青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『スイッチ』

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だんだん不思議な夜が来て あたしは夢の中へ
堕ちていく天使は 炎を見出してく


JUDY AND MARY「LOVER SOUL」

JUDY AND MARYの楽曲の挿話が『最高の離婚』(2013)を彷彿させる・・・などと列挙していたら限がないほどに、これぞまさに坂元裕二の集大成といった質感のドラマであった。社会から零れて堕ちていく人々を天使として描いてきた坂元裕二のドラマを象徴するように、ドラマは高層マンションの吹き抜けを上空から下降していくショットで始まり、天使であるところの主人公のひどく拗らせたナレーションから物語を進行させていく。そして、リーガルサスペンスとしながら、冒頭で真の犯人は星野七美(石橋静河)であると明らかにされ、ドラマのジャンル、そして善/悪の倫理感が混濁していく。善/悪のスイッチのシームレスな切り替えこそが、人間なのだ。『カルテット』(2017)ではそれを、「白黒つけられないグレー」と表現していたが、今作で言うならばカルピス。高濃度なカルピスの原液を水と氷で少しずつ薄めながら飲む様は、人間は誰しも原罪を抱えて生まれ、それと折り合いをつけながら生きていくということのメタファーのよう。もしくは青森名物である味噌カレー牛乳ラーメン。2つの色どころか、あらゆるものが混ざり合っている。


集大成という言葉を持ち出したくなってしまうのは、劇中内に登場する『ラブジャンクション』の存在も大きいだろう。坂元裕二自身の最大のヒット作である『東京ラブストーリー』(1991)をセルフパロディしてみせているのだ。いや、むしろ“書き換えた”と言っていいかもしれない。あのトレンディなラブストーリーの主人公たちに、バッグボーンを書き足してみせる。2人が恋に落ちる背景には、痛ましいトンネル崩落事故があって、そこには政治家の利権が関わった手抜き工事が関わっている・・・といったように。ラブストーリーを綴る際のこの筆さばきの変化を説明するには、是枝裕和との対談において語った以下の言葉の引用がふさわしいだろう。

男女がキスをしている後ろで車が燃えている写真を見たんです。ラブストーリーでも男女だけで成立するわけじゃない。社会で起きている色んなことが作用するし、逆に男女の間で起きていることが社会にも作用している。

テレビドラマの執筆を重ねる中で、ラブストーリーにすら密接に作用する社会というものに目を向けた坂元裕二は、イジメ、幼児虐待、少年犯罪、女性差別、震災、貧困・・・といったこの世界の負の側面をドラマに組み込んでいくこととなる。そして、ある一つの結論に辿り着く。ドラマのみならず朗読劇、演劇といったここ数年の作品群においては、“そのこと”を作劇に繰り返し忍びこませている。『スイッチ』では以下のように。

直「今回だって赤の他人じゃん。赤の他人に共感して、勝手な正義を振りかざして」
円「でもさ、ほっとけないじゃん。
  私自身のことだもん。
  誰かがどこかで嫌な思いするのって全部繋がってて・・・
  Wi-Fiみたいに繋がってててさ
  <中略>彼女がされたことって、わたしたちがされたことじゃない!」

この「彼女がされたことって、わたしたちがされたこと」というのが、坂元裕二がドラマで社会を描き続けた中で辿り着いた真理だ。そんな最も伝えたいであろう言葉が、カラオケボックスの中で、店員に邪魔されながら交わされていくという“抜け感”に、坂元裕二の余裕を感じる。いや、もしかしたらあまりに何度も同じことを書き続けていることに少しの照れがあるのかもしれない。少し列挙してみよう。

誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。


『不帰の初恋、海老名SA』より

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。


『不帰の初恋、海老名SA』より

世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる、と実証されました。メキシコで起きている問題は、日本の食卓にも影響を及ぼすのです。


カラシニコフ不倫海峡』

この世界には理不尽な死があるの。
どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの。


カラシニコフ不倫海峡』より

俺もあいつも同じ道歩いてて、1人だけ穴に落ちたんだ。
どっちが落ちても不思議じゃなかった。
あいつがしたことは、俺がするはずだったことかもしれないんだ。


『anone』より

これほどまでに何度も何度も言葉を変えてまで、坂元裕二は伝えようとしている。「なぜわかろうとしないのだろう。そこで傷ついているのは、すべて“わたしたち”だったかもしれないのに」と、距離のある出来事に黙り込んでしまう無関心に警鐘を鳴らしているのだ。


この“わたしたち”という連帯の響きは、『スイッチ』において、「離れたいけど、離れられない」という不可分な関係性の円(松たか子)と直(阿部サダヲ)というキャラクターを生み出すこととなる。「LOVER SOUL」の歌詞に倣うなら

あなたと2人で このまま消えてしまおう
今 あなたの体に溶けて ひとつに重なろう

というような関係。2人は恋人関係を解消した後も、仕事で顔を合わせ、さらには互いの恋人を紹介し合うという奇妙な会を催してまで繋がり続ける。そんな “離れても、再び戻ってくる”という2人の関係を表すように、ドラマは円環のイメージで彩られている。中華料理店の回転テーブル(人に話す価値のある蘊蓄ではない)、時計(止まってる時計と1分狂ってる時計)、観覧車(入口と出口が同じ)、ピザ(ゴレンのつくものはない)・・・そして、何よりも松たか子の役名が“円(まどか)”なのである。

社会からひどい目に遭わされた人は
死ぬ前にすることがあるでしょ?
怒るんですよ
鮭だって時には熊を襲うでしょ!?

というのは『anone』(2018)の台詞だが、この世界の理不尽さに対しては、反撃の狼煙を上げてよいというのがここ最近の坂元裕二作品の特徴だ。そして、それはたとえどんなにイリーガルなやり方であろうとかまわない。鳩に刑法が適用できないのと同じことだ、というように。『anone』においては”偽札作り”であったそれは、この『スイッチ』では”殺人”である。円は弁護士でありながら、理不尽な死に対して、明確な殺意でもって抗おうとする。哀しみで結びついた“わたしたち”の心が死なないように。

なんで親を殺された彼女が逮捕されて、殺したほうがヘラヘラ笑ってるの?
警察も検察も何もしないんだったら、誰かが代わりにやるしかないでしょ?
わたしがやらなかったら誰がやるの?
誰もやらないことは誰かがやるしかないでしょう

殺人を決意した円が「やるしかないな、ね?」とベランダの鳩に問いかけるシーンは出色。「鳩にふるう暴力はどんなにふるってもふりすぎということにはなりません」とまで言ってのける女が、理不尽な死の前では苦手な鳩とさえ連帯してみせるのだ。


そんな円の倫理観の歪みに、眉をひそめる者もいるかもしれない。しかし、芸術表現における美しさや素晴らしさと倫理というものは両立しないのだ。直や曽田(井之脇海)が宮崎駿の最高傑作だという『空飛ぶゆうれい船』(1969)のビル破壊シーンはどうだろう。そこにいくつかの死が含まれていようと我々はその破壊にカタルシスを覚えるはず。同じく直と曽田が宮本茂の最高傑作であるとする『ピクミン』は、無数のピクミンの死を積み上げてクリアしていくことに快感を覚えるゲームだ。いや、もっと小さな悪行でもいい。遺族年金を使ったカラオケでのデュエット、自転車を2人乗りしながら警官に「イェーイ」と親指を下に向けてみせる円(出口夏希)のあの表情はどうか。音を立ててカルピスを飲むという行為でもって結び付く直(醍醐虎太郎)と円の交感。あれらの美しさの前に、道路交通法やマナーを持ち出して咎めるのが正しさなのか。いや、むしろあれらの行為は罪の香りがするからこそ、美しさが際立っていると言っていい。余談にはなるが、直の少年時代を演じた醍醐虎太郎が、同じく倫理観の欠如を批判された美しき物語『天気の子』(2019)の主人公の声を担当していた役者、というのはただの偶然ではないように思う。

いい人は天国に行ける
でも、悪い人はどこにも行ける

という台詞まで飛び出すわけだが、何も坂元裕二は犯罪を推奨しているわけではない。人間は愚かで醜く悲しい生き物。そのことに目を背けずに、それでもその欠落を埋めようと他者と結びつこうとする“懸命さ”がこそ、人の愛おしさだ。どんなに大きな迷惑をかけられようとも

君が(あなたが)いる人生で
おもしろくてよかった

と互いの存在を肯定し合い、セックスの代わりに一つの毛布に包まる直と円。

僕はみなさんのちゃんとしていない所が好きなんです
たとえ世界中から責められたとしても
僕は全力でみんなを甘やかしますから

という『カルテット』の台詞を思い出すとともに、今作の言葉を借りるのであれば

アンパンは潰れてるやつの方が美味しいのに

これが、恋と社会を描き続けてきたドラマ脚本家・坂元裕二の、人間に対する認識の現状報告なのである。