青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『anone』2話

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<社会の理からはみ出す>

1話のエントリーで孤児とも天使とも形容した今作の登場人物たちは、つまりは社会というシステムからの追放者である。ネグレクトされ”家なき子”としてネットカフェで寝泊まりする辻沢ハリカ(広瀬すず)。フランチャイズチェーンに加盟した結果、父から受け継いだ土地を企業に奪われてしまう持本舵(阿部サダヲ)。丸の内の商社に努めるキャリアウーマンであったが、男性社会において出世街道を外された青羽るい子(小林聡美)。そして、血の繋がりを理由に家族という共同体を除外された林田亜乃音(田中裕子)。誰もが社会から居場所を奪われ、傷ついている。スーパーの3割引されたパックの総菜を、椅子に座ることもなく立ったまま発泡酒で胃に流し込む亜乃音の姿は、花房(火野正平)が言うところの、”人様の秘めた哀しみ”というのを体現している。だが同時に、そういった社会性から逸脱したふるまいの放つ生々しさが、妙に胸に残るのも確かだ。数年前のテレビの天気予報中継にたまたま映り込んだという娘の姿を、再び発見せんと、毎日タイマーをセットして番組をチェックする姿はどうだろう。彼女のこの行為に対して、「天文学的数字の可能性、意味がない」「録画してまとめてじっくり確認すればいいのに」と声をかけるのが”社会”というやつだ。だが、あの亜乃音のつつましい奮闘は、社会のコードから外れているからこそ胸を撃つ。それは、ポケットに直接肉まんを入れる寿さんの持つ可笑しさや美しさと同等だ。「お金を燃やす」「お金を捨てる」といった愚行もまた同じ。それらに快感を覚えるのは、彼らを阻害し続けた社会、そのシステムの象徴である通貨を否定する行為だからだろう。社会という枠組みは日増しに狭まり、多くのマイノリティ・落伍者を生み出している。

社会からひどい目に遭わされた人は
死ぬ前にすることがあるでしょ?
怒るんですよ
鮭だって時には熊を襲うんでしょ!?

たとえそれが小さな声だとしても、反撃の狼煙は上げるべきだろう。か弱き者たちの華麗なる逆襲。『anone』においてそれは、もしかしたらイリーガルな行為であるかもしれない。しかし、わたしたちにはあらゆる抑圧や束縛から解放される権利があるのだ。



<意味のないこと>

『Business Journal』というwebサイトに『anone』2話の酷評記事が載っていて、そこではこのドラマの持つ不明瞭さや非効率性が批判されていた。ビジネスを冠した媒体であるから、そういった論旨も正しいのだろう。しかし、この『anone』というドラマが抗うのはそのような社会のコードである。はなから”わかりやすさ”は放棄され、意味がないとされてしまうものに愛情を注ぐようなドラマ作りが徹底されている。2話の序盤で、まさに坂元節としか言いようのないやりとりが交わされた。

これ・・・これ、あのこないだのあれのやつなんですけど
これってなんでですか?

2話から観始めたとしたら、音声だけでながら見していたら・・・代名詞だらけで一体何のことやさっぱり理解できないに違いない。それでも、あの場面の台詞をこう書き、広瀬すずにああ発話させるということ。このハリカの言い淀みと不器用さにキャラクターの実存は積もっていく。前述の記事では、工場の電灯がなかなかつかないというシーンに尺をとるのが無意味と批判されている。確かに「押したい電灯のスイッチになかなか辿り着けない」というシーンは、ストーリーを進める上では、意味のないものかもしれない。しかし、あの初めてのスイッチを押す手探り感、そのリアリティこそが、”生きている”ということのようにも思える。食パンを二つ折りにして頬張ること、44℃の熱い風呂に浸かること、空に見つけた飛行船をスマートフォンで写真に収めること・・・こういったストーリーに(表面的にも、メタファーとしても)機能しない意味のないことの積み重ねにこそ、生の愛おしさは宿る。

亜乃音:身長小さいほうだよねぇ?
ハリカ:そんなに小さくないです
亜乃音:え、小さいほうでしょ
ハリカ:大きくはないけど、小さくはないです
亜乃音:・・・妙なことにこだわる

意味のないもの、妙なものにとことんこだわっていこうではないか。そこには、ドミノ倒しに並んでいない人間には理解できないものが、きっとある。



<ためらうこと>

誰かと出会ったり、別れたりする際、人はときに手を振ってみせる。実にシンプルな友愛の形。しかし、そういった”気安さ”を、上手に体現できない人というのがいて、坂元裕二がドラマで描くキャラクターは得てしてそこに分類される。たとえば、まずもって思い出されるのは『それでも、生きてゆく』(2011)で瑛太が演じた青年の「カラオケ行かない?・・・とか、人に言ってみたいです」という小さく切ない祈り。彼らはいつも、気安さをためらってしまう。


誰かに手を振ろうとする時、亜乃音の掌はギューっと固まったように途中で止まる。ハリカに、玲(江口のりこ)に向けたい愛情が、身体にノイズとして放出されてしまう。たまらなく切ない気持ちにさせられるシーンだが、その”ためらい”の手前にある「手を振ろう」という意志にこそ美しさを見出したい。坂元ドラマの登場人物たちは等しく生き辛さを抱えながらも、1人で殻にこもろうとはしない。上手にはできない、不格好かもしれない、それでも、彼らなりの懸命さでもって、誰かと繋がっていこうと行動を起こしていく。

わたしをここで働かせてください

というハリカの自主性は、そこに良からぬ企みがあるとは言え、心を動かされてしまう。ちなみに、この台詞で思い出すのはやはり『千と千尋の神隠し』だろう。口を布で覆いながら神々の汚れを洗い流す千尋の姿は、マスクを装着して特殊清掃をこなしていたハリカに重なる。



<忘れっぽい天使>

ハリカのスケートボートの裏に描かれている天使のイラストは、パウル・クレーの「忘れっぽい天使」だ。そして、ハリカもまた、とても忘れっぽい性分の女の子である。スケートボートを路上に、帽子を車内に、置き忘れてしまう。ネットカフェで知り合った2人との繋がりを語る時、「忘れ物をした時は教えてくれる」と表現していたのが印象的だ。ハリカにとって、人との繋がりの確かさは、”忘れ物”を指摘してくれるというところにあるのかもしれない。この2話においては、彦星(清水尋也)が「忘れ物気をつけて 行ってらっしゃい」と声をかけ、亜乃音が「忘れてるわよ」と帽子を手渡してくれる。また、忘れ物ばかりしているハリカであるからこそ、それらを保管しておいてくれる落し物箱(=忘れ物箱)の存在は、ノーベル賞ものなのである。



<温かい布をかけてあげるということ>

亜乃音が枕と布団、そしてパジャマをハリカに与える。ハリカもまた、1階で作業をする亜乃音の背中にソッと毛布をかけてあげる。相手が「寒くないように」と布をかけ合う、ここには根源的で美しい人間の交感が描かれている。そして、朝が来ると亜乃音は

いつまで寝てるんですか
離しなさい

とハリカの布団をひっぺがそうともする。そこには信頼を結んだ者同士のじゃれ合いの空気が流れていて、亜乃音とハリカの間に、温かな”布”を介して疑似母娘関係が作られていることを意味している。つかの間の親子関係が、持本とるい子の強盗計画によって崩壊した時、亜乃音はハリカが寝ていた布団の上にしゃがみ込み(この時の田中裕子の「よいしょ」の発話の凄まじさ)、脱がれたパジャマを見つめていたのも忘れ難い。



<並んで食べるということ>

いや、それよりも前に2人はすでに母と娘になっていたのかもしれない。ラーメン屋のシーンだ。

ハリカ:ふふ
亜乃音:なに?
ハリカ:いや、なんかいいですね
    玲ちゃんと 同じもの食べるの

店に漂っていた”かつて”の玲の存在がハリカと同化し、亜乃音とハリカを親子たらしめている。そして、同じものを食べることも重要だ。亜乃音とハリカがテーブルに並んで、どっさりもやしラーメンを食べる、ジャムトーストを食べる。1人の時は立ったまま食事をかっこんでいた亜乃音は、ハリカが現れたことで、机に座って食事をとるようになる。持本とるい子は店のテーブルに並んでお好み焼きを食べ合う。並んで同じものを口にした奇妙な2組は、濃密な”親密さ”を纏っていく。



<赤と青が混じり合う>

青と赤が今作のキーヴィジュアルであることは1話のエントリーで述べた通り。赤い手袋、赤いマニキュア、福神漬け、印鑑の朱肉など、 やはり“赤”は様々な箇所に散見される。しかし、それまで赤いネクタイを身につけていた持本が、あくる日の場面では茶色のセットアップの下に青いニットを着ている。青と赤は”対”のモチーフとしては描かれていないのかもしれない。多くの赤を身につけたるい子の苗字が「青羽」であったり、彦星に出会う前の幼少時代のハリカが赤い服を身につけていたりすることにも象徴的だろう。重要なのは、それらが混ざり合うことだ。紙幣は、シアンとマゼンダ、薄い青と薄い赤のインクを重ねて印刷されていた。青と赤が混ざり合う時、ニセモノが現れる。しかし、そのニセモノこそが彼らを守り慰めるものなのかもしれない。



<哀しみで慰め合うこと>

血(赤)の繋がりに縛られた亜乃音の元に、青を纏ったハリカがやってくる。

目は騙されたけど指は気づく
持ったこの一瞬の指先で
「あ、違う」ってわかるんだよ
暗いところで知らない人の手を・・・なんか
繋いでしまったみたいんなんです

偽札を巡るこの言説は、いつの間にか亜乃音と玲という親子の関係性にスライドされていく。

生まれた時からずっと繋いでた手の感触が変わっちゃう
知らない人の手を繋いだみたいになっちゃう

そんな亜乃音の哀しみを、「親から愛された記憶がない子って人を愛することができないんだろうね」と蔑まされた過去の傷を見せることでハリカが慰める。

だからね 大丈夫だよ
見て 玲ちゃん
すごい優しそうな顔だし
子供いて、お母さんになってるじゃない
愛された記憶があるから
愛せてるんだよ
亜乃音さんの愛情が ちゃんと玲ちゃんに届いたから
自分の子供も愛せてるんだよ
大丈夫だよ

「大丈夫、あなたは大丈夫なのだ」というハリカの優しさ。亜乃音は「そうであって欲しい」と大いに励まされながらも、それを否定することで、ハリカの存在を肯定してみせる。

関係ないと思いますよ
愛された記憶なんかなくても
愛することはできると思いますよ

互いの”痛み”でもって、慰め合う2人の関係がたまらなく切なく美しい、この2話において最も心振るわされるシーンではないだろうか。



さて、2話。どこか浮足急ぎ足な印象の1話に比べると、あらすじは拡散していきながらも、焦点が定まっていて、物語にグッと引き込まれた。新たに登場した江口のりこ火野正平、川瀬陽太、和田聰宏といった役者陣も素晴らしい佇まい。弁当屋で働く瑛太というルックも秀逸だ。しかし、何と言っても、田中裕子と広瀬すずだ。田中裕子には、演者として普通に”在る”ことの凄味を、広瀬すずには改めてそのルックスの可憐さに、心臓を掴まれた。そして、やはりその特別な声である。坂元裕二のドラマの主人公たちは、か細くも強いボイスを放っていなくてはならない。