青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

西谷弘『昼顔』

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互いに妻と夫のある身でありながら、どうしようもないほどに惹かれ合い、結ばれてしまった北野(斎藤工)と紗和(上戸彩)。テレビドラマ版のラストではその罪を罰されるかのように業火に包まれた。あれから3年、北野との一切の接触を禁じられた紗和は、自らの”炎”を静めるかのように、水の豊かな海辺の街で暮らしている。監督の西谷弘は、『任侠ヘルパー』(2012)、『真夏の方程式』(2013)といったフィルモグラフィを見渡しても、執拗に”海”を捉える作家であり、この導入は必然だ。そんな陽光豊かな夏の街に不釣り合いな、黒とグレーを基調としたモノトーンの衣服を身に纏い、声を小さくしている。紗和のその声の小ささを印象づけるように、騒がしい魚屋(渋川清彦)が配置され、職場では絹江(黒沢あすか)に「声が小さい!」と叱咤される。


何にも期待せず、ただやり過ごすだけの生活を送る。アルコールを缶のまま飲み干し、ポストに投入されたチラシの束を眺めながらの夕食、夏の暑さが扇風機を召喚し、その風がテーブルに置かれたチラシをパタパタと吹き飛ばしていく。しかし、それでも頑なに机にしがみつく1枚のチラシ。突如として部屋に侵入した”虫”(ドラマ版における北野と紗和の出会いのきっかけ)が、そのチラシに止まる。目をやると、それは公民館での公開シンポジウムの案内。そこには忘れたはずの人の名前”北野裕一郎”という文字が記されていた。なんたる運命のいたずら。葛藤しながらも、紗和はその講演会への参加を決意してしまう。何てことのない日常の所作を積み上げているだけにも関わらず、映画はとてつもないエモーションを内包していく。ついぞ、2人が視線の上で再会を果たす講演会のシーンもまた、たまらなくスリリングだ。まず、扉を開けると、オフ空間から北野の”声”が外に漏れ出す。次に舞台上のスクリーンに影を差す北野の端正なシルエットが目に飛び込む。斎藤工という役者の得難い武器が、少しずつ画面を支配していき、我々のハートは完全に紗和と同調してしまう。席に着き、舞台上に視線を送る紗和の「見つかりたい/見つかってはいけない」という宙ブラリな心理が、得も言われぬサスペンスをもたらす。そして、見逃してはならないのが、「蛍に家族はいますか?」という聴衆からの質疑に対して、北野がスクリーンに「一夫一妻制」と記すその字が、赤い血色に染まっている点だろう。それは、この物語の血生臭さを予告しているのだ。思い返せば、紗和が纏うモノトーンもまた、”喪に服す”かのようだ。


罪の意識からくる、すれ違いと抑制が、恋の炎をより燃え上がらせる。しかし、禁じられた逢瀬は、実に簡単に北野の妻・乃里子(伊藤歩)に発見されてしまう。その時、乃里子は黒塗りの車からけたたましいクラクションを鳴らす。まるでそれが”出棺”の合図であるかのように。確かな”死”の予感。ここから『昼顔』はほとんどホラームービーの様相を為していく。紗和と北野、そして彼らと四角形を結ぶこととなる乃里子と杉崎(平山浩行)といった登場人物らは一様に、何かを決定的に損なった者として、幽霊もしくは亡霊であるかのように演出されている。この国において”幽霊”となると、”足”という主題を内包することとなり、この映画のタイトルバックはしっかりと紗和の足元を捉えたショットにて挿入される。また、彼らは”歩くこと”を不得手としているかのように、自転車やサーフボードもしくは車に乗せられる。歩こうものならば、駅で、階段で、海で、川で、キャンパスで・・・実に様々なシチュエーションでよろめき、躓き、転倒する。その果てとして、乃里子が車椅子を経て松葉杖というまさに”幽霊”としての完璧なルックを獲得する様が圧巻だ。


そして、罪と罰を抱えながらどこまでも”落ちていく(堕ちていく)”人々として、映画の中に多くの”落下”のイメージが積み重ねられていく。ベランダから放り投げられるチラシ、ラブシーンにおけるベッドからの落下、サーフボードからの転落、投身する乃里子・・・そして、決定的な崖からの墜落。そういった”落下”と対になるように花火、蛍、信号、星空が配置され、紗和と北野はそれを見上げる。この映画において、その見上げる先にいるのは”神”に他ならないだろう。作中における印象的な紗和のモノローグは、全て”神様”という対象に向けて放たれている。紗和と北野が暮らすアパートの面する通りのその入り口には、驚くべきことに”鳥居”が配置され、その周辺は"注連縄"で祀られている。この作品における”神”との対話という構造は視覚的にもきちんと演出されているのだ。罪を抱えながら神と対峙する2人。しかし、恋の万能感に浮かれ、ときにその罪を忘れることもある。北野との“神様が側にいるような時間”を過ごした紗和は、寝そべりながら空に手をかざし

手が届きそう

と漏らす。神はそういった冒涜を許さず、紗和は激しく罰されることとなる。罰され、傷つきながらも、彼女はそれでもなお生きていく。頻繁に登場する調理と食事のシーンは、どんな状況下に置かれようと生きることを止めない強さのようなものが刻まれているかのようだ。最後の線路での転倒の果て、異形の者のような質感を湛えながらも、這い上がるその姿に、生々しい業の肯定を見て取り、激しく心を揺さぶられた。そして、命は巡り、次の世代に。


今年1番の衝撃と興奮。西谷弘の演出力に溜息が漏れる。ドラマ版の登場人物をバッサリと切り捨て、物語を主演2人に絞った井上由美子の脚本も素晴らしい(もしかしたら、高畑淳子のおかげなのかもしれない)。こわれゆく女・伊藤歩、長袖ポロシャツが空前絶後に似合う男・斎藤工も素晴らしいが、何より映画女優上戸彩の誕生に盛大な拍手を。この傑作、見逃すなかれだ。
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