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坂元裕二『anone』1話

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坂元裕二の新作ドラマ『anone』の放送がついに開始された。ジャンルレスゆえに、現段階ではまだまだ漠然とした印象だが、イメージを織り重ね、ストーリーを形作っていくその筆致はやはり郡を抜いている。1話における白眉は、偽札を巡る歪なカーチェイスで3つの群像劇が交差していくスペクタクルだろうか。その果てに、「靴が脱げてしまう」という情けないアクションで人物たちがひっそり結びついてしまうという描き方には、「坂元作品を観ている」という興奮を覚えた。序盤で「名言っていい加減ですもんね」と自虐的に言及しているにも関わらず、やっぱり坂元裕二のドラマは名言でまとめられてしまう。坂元裕二の名言砲、坂元裕二ドラマは名言の癖がすごい・・・気持ちはわからないでもない。「お金じゃ買えないものもあるけど、お金があったら辛いことは減らせるの」も「大丈夫は2回言ったら大丈夫じゃない」も確かに良いのだけども、やはりその真骨頂は名言らしからぬ所に潜んでいるように思う。

シャワー室のお湯がでなかった時は連絡し合うし
シャツの染みがいつ何を食べこぼしてできたものかお互いに知っている
忘れ物をした時は教えてくれる
友達っていうのとは少し違うけど
もうずいぶん長い間パジャマを着て寝たことがないのは3人とも同じ

「シャツの染みがいつ何を食べこぼしてできたものかお互いに知っている」というラインは、あまりにも見事に、人と人の繋がりの温かさというものを切り取っていやしないか。コンビニの廃棄弁当を食べ、ネットカフェのシャワー室で身体を洗い、パジャマを”着ない”という共通点で結びつく。孤独という同じ匂いを纏った、いわばカルテット的共同体の3人。しかし、その関係は”お金”というシステムの前に、いとも簡単に崩れさってしまう。『カルテット』(2017)に流れていた甘やかさを捨て去り、より過酷な現実を描いていこうという意志の現れだろうか。ハリカ(広瀬すず)が、かつての幻想に石を放り投げるシーンがある。「石を投げる」という所作はこれまでの坂元作品に頻出するモチーフ。『それでも、生きてゆく』(2011)や『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)の中では、辛辣さの中でのひと時の息抜きや密やかなる交感として描かれていた投石であるが、『anone』におけるそれは、決別、破壊として暴力的に描かれる。やはり、状況はこれまで以上に穏やかではないのだ。


モチーフのリフレインは他にも、1話にして多々見受けられた。たとえば、猫。『最高の離婚』(2013)や『問題のあるレストラン』(2015)のマチルダとハッサクを例に出すまでもなく、坂元裕二のドラマにはいつも猫のイメージが散りばめられてきた。そして、亜乃音(田中裕子)のもとに猫が、ハリカのもとに猫が、そしてるい子(小林聡美)のもとには猫顔の男が。完全に余談になるが、阿部サダヲと余命宣告と言えば、ドラマファンとしては、あの『木更津キャッツアイ』(2002)を想起してしまうし、あのドラマでの阿部サダヲは猫田カヲルなのである。*1また、この1話に登場した漫画喫茶、ファミレス、動物知識なども多くの作品に登場するモチーフ。手紙、列車、たこ焼き、素麺、カラオケボックスクリーニング屋などの登場にも坂元フリークは期待していきたい。


つまり言いたいのは、”繰り返される”ということだ。『anone』は、次屋尚(プロデュース)×水田伸生(演出)×坂元裕二(脚本)×田中裕子という布陣での、『Mother』(2010)、『Woman』(2013)に続く第3弾。初代へのリスペクトというわけではないだろうが、ハリカの幼少時代を演じた大迫莉榎の演技メソッドでもって、『Mother』の主人公”つぐみ”(芦田愛菜)の亡霊を召喚している。やしろ優のモノマネにあるように、「あのね」と言えば、それは芦田愛菜の専売特許なのである。今はもう消滅してしまった満島ひかりInstagramのアカウントが残した

坂元さんのドラマは、役と役が輪廻して繋がっていますね

という言葉を思い出せば、ハリカはつぐみのありえたかもしれない未来の一つなのだ。



<物語は孤児のために>

つぐみ同様に、今回の物語の主人公ハリカもやはり孤児である。近年の坂元裕二は憑りつかれたように”孤児”というモチーフを手掛けている。対談集「世界といまを考える」の中で是枝裕和が指摘しているように、キャリアにおける異色作『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』(2012)という史実に基づいた政治ドラマにおいてさえも、その趣向は色濃く噴出している。天皇という拠り所を失った大きな孤児としての戦後日本の復興を、吉田茂(もまた孤児である)とダグラス・マッカーサー(≒アメリカ)をはじめとする多様な親子関係で描いている。スティーヴン・スピルバーグの「私の映画は、両親が離婚した子供たちに向けられたものだ」という言葉は有名だが、坂元裕二もまた同じような信念を胸に抱いているのかもしれない。もちろん、ここで言う”孤児”とは、親のいない子供達、ひいては孤独な魂を持つすべての人々を指す。言葉は、物語はそんな寂しがり屋たちを結びつけるために存在するのではないだろうか。



<はみ出し者の天使たち>

また坂元裕二が描く人物たちは現代都市に生きる“天使”でもある。純粋さと残酷さを兼ね備え、混乱した彼らは、世界からあまりにも大きくはみ出してしまう。主人公ハリカ(広瀬すず)のニックネームは”ハズレ”。

みんなって誰?
みんなって誰のことかわからないから同じにできないんだよ

その強い固有性ゆえに「普通ではない」とされてしまう。特殊清掃のバイトにおいてガスマスクをつけている姿が印象的だ。チャットルームでのアバターにすらハリカはそれを装着させている。天使である彼女にとって、この世界の空気は汚れ過ぎている。そして、汚れた世界から目を背けるように伸ばされたハリカとカノン(清水尋也)の前髪。


カレーショップを経営する持本舵(阿部サダヲ)は、料理人であるにも関わず、フリスク中毒のようだ。口臭を気にしてのことなのだろうか。「フリスクを適量取り出すことができない」という所作からも、彼の抱える”生き辛さ”が浮かび上がってくる。「本日をもちまして閉店致します」と書かれた貼り紙は、1枚に収まりきらず、不格好に1/4の画用紙が継ぎ足されている。「ます」が”はみ出して”いるのだ。メニューも見ることなくカレー屋で焼うどんを注文する青羽るい子(小林聡美)は、その態度だけでも充分に、おおいなるはみ出し者であることがうかがえる。林田亜乃音(田中裕子)はまだまだ謎めいている。登場シーンはソファーからの”落下”。そして、彼女が階段を”下降”し、指輪を床に”落とす”ところから物語の扉が開いていく。この繰り返される「落ちる」イメージは、彼女の天使性を形づくる。また、後に偽札と判明するとはいえ、万札をトイレに流し、火で燃やすその姿は、まさしく社会のルールからの逸脱者である。ラスト数分でついぞ登場した坂元裕二作品のミューズ瑛太が演じる謎の男は、ひたすらに両替機にお札を挿入してはエラーを繰り返す。たったそれだけの所作で、「お前はニセモノだ」と世界から拒絶される男の哀しさを映しとってしまっている。誰もがはみ出し者の天使たち。そんな彼らが、それぞれに違う場所で、しかし同時に、空から零れ落ちる”流れ星”を見上げる。あの流れる星もまた、彼らと同じく天からの追放者なのだろうか。この1話において実のところ最も印象的なのは、どこまでも広く映し撮られた”空”の画ではないろうか。天はどこまでも高い。手を伸ばしても届かないほどに。

いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)では有村架純高良健吾の2人を、マフラーやパーカーというアイテムの”輪っか”が天使たらしめていたが、今作における天使性はハリカのスケートボートに描かれたパウル・クレーの「忘れっぽい天使」という形ではっきりと可視化されている。更に、ハリカの主たる移動手段がスケートボートであるのも興味深い。それはつまり、彼女は地上から少しだけ浮いている、ということである。



<ハリカとカノン>

ハリカは徹底してブルーを身に纏っている。ダウンジャケット、スマートフォン、リュック、スニーカーの紐、セーター、バイト先作業衣、ガスマスク・・・いたるところに散りばめられた青。対してハリカ以外のものはこれまた徹底して、赤で彩られている。トレーナー、ニット帽、ルージュ、トックリ、ネクタイ、信号、ヘッドライト、パンに塗られる苺ジャム*2、そして偽札を燃やした、会社の倉庫を燃やした、炎の赤。しかし、ハリカ以外に青を纏うものがいる。病室で薄いブルーのパジャマを着て眠るカノンだ。そして、カノンの過去である紙野彦星が「伸ばし過ぎた前髪に青いダウンジャケット」という現在のハリカと全く同一のルックであったことにハッとさせられる。忘れていたはずの彦星との”かつて”は、ハリカにしっかりと息づいていたのだ。ちなみに、坂元裕二はこの”青”というモチーフをとても大切にしている。今作と同スタッフによって制作された『さよならぼくたちのようちえん』(2011)という単発ドラマでは、ゴッホの描いた夜の”青さ”が、死に対抗するイメージとして演出されていた。

ハリカと彦星の関係は、彦星というネーミングからも七夕の伝説がトレースされていることが明白だ。彦星のいる病院を目の前にしながらも、川(天の川)を挟んだ対岸で足止めをくらってしまう。バーチャル空間で言葉を交わすことしかできない2人。誰よりも深く結びつきながらも会うことを禁じられた恋人、まさに現代の織姫と彦星である。



<物語で異化する世界>

「ちょっとこのお店って明る過ぎません?」とるい子が投げかけると灯りが暗転し、亜乃音が大量の札束を発見すると工場の電灯が割れタイトルバッグへ。まさに「物語のはじまりはじまり」と言わんばかりの演出だ。そして、ハリカが寝泊まりしているネットカフェの名は「アラビアンナイト千夜一夜物語)」であるからして、この『anone』は”物語”というモチーフを強く扱おうとしているように感じる。


ハリカは、辛い過去を絵本のような素敵な物語にすり替えることで、なんとか生き延びてきた。彼女はその物語をお守りのようにして暮らしてきたのだ。彼女がどうしても異化させなければならなかったのは、自身に架せられた「変な子」だとか「病気」とかいったレッテルだろう。

変な子っていうのは褒め言葉なのよ
人はね持って生まれたものがあるの
それを誰かに預けたり変えられちゃダメなの
たしかにあなたは少し変な子だけど
でもそれはあなたが当たりだからよ

物語はこんな風にして、現実を異化させ、彼女を慰めた。しかし、早くも1話にして、その虚構は暴かれてしまう。風車と風見鶏が、時計の針とは逆さに回り、ハリカの記憶を呼び覚ましていく。老婆に名前を奪われるという、まさに『千と千尋の神隠し*3のダーティー版とでも言おうような壮絶な過去。しかし、同じ記憶を共有している彦星は、そんな過酷な日々の中の一夜の思い出をお守りにして、これまで生きてきたことが明かされる。反転につぐ反転。誰かに記憶を語ることで、それは物語となり、誰かの現在を救済する。その循環を止めてはならない。顔を突き合わすのでなくてもかまわない。手紙、メール、チャット、ブログ、TwitterInstagram、LINE・・・なんだっていい。誰かと言葉を交わすことの切実さよ、美しさよ。

*1:猫田がときおり披露したネズミ顔を、フリスク2粒を歯に見立てて再現していたのも偶然とは言え、うれしい

*2:食パンに乱雑にかぶりつく田中裕子の所作が素晴らしい。亜乃音が"生きている"という感じがする

*3:やはり坂元裕二には宮崎駿の魂が息づいている