青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ままごと『わたしの星』

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私たちはまだ1人じゃない

という劇中での台詞がいたく感動的であった。今作における個性豊かなキャラクター達は、柴幸男がそれぞれのキャストの資質を見極め、あて書きしたものだという。そんな風に、”固有の個性の輝き”のようなもの書き分けながらも、一方では、限定された青春という季節において、彼らは「未分化状態の存在である」としているわけだ。

じゃあ、グーパーしてわかれよう
そうしよう そうしよう
グーパーでわかれましょ、しょ、しょ
いや、これわかれないよ!

行方不明のスピカを捜索しようとする際に登場する、何気ないようでいて、とても印象的なシーン。未分化状態の彼らは、グーチョキパーなどでは簡単にはわかれないのである。そして、今回の再演では削られてしまったが、初演の戯曲には、その「未分化状態」を見事に映像化したシーンが存在する。気持ちを交感し、抱擁するスピカとナナホ。メンバーはその様子に戸惑いつつも、「暑い暑い」「意味わかんない」などと茶化ながら、1人ずつその抱擁に加わっていく。文字どおり「一同がひとつになる」のだ。今回の再演では、代わりに前述の「私たちはまだ1人じゃない」という台詞が登場する。そして、舞台を海辺の学校に変更し、全てが波音に溶けていくような感触を持ち込んでいる。素晴らしいのは、彼女たち10人が決して”仲良しグループ”としての共同体ではなく、何となく否が応に結びつけられてしまった”私たち”である、という点だろう。過疎化した島の学校であろうと、全校生徒が10しかいなかろうと、誰もが諍いなく肩を組むなんていうユートピアのようなことはありえず、他人はどこまでも他人で、時には激しくぶつかりあう。こういったリアリティが、火星移住、シャトルロケットといったSF的跳躍を根本から支えている。


そして、この戯曲の凄さは、「未分化状態の私たちはいとも簡単に代替可能な存在である」という、ある意味においては残酷な真理をつきつけている点にあるだろう。まず、地球と火星という二つの星が代替可能なものとして描かれている。まもなく住めなくなってしまうらしい地球からは、ほとんどの人が火星に移住してしまっている。これまた初演の戯曲から削られたパートだが、火星にはなんと所沢も町田も武蔵小杉も戸越銀座もあるらしい。つまり、火星は少しずつ地球にすり替わっているのである。初演からの大きな変更点として、この公演では、スピカとヒカリという主要キャラクターが1人の役者によって演じ分けられている。「スピカとヒカリは文字通り同一人物である」と錯覚してくれと言わんばかりである。突如として火星に移住してしまうスピカと、入れ替わりに火星から転校してきたヒカリ。文化祭の出し物であるミュージカルにおいて主役を任されていたスピカの消失に慌てる一同であったが、ヒカリが代役を果たすことで事なきをえてしまう。スピカとナナホもまた全く異なる性格を有したキャラクターであるのだが、互いにコンプレックスを抱きながら、同一視してしまう存在だ。「スピカ」という夜空に青白く輝く星が、”双子星”と呼ばれる連星系であることもその証左であろう。スピカはナナホでもいいし、ヒカリはスピカでもいい。いや、かけがえのない存在であるはずの私たちは、誰とだって代替可能なのだ。しかし、それはちっとも嘆くべきことではない。誰とでも代替可能であるからこそ、私たちは誰ともでも簡単に結びつくことができる。


いつも笑っています
でもいつも楽しいわけじゃないよ
もともとこういう顔です

楽しいわけじゃないのに楽しそうと思われるタイちゃん。何でもできる親友にコンプレックスを抱くヒナコ、いつもまとめ役を押し付けられてしまうヒビラナ、好きな子がかぶってしまったケンジとジュン、家族を切り離せないトウコ、同性の親友を好きになってしまうイオ・・・・矢継ぎ早に浮き彫りになっていく、彼女達の抱えるありきたりで切実な問題。それらはありきたりであるからこそ、誰の問題とも代替可能で、誰の心とも強く結びつく。そして、この代替可能であるという質感は、これから先繰り返しこの戯曲を演じていくであろう高校生と結びつき、それを見つめる観客とも結びつく。連綿と続く青春という時間。私たちはあの頃、確かに1人ではなかった。笑ったりふざけあったりしながら、クルクルと回転していた。そんなことを思い出させてくれる、極めて美しい1作だ。



<余談>
素晴らしい。本当に素晴らしかったのだけども、戯曲としての完成度は初演に譲るようにも思う。メタ構造からはじまり、モチーフが混在し過ぎていて、ちょっとわかりづらいような気がしないでもなかった。火星への移住という”生”への希望に満ちた行動をするスピカだが、地球に残される者にとってはその消失は”死“である。ヒカリもまた死に場所を求めて地球にやってきたわけだが、地球の高校生らにとってはその実存は”生”。このような入れ子構造をもったスピカとヒカリというキャラクターを1人が演じ分けるというのは、正直わかりづらい。舞台美術全体がカセットテープを模し、若者らのダンスで巻き戻しや一時停止を重ねながら、「起こらなかったけども、ありえたかもしれない時間」を炙り出していくという演出もまた、実に感動的なのだが、時間軸の複雑な展開が鑑賞のハードルをやや上げていたような。とは言え、HNKのテレビドラマ『中学生日記』にSFの雫を一滴垂らしたような、潔癖でハートウォームな柴幸男の戯曲はやはり唯一無二。加えて、若きキャストの瑞々しさの前ではグウの音も出まい。繰り返し、繰り返し上演され、グルグルと円環運動を紡いでいって欲しい戯曲である。