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坂元裕二『往復書簡 初恋と不倫』

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男女がキスをしている後ろで車が燃えている写真を見たんです。ラブストーリーでも男女だけで成立するわけじゃない。社会で起きている色んなことが作用するし、逆に男女の間で起きていることが社会にも作用している。

これは、是枝裕和との対談(『世界といまを考える 1』に収録)において坂元裕二が語った言葉だ。なるほど、近年の坂元裕二のテレビドラマは、ややもすれば社会派と呼ばれるような題材を常に取り入れている。『わたしたちの教科書』ではイジメ、『Mother』では幼児虐待、『それでも、生きてゆく』では少年犯罪、『最高の離婚』では離婚率の上昇、『Woman』では生活保護・冤罪、『問題のあるレストラン』では女性差別、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』では若年層の貧困・震災・・・作品によっては物語のバランスを崩すほどに過剰な負の描写に注力することもある。

ネロはお父さんもお母さんもいなくて、いじめられたり、だまされたりして、最後には死んじゃうのよ。犬も一緒に。何のためにこんな悲しいお話があるの?


それでも、生きてゆく

フランダースの犬』を読んだ少女の身体を借りて、坂元裕二は自身に問いかけている。何のためにこんな悲しいお話があるの?何のために書くの?坂元裕二がこの度献上した書籍『往復書簡 初恋と不倫』は、そんな自己言及への回答のような作品であるように思える。手紙やメールのやりとりだけで構成された物語。テーマは初恋と不倫。そういったトピックから連想されるようなトレンディでロマンチックな物語、はここにはなく、やはり世界の抱える”痛み”が描かれる。金槌を手にした少年の淡い初恋が陰惨な高速バス事故と結び付き、インモラルな不倫はロシアの自動小銃とアフリカの地雷へと拡散していく。この不帰の初恋、海老名SA/カラシニコフ不倫海峡という2編の物語は”たった一つのこと”を執拗に訴え続けている。何度も何度も言葉を変えて。

誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。

関係がないなんてことはないと思いました。

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。

世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる、と実証されました。メキシコで起きている問題は、日本の食卓に影響を及ぼすのです。

この世界には理不尽な死があるの。どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの。

それはつまり「わたしたちはこの痛ましい世界の一部である」ということ。この世界の痛みは、いみじくも全てが根底で繋がっていて、それに対して無関係でいることは誰にも許されない。かなたの地の戦争や地雷はおろか、すぐ隣にあるはずの、震災や貧困や差別にすら、「経験したことがないから自分にはわからない」と遠ざけてしまう。「実感が湧かない、共感できない、興味がない」と常に無関係や無関心を装うとする。そんな”わたしたち”に警鐘を鳴らす。

なぜ、わかろうとしないのだろう?
そこで傷ついているのは、すべて”わたしたち”だったかもしれないのに。

口にしてしまえば、まるで道徳の教科書のようなそんな指摘に、なんとか確かな重みと質感を宿そうと、坂元裕二は筆を費やしている。ここでの坂元裕二の態度から想起されるのは、やはり岡崎京子である。

わたしはどうしても、はじめのことに立ち返るのです。団地で溺れたわたしと同い年の女の子のこと。
わたしだったかもしれない女の子のこと。

坂元裕二は書き、岡崎京子は唯一の小説集の中でこう書いている。

いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
いつも。たった一人の。ひとりぼっちの。一人の女の子の落ちかたというものを。
一人の女の子の落ちかた。
一人の女の子の駄目になりかた。
それは別のありかたとして全て同じ私たちの。
どこの街、どこの時間、誰だって。
近頃の落ちかた。
そういうものを。

そして、その小説集のタイトルである、「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」という感覚は、この『往復書簡 初恋と不倫』全体に貫かれている”うしろめたさ”のようなものとイコールであるように思える。

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね



坂元裕二は、悲痛な物語を書く一方で、「それでも、この世界で生きてゆくのだ」と思えるような喜びを書き足すことを忘れない。すると”悲しい話”は驚くようにクッキリとした輪郭を形づくり、生々しくわたしたちの心に訴えかけてくる。喜び、それは例えば、食べること。海老名サービスエリアのしょうゆラーメン、ぶりの照り焼き定食、トマトとバジルのイタリアンハンバーグセット、鯵の素揚げ、ポーク餅、冷凍チキン、バニラアイス、亀田製菓・・・と悲痛な物語の中で、必要以上に印象的に描写されていく食べ物の数々。『カルテット』において、”死“の存在を間近に感じながらも、かつ丼をモリモリと食べ、”生きていかなくちゃ”と決意した女たちを思い出すだろう。


もしくは、恋をすること、あるいは、言葉を交わすこと。この『往復書簡 初恋と不倫』は、通常の小説とは異なり、地の文がなく、全てが手紙もしくはメールのやりとりで構成されている。つまり、あの唯一無二と言っていい、坂元裕二の会話の感性がいかんなく発揮された作品であるのだ。どこまでも平行線を辿りズレながら、ときにカチリと噛み合ってしまう会話。すべてを分かち合ってしまったかのようなその交感に立ち会うこと、それこそ世界を生きる喜びと言えるのかもしれない。


そして、坂元裕二ファンとして見逃せないのは、この『往復書簡 初恋と不倫』には、これまで発表してきた連続テレビドラマ作品のマテリアルがそこかしこに散りばめられている点だろう。金槌を握った少年、ガストのハンバーグ、フレール・ジャックの鼻歌、ボーダーかぶり問題、公園のトイレの前で弁当を食べるOLなどなど、愛おしき登場人物たちの顔が浮かんでは消えていく。とりわけ感動的なのは『不帰の初恋、海老名SA』におけるこのくだり。

これから先、こんなに好きな人はもう現れないと理解していたからです。これから先、どんな出会いがあっても、どんな別れがあっても、どんなに長生きしてもこんなことはもう一生ないってわかったからです。そのくらい玉埜くんのことが好きでした。その気持ちは今も減っていません。増えてもいません。変わらず同じだけあります。これからのことも、これまでのことも全部その中に存在してる。そんなわたしの初恋です。


で、ここからが後日談です。わたしの初恋はどうなったか。わたしの初恋は、わたしの日常になりました。例えば長めで急な階段を降りる時。例えば切手なんかを真っ直ぐ貼らなきゃいけない時。例えば夜寝る前、最後の灯りを消すとか。日常の中のそんな時、玉埜くんと繋いだ手を感じているのです。支えのようにして。お守りのようにして。君がいてもいなくても、日常の中でいつも君が好きでした。

ここに息づいているのは、間違いなく『カルテット』における世吹すずめの魂であろう。そう、あの心震える8話だ。
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私の好きはその辺にゴロゴロしてるっていうか
ふふっ、寝っ転がってて・・・
で、ちょっと ちょっとだけがんばる時ってあるでしょ?
住所を真っ直ぐ書かなきゃいけない時とか
エスカレーターの下りに乗る時とか
バスを乗り間違えないようにする時とか
白い服着てナポリタン食べる時
そういうね 時にね その人が いつもちょっといるの
いて エプロンかけてくれるの
そしたらちょっと頑張れる

またしても、満島ひかりの言葉を思い出してしまう。坂元作品において、全ての人物は輪廻するように繋がっている。



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