるように飛び出している。

人は教わったことは教えられる
でももじせんせーのこと忘れても
もじせんせーから教わったことは忘れない子はいるんじゃないの
したらその子の書く字にもじくんが残るじゃん

世界に必要なのは「自分にしかない力」じゃない
「誰かから渡されたバトンを次の誰かに渡すこと」だけだ

僕たぶんずっと
世界中で自分にしか出来ないことにこだわり続けてきたんです
この年になるまで
なんか恥ずかしいですね

美波ちゃんが大人になった時
私と同じように自分より若い人にそのお金の分何かしてあげて
そういう借りの返し方もあるの
覚えておいてね

ここには、「オリジナルではないもの」への眼差しがある。人はオンリーワンである必要などない。誰かの影響を混ぜ合わせながら生きていけばいいのだ。『子供はわかってあげない』16話のタイトルには「蒼氓」という山下達郎の楽曲が添えられている。これは山下達郎の言葉を借りれば、「無名性、匿名性への熱烈な賛歌」だ。この連綿と受け継がれる文化の流れにも、心を熱くしてしまう。

誰かと出会うことのおかげで僕たちは生きていける。

というのは『子供はわかってあげない』に添えられた秀逸なコピーだが、『水は海に向かって流れる』にもそのまま当てはめることができるだろう。

何にもどうにもならないとわかっていても
知っててほしかった
怒りたかったこと
誰かが知っていてくれるだけできっと生きていけるんだろう

僕がずっとおぼえておいくので
榊さんが怒ってたことはずっと僕がおぼえておくので
大丈夫です

約束だよ
ずっとおぼえてて
私も直達くんが怒りたかったこと泣いたこと
ずっとおぼえておくね

モノの贈与を通じて、2人は秘密の感情さえも交換する。そのことで彼らの抱えていた怒りや涙といった感情が密やかに輝きだす。こんな運動こそが、生き続けることの意味なのではないだろうか。


「君は幸せになるよ」と、榊さんはミスター・ムーンライトに予言を与える。それは、盗み聞きしていた直達に届き、時を経て改めて直達への言葉としても与えれ、今度は「榊さんも幸せになります、大丈夫です」と直達から榊さんに返ってくる。このグルグルと回る循環と連帯が、「最高の 人生にしようぜ」という台詞を感動的に響かせるのである。