青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ロロ『BGM』

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高校演劇「いつ高シリーズ」、テレビドラマ『デリバリーお姉さんNEO』の成果かくやと言わんばかりに、三浦直之の書く会話がどこまでも瑞々しい。例えば、冒頭で泡之介が語る、金曜夜の恒例であった食事の為の家族ドライブの思い出。エピソードとして圧倒的に”活きて”いる。もしかしたら、この箇所なんかは、誰かの実体験をそのまま語っているだけなのかもしれないが、こういった”活きの良さ”が全編にわたって繰り広げられている。そして、会話が場面を呼び、油が差されたかのように滑らかに物語を回転させていく。これまでになくリアリズムを貫きながら、時にマジカルに、ポエミーに、フランス映画のようなVシネマのような、唯一無二なポップカルチャーの数珠つなぎだ。そんな三浦直之の語り手として成熟に呼応するように、照明、美術、衣装といった各要素もハイレベルに作品を高め合う。ときに、劇団初期作のようなチャイルディッシュな全能感でもって、ワチャワチャと横道に逸れてみせながらも、全体的な口当たりはあくまでスマートでポップ(江本祐介による音楽の貢献も大きすぎるほどに大きい)。ロロという劇団が確実にネクストレベルに到達していることを知らしめた1作となった。


学生時代からの友人・午前二時の結婚式に向けて、泡之介とBBQは車を北へと走らせる・・・あらかじめ説明をしておくと、”午前二時”も“泡之介”も“BBQ”も全て人名である。これはあだ名やハンドルネームなどでなく、本当にそういう名前なのだ。他にもドモホリンクル、金魚すくい、聞こえる・・・といった固有名詞から動詞まで、あらゆる数奇な名前の人物が登場する。この手さばきは三浦直之が高橋源一郎チルドレンであることに起因している。

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

ちなみに高橋源一郎のデビュー作『さようなら、ギャングたち』の主人公カップルの名前は、”さようなら、ギャングたち”と” 中島みゆきソング・ブック”、飼っている猫の名前は”ヘンリー四世”である。これだけで、いかに三浦直之が高橋源一郎の影響下にいるかが明らかになるだろう。深い意味はおそらくない。しかし、このあらゆるものが差異なんてまったく気にせずに横並びにされるような感触がいい。ロロのキャラクターの独特な名付けには、圧倒的な”親密さ”のようなものが流れている。そういった態度は作劇にも強く作用していて、ロロ作品の世界にはおいては、性差とかそういったものはあってないようなものだ。泡之介とBBQのという2人のボーイズは、ごく自然にカップル。そのことについて、周りもとやかく言わない。当たり前の恋バナのようにして語られる。亀島一徳・篠崎大悟のカップルに、「いつ高シリーズ」ファンは、将門と太郎の関係を想起してニヤリとしたことだろう。


話を『BGM』に戻そう。時は2016年、泡之介とBBQは車を仙台に向けて走らせる。車内でスマートフォンに目を落とした泡之介に、「SMAPの解散」の報が飛び込んでくる。このちょうど10年前すなわち2006年、泡之介とBBQは、失恋した午前二時を慰める為に、同じく東北を車で旅した。泡之介とBBQは、その10年前の旅行の道筋を辿り、散らばった記憶を拾い集める。かつての”思い出”を10分間の演劇作品として、結婚式で披露する予定なのだ。現在の時間軸を、2017年ではなくあえて2016年に設定している。「SMAPの解散」のフィーリングを物語に落とし込むためであろう。更に、2006年と2016年という10年間の、そのちょうど真ん中に「2011.03.11」を配置する意図があったのではないだろうか。記憶の2006年から5年後に、現在の2016年の5年前に、あの震災は起きた。『BGM』のロードムービーは、東京からいわき、松島、仙台、石巻と巡る。津波によって風景が流された場所ばかり。しかし、この『BGM』という作品は、劇中において震災についての言及は一切なされず、明るく楽しいエンターテインメントであり続ける。誰1人として失われない物語だ。記憶の中の2006年、海辺にほど近い場所で暮らしていた繭子や”聞こえる”の現在軸での安否が気になる。しかし、2人は当たり前のように2016年においても健在だ(”不在”であった繭子と10年前と変わらず小学生のままの”聞こえる”のあり方はやや幽霊的にも感じるのだが)。あえて、震災の被害の爪痕が大きい土地を舞台に選びながら、何もなかったかのように作劇する。社会から目を背けているようでいて、“あえて”何もなかったかのように振る舞うその態度には、”再生”への祈りのようなものが込められていやしないか。震災で失われた風景、もしくは国民的アイドルグループ、そして過ぎ去った青春。その再生。


かと言って、再生を祈る三浦直之の筆致はちっともノスタルジックに陥ってはいない。確かに、どうやっても時間は戻らないし、記憶は確実に薄れていく。だからこそ、人は言葉を記し、物語をしたため、何かを演じ、歌を歌うのだ。劇中において、午前二時、泡之介、BBQが旅のハイライトを演劇にしたように。綾乃が(大)女優であるように、午前二時の元カレ永井がYouTubeに歌をアップするように。


舞台美術の可動式のストリングスカーテンがユラユラと揺れ、時間や空間が振動すると、過去と現在は織り重なり、交差して溶け合う。過ぎ去ったはずの青春が、確実に“今”に息づいていることに気づくだろう。いや、青春という言葉は、ある一限定的な期間にのみ宿るのでない。

駅についた列車から高校生の私が降りてきた

おしゃべりはつづくよどこまでも

いつかは急がなければならない日がくる

劇中に「青春18切符」のコピーが印象的に何度も登場する。青春18切符の購入に年齢制限はない。18歳を過ぎようとも、何歳だろうと購入することができる。そう、青春はどこにだって、いつだって宿るのだ。その事実は私たちの”さびしさ”をどこまでも慰めるだろう。OK、未来はいつも100%楽しい。



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