青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ロロ×キティエンターテインメント『父母姉僕弟君』

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一度生まれた”好き”は消えない

故に、かつて発生した感情は、確実に未来へと繋がっている。古今東西のあらゆるボーイミーツガールを摂取した三浦直之が辿り着いたこの信念は、この『父母姉僕弟君』においては、”生まれることのなかった”子どもさえをも舞台の上に召喚させてしまう。報われなかった恋のありえたかもしれない未来すら祝福する。過去と現在と未来に発された”アイラブユー”が等しく光り終幕を迎える、ロマンティックが爆発した本作は、ロロ最高傑作との呼び声にどこまでもふさわしい。しかし、完璧なラストに辿り着くまでの、そのあらすじのとっ散らかりに度肝を抜かれた観客も少なくないのでは。*1捻じ曲げられた時間軸、揺らぐ生死の境、積み重ねられる引用、突如挿入される「We Are The World」の合唱、そしてエノモトキハチが繰り広げる野球談議(強烈な高橋源一郎優雅で感傷的な日本野球』のオマージュ)・・・多くの観客を置いてぼりにしたであろうこれらのファクターは、それでいてやはり『父母姉僕弟君』に欠かせないピースだ。仮にこの作品を、スマートに簡潔に仕立てあげたとして、果たしてあれほどの感動を生み出しただろうか。答えはNOだろう。ある種の荒唐無稽さの中でしか、この虚構にまみれた世界の真実は浮かび上がらない。そして、本当に伝えたい大切なことは、できるだけ複雑に、遠回りを重ねながら語られるべきなのだ。


この作品の持つ歪さ、その複雑に枝分かれした細部は、無関係である登場人物たちを魔術的に結び付けている。西部劇狂いの男、もう死んでしまった女、獣の腕を生やした孤児、生まれなかった男の子、常軌を逸したまでに都合のいい女、ベースボールに憑りつかれた男女、身体に猫を飼う老婆、の飼い猫になってしまうダンディな父・・・華麗なまでに世界から逸脱した奇人たち。物語は、等しく現状に混乱している彼らを強引に結びつけることで、一つのコミュニティとして連帯させていく。その繋がりの中で、孤独な魂たちは、ほんの束の間ではあるが、優しく慰められていく。その手つきはいささか乱暴ではあるが、「単なる血の繋がりなど何の意味があろうか」という疑似家族の形成には、坂元裕二是枝裕和の作品群との共鳴を覚えてしまう。三浦直之が、2012年にすでにこの物語を献上していた事実を称えたい。


作品と役者の幸せ過ぎる関係性にはひたすら舌を巻しかない。どこでもない場所から声を発しているかのような天使・天球がベスト島田桃子であるのは言うまでもあるまい。キッド(亀島一徳)の体現するポップでダンディなもの悲しさ、浮世離れした「なんでやねん」を貫き通す重樹(篠崎大悟)の尋常ならざるタフさ、不条理をいともたやすく受け入れる仙人掌(望月綾乃)のスケール感、既存のコメディリリーフ役を軽々とこなしてみせる森本華の器用さ・・・そして、劇団員以外の助演役者も全員が全員素晴らしい。まさに充実期を迎えるロロは、9月にvol.13『BGM』上演、11月に『父母姉僕弟君』の再演、そして来年1月に2010年作『旅、旅旅』を大幅にリテイクしてvol.14『マジカル肉じゃがファミリーツアー』として上演予定と、これまでにないハイペースを継続中だ。これらは「旅シリーズ」として三部作に括られているらしい。では、ロロにおける”僕らが旅に出る理由”とは?そのヒントとして、ナタリーに掲載された三浦直之のインタビューを引用したい。

震災と津波によって、僕が小学3年生まで住んでいた宮城県の女川はほとんどなくなってしまったんですよね。震災後、女川に戻ってかつて住んでいたアパートから海まで歩いてみたんですが、津波で流されてしまった場所を見ても何も思い出せなかった。その時に、記憶は自分の内側じゃなくて外側にあると気付いたんです。そのことを最初に扱ったのが「父母姉僕弟君」でした。

記憶というのは私たちの内側にあるのでなく、景色や建物もしくは他者といった外部に宿る。であるならば、外へ飛び出すしかあるまい。思い出を刻むため、もしくは、漂う記憶をかき集める為に。『父母姉僕弟君』は、シンプルにレジュメしてしまえば、死んだ妻との記憶を辿る旅を綴ったロードムービーだ。出会いの瞬間に立ち戻る為、記憶を反芻しながら、ハンドルを握る。奇妙な繋がりをそこら中にだらしなく結び、キッドの旅は続いていく。



私たちの記憶は自身に内包されているのでなく、外側に宿っている。であるから、ひょんなことで、場所や人が消えてしまうと、その記憶がどんなに大切なものであろうと、それは徐々に薄れていってしまう。その残酷さに、どうにか抗うことはできないのか?キッドは、その問いへの答えを、旅の果てに獲得する。

今は、もうなくなっちゃったかもしれないけど、かつてほんとにあって、そのかつてが、今とこれからに繋がりますようにって祈りながら、俺はこうやって、しゃべり続けてて、俺がいつか忘れてしまっても、どこかにそのかつてが生き残りますようにって、俺の知らないところでもたくさんのかつてが生き残りますようにって、祈って祈って、描写して描写して描写して描写して……

忘れたくない天球との出会いの場面を、持ちうる限りの語彙を駆使して、できるだけ詳細に、ヴィヴィッドに描写してみせる。どんな方法だっていい。文章にしたためるでもいいし、誰かに語るでもいいし、歌に、絵に、写真に、映画に、三浦直之のように演劇に託す人もいるだろう。とにかく何かしらの方法で、想いや感情を保存する。もしかしたら、それは大袈裟に美化され、事実とはかけ離れたものになるのかもしれない。しかし、それらはいつしか”物語”と呼ばれ、遠い見知らぬ誰かに届くかもしれない。三木道山のリリックや武田鉄矢の慟哭が、この『父母姉僕弟君』に結びついたように。この途方もない事実だけが、容赦のない忘却の切実さを、そっと慰めてくれるだろう。『父母姉僕弟君』という作品は、”アイラブユー”を信じ抜いた三浦直之からの、何かを懸命に紡ぎ続ける人々への賛歌でもある。



<余談>
5年ぶりに再見して、自分が改めてこの物語にとてつもない影響を受けていることを痛感した。おそらく『父母姉僕弟君』という作品に出会っていなければ、このブログを7年も続けることはなかっただろう。なんでブログを書くの?と聞かれたら、どう答えよう。照れ隠しで、「備忘録です」って言ってしまう気もするが、実はもう少しロマンティックな情景も密かに描いている。私が抱いた”好き”とか”おもしろい”とか”美味しい”とか”楽しい”って気持ちを、忘却に飲み込まれる前になるべく詳細に文章で冷凍保存して、ネットの海に放り投げる・・・それを見知らぬ誰かがたまたま拾って、受け取って、そこからまた何か始まっていく。そんな物語を夢見ながら、今日もキーを叩くのだ。

*1:5年ぶりに再見した印象としては、まったくとっ散らっていなくて、こんなにしっかりした作りだったのか!?と驚いたのだけども