青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

あだち充『スローステップ』

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あだち充の最高傑作は『スローステップ』である、と言い切ってみたい。実際のところは、いや『H2』だろ、いやいやそこは『ラフ』で、いやいやいや結局は『タッチ』なのです、いやいやいやいやその作家性が爆発しているのは『虹色とうがらし」であるからして、いやいやいやいや・・・と延々に問答が続いていくわけですが(楽しい)、今日はなんとなく『スローステップ』の気分なのだ。あだち充自身も思い入れを口にすることの多いこの作品。「いちばん僕らしいかな」「好き勝手描いた」「リラックして楽しんで描けた」といった言葉の通り、定石にとらわれない"あだち流"のストーリーテリングが縦横無尽に展開されている。ベタからメタまでなんでもござれ。大々的に"本格ソフトボール漫画"と銘打ちながらも、ソフトボールの試合はほとんど描かれず、その実は"恋の四角関係"をめぐるスクリューボール・コメディだ。その恋模様はまったく一筋縄にはいかない。なんたって、主人公である中里美夏は1話の2ページ目にしていきなり告白されてしまう。

好きです
一目会ったその日から
あなたのことで頭がいっぱいなんです

しかし、何やら話が噛み合ない。門松直人は単に”告白の練習”をしていただけなのだ。いつか出会うはずの運命の人のために。彼は「人を好きになる」ということがよくわからない。

あんた異性を本気で好きになったことある?
どうしたらわかるんだろ?
本当に好きになるってどういうことなんだろ?

あだち充という作家はいつだってこんな風にして、コメディの中に"たいせつなこと"を忍ばせる。そんな門松直人がついに恋に落ちる。しかし、相手がややこしい。中里美夏がひょんなことから変装した仮の姿「須藤麻里亜」である。やっと恋に落ちた相手はこの世に存在しない女性、そんなある種の切なさをまとった事象が、コメディを加速させていく。中里美夏に想いを寄せるクラスメイトの秋葉習、ソフトボール部監督の山桜監吾が加わり、ただでさえ複雑な四角関係が複雑に絡まり出していくのだ。たとえば、美夏が1人2役を演じる羽目になるドタバタ劇「ホラー映画はお好き・・・!?」(コミックス3巻)、「男女6人(!?)夏物語」(コミックス5巻)の洗練されたバカバカしさ。ここに、あだち漫画を読む喜びが詰まっている。また、これらの作劇には、タイトルからもわかるように、あだち充が敬愛するビリー・ワイルダーの筆致がトレースされている。その他にも、作品で何度も繰り返される"エレベーター"という装置を使ったドラマメイク、メロウなコマ割り、1周回って現代にジャストなキャラクター達のファッション(連載時は1980年代後半)、尻すぼみに終幕していくミニマリズム、・・・見所はつきない。




ときに、『あだち充本』を手に入れましたでしょうか。かつて『クイックジャパンvol.62』*1にてあだち充大辞典を編んだ森山裕之による熱情跳ねっ返る1冊。全あだちファン必携であります。この本の中の、「編集者・市原武法が選ぶあだち漫画の名場面」というコーナーにこんな一文がある。

あだち充はよく「ラブコメ」の巨匠と言われるが断じて違う。
彼が書いているのは「青春」だ。

なるほど。では、あだち漫画における「青春」とは?それは「選択すること」と置き換えられるだろう。『みゆき』における2人のみゆき、『タッチ』における達也と和也、『H2』における・・・、『クロスゲーム』における・・・と枚挙に暇がないほどにほぼすべての作品で、若者たちがいくつかの選択肢の中からどれか一つを選びとる葛藤が描かれている。そして、あだち充はその決断がどんなに曖昧なものであろうとも、すべからく肯定してみせる。『スローステップ』の終盤、中里美夏と須藤麻里亜が同一人物であることに気づいた門松直人は、その想いを美夏へといともたやすくスライドしてみせる。

秋葉:相手がちがうんじゃないですか?門松さん
門松:ちがっちゃいないよ
   おれは麻里亜さんを本気で好きだった
   その気持ちは今も変わらない
秋葉:そいつは中里美夏だ!
門松:—そして須藤麻里亜だ
   カツラとメガネがないだけのな

さらに、最終話「そして、美夏が選ぶのは・・・!?」における、美夏の選択はどうだろう。門松と秋葉の2人から同日にデートに誘われた美夏。

秋葉:何なんだよ、これは!?
美夏:ね だからいったでしょ
   まだ海は寒いって
秋葉:そういうことじゃなくて!
   なんでここに3人いるのかということだよォ
美夏:2人が同じ日に誘うからでしょ
秋葉:だからァ
   ふつうそういう場合はどっちかを断って1人を選ぶもんだろが!
美夏:どっちもどっちだからなァ
門松:おいおい

宛先を間違えてもいい、曖昧でもいい、決断はしなくてもいい。懸命に"揺れ動くこと"、それこそが青春なのだ。あだち充はなるべく言葉にせずに、できるだけ遠回りをしながら、そのことを描き続けている。



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*1:山下達郎が表紙の2005年刊行号。山下達郎あだち充の二大特集という私にとってバイブルのような1冊なのです。ちなみにあだち充へのインタビューを担当しているのは磯部涼