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宮藤官九郎『監獄のお姫さま』最終話

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最終話、ここぞとばかりに時系列をシャッフルして事の真相が語られていくわけだけども、「計画は失敗に終わった・・・と見せかけて、実は成功でした」というような視聴者への揺さぶりは、どうにも下品に感じる。決定的な証拠を手にして、それなりの勝算があったはずなのに、留置所で先生(満島ひかり)が涙を流す、なんていうシーンはフェイクが過ぎる。そう考えると、作品のピークは8話から9話にかけてだった。怒涛の伏線回収で、仲間が再集結し、1話の時間軸へと戻っていく(=進んでいく)様には、たまらなく興奮させられたものだ。エピソードが補完されることで、色違いでお揃いのiPhoneケースとネイル、1本丸ごとのローストビーフ、戦隊モノのコスプレ・・・・1話の段階では空滑っているように見えた全ての事象が愛おしい。「メンバーが再集結して、計画が実行される」という結果はわかりすぎるほどにわかっているはずなのに、その過程に一喜一憂してしまう。出所後、仲間と連絡がとれない馬場カヨ(小泉今日子)の姿に胸を痛め、アドレス設定ミスが原因だったとわかれば、安堵する。すなわち、あらすじのネタバレなど恐れるにたりないわけである。私たちの心を震わすのは、人と人の血の通ったやりとりなのだ。その実感は、「人を信じたおかげで、私は今ここにいます」という姫(夏帆)の台詞に集約されるだろう。



板橋吾郎(伊勢谷友介)が法に裁かれるという結末は、勧善懲悪的な爽快さはありつつも、さして意味を持たないように思う。この最終話において、重要なのは板橋吾郎がプリンスに向けて放った台詞ではないだろうか。

彼女はしのぶだ
俺もしのぶだ
俺たちはしのぶだ

表層的には、依頼人や証言を欺くためのトリック、もしくは「“しのぶ”って名前、男でも女でもいるしね。坂上忍のパソコンから、大竹しのぶがメールしても、分かんないっしょ?」という女優(坂井真紀)の的外れさを表現するギャグが実は伏線になっていたという回収なのだが、深層においては、この物語を端的に表現してしまっている。


彼女はしのぶで/俺もしのぶ・・・この混濁性である。それはこれまでも随所に顔を出してきた。白いシャツから流れる血、クリスマスケーキのクリームと苺、なます(大根と人参)、サンタクロースやえどっこヨーグルトのカラーリングと、赤と白の”混じり合”いを画でもって執拗に提示していた1話。各回の女たちの回想シーンにおいては、馬場カヨの夫も、財テク菅野美穂)の父も、姉御(森下愛子)の若えのも、女優の追っかける舞台俳優も、その誰もが板橋吾郎の姿で再現されていた。これだけでは「男社会の象徴としての板橋吾郎」という混濁に思えたが、混濁性はそこだけには留まらない。財テクが、事件の被害者である横山ユキ(雛形あきこ)をイタコのように降霊してみせ、板橋吾郎の父もまた伊勢谷友介の姿で再現され、マニュアル娘であった高山(大幡しえり)は先生の”おせっかいぶり”を、若えの(尾見としのり)のは「形だけ」と前組長の口癖を、継承する。誰もが関係を結ぶことで影響され混じり合っていく。


すなわち『監獄のお姫さま』においては、被害者と加害者もがっぷりと組合い、混濁している。男性によって傷つけられた女性たちが連帯して復讐するという、一方通行的な物語ではないのだ。そもそも、女優やリン(江井エステファニー)の罪はそれぞれ結婚詐欺と美人局、明らかに搾取する側だ。板橋吾郎を狂気にからめとった原因が、しのぶの父が経営する江戸川乳業に勤めていた父のリストラにあるというのも、示唆的であるし、女たちは皮肉なことに、加害者である板橋吾郎の作るヨーグルトを食べ、板橋吾郎がチビ社長としてリリースしたCMソングを歌うことで、連帯し、慰められている。



誰もが混濁する世界においては、その役割も移ろいゆくのが自然のこと。吾郎のように社長という役割に固執するのはナンセンスなのだ。晴海(乙葉)は見事すぎるほどに母としての役割をしのぶから引き継ぎ、先生は年齢に関係なく受刑者たちの母となる。母の役割を奪われたしのぶはどうだろう。

勇介「おばさん、だあれ?」
馬場「お姫さまよ」
勇介「はじめまして、お姫さま」

かつては母で、今は誰ともわからぬおばさんが、いとも簡単にお姫さまに変身する。「どのおばさんも、みんな誰かの姫なんだよ」というのぶりん(塚本高史)のパンチラインは、正直「何言ってるかよくわからないです」という感じなのだが、この軽やかな変容は支持したいのである。