村山籌子の紡ぐ児童文学は、夫である村山知義によるイラストの魅力と不可分である。上の絵をじっくり見つめて頂きたい。このタイムレスな魅力は異常ではないだろうか。そのシュールレアリスムにはさくらももこの源流を見るよう。とにかく絵もお話も、都会的に洗練され、現代的に混乱している。こんなにもハイセンスな童話が、大正~昭和初期にかけて生み出されていたなんて驚きを禁じ得ない。復刻に尽力した編者は「カラリとして明るく楽天的でユーモアにあふれる」と評していて、なるほどたしかにそうなのだけども、村山夫妻のユーモアの奥底には、やっぱり”かなしさ”が潜んでいるようにも思えて、チェーホフを読むような気分で、村山作品を読みたい。
表題作「リボンときつねとゴムまりと月」における、この疲弊しきったリボンさんときたらどうだ。なんでも、隣に住むきつね達にいいように搾取されているらしい。見かねたゴムまりと月が救いの手を差し伸べる・・・というわけのわからない話なのだけども、妙にグッときてしまう。多様に異なるマテリアルが擬人化され、当たり前のようにテーブルで食事を交わしている。それがなんだか凄くいいのだ。「わたしは じゃがいも」という短い童謡も素晴らしい。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもに シルクハットは
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもに ながい ステッキ
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもに けいとの かたかけ
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもに 十もんの おくつは
どうですか。
わたしは じゃがいも、
じゃがいもが、まちを あるいても
いいですか。
たまらなく哀しく愛おしいではないか。時代に左右されない人間の劣等感みたいなものが*1、見事に掬いとられているように思う。
もしも、あめの かわりに
ねこだの
いぬだの
ねずみだのが ふってきたら
まあ、
どんなに おかしいでしょうね。
そして、
それが、
いくにちも
いくにちも
ふりつづけたら、
まあ
せかいじゅうは
ねこだらけ、
いぬだらけ、
ねずみだらけに
なるでしょうね。
この「もしもあめのかわり」のイマジネーションの裏側にもやはり、理不尽な世界に対する”怒り”のようなものを嗅ぎ取ってしまう。だけども、そこで降ってくるのが爆弾や矢などではなく、猫や犬や鼠であるところに、村山籌子の才覚がある。理不尽にはユーモラスな理不尽で返す。やさしいパンクスだ。そして、この魂は矢玉四郎の『はれときどきぶた』などに受け継がれているのではないだろうか。